日々雑感

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人生は苦難に満ちた行路か7-57

2010年09月27日 | Weblog
人生は苦難に満ちた行路か

「陰徳を積む 銀行王安田善治郎伝」  北康利著を読んだ。
安田善治郎は1837年 富山市婦中町 鍋屋小路に生まれ、一代で、銀行王と呼ばれる富豪となる。 

金持で、ケチという悪評が安田に対する世評だった。彼が朝日平吾に刺殺されたとき、日本資本主義発達の縁の下の力持ちの役割を果たしたであろう安田の、影の力には目もくれないで、殺人犯を労働組合や支援者達は「安田に負けない葬儀をしよう」と朝日を英雄扱いにしている。時あたかも大正デモクラシーの燃えさかる頃である。

1921年(大正10年)83才の安田は9月28日9時20分朝日平吾に刺殺された。犯人の朝日平吾も現場(大磯の別邸 寿楽庵)で自殺するという事件が起こった。テロに倒れたのだ。

朝日平吾は1890生まれ 当時31才。 結核にかかり、死に場所を求めてさまようところがあった。この事件を引き起こす前に彼は熱海の自殺の名所錦ヶ浦で自殺する直前に、土地の石渡氏に説得されて、自殺を思いとどまっている。

僕は安田財閥という名前は知っていたが、彼がどんな働きをしたのか、またどんな陰徳を積んだのか、そう言うことは何も知らなかった。彼の死後15年経って僕が生まれ、大人の感覚でものを見るようになるまでには更に4,50年の月日が必要だったから、彼をどのように評価して良いのか、判らない。ただ次の事実だけは認めざるを得ない。彼は東大に講堂を寄付した。その経緯は次のようである。

大正9年・1920年講堂建設費用の寄付を表明
大正10年3月5月6日。東大に寄付申し出る。9月28日に死去。
彼の死後、書類箱を整理していた職員がたまたま計画案を発見。
長男の安田善之助が2代目の善治郎を襲名 初代の遺志をついて、大正10年12月に着工。途中で関東大震災が発生。竣工は遅れ大正14年(1925年)7月6日、完成。
それ以後安田講堂は、戦災を免れ、また学園紛争の荒波にもまれながらも、日本の最高学府のシンボルとして東大本郷キャンパスの中心にそびえ立っている。
この寄付を売名行為と見るか、彼の考えた陰徳を積んだ事に成るのか。その見方は人それぞれだろう。それにしてもいわく因縁があり、また数奇な運命を持って現在も東京のど真ん中に鎮座している姿を、安田善治郎は冥府からどんな思いで眺めているのだろう。


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