日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

遍路

2018年09月27日 | Weblog
歩き遍路であれ車遍路であれ,遍路をされた人人の体験談を読んでみると必ずと言って良い程,御礼とか感謝とかいう言葉が出てくる.
普通の観光旅とは違ってこれは物見遊山気分ではできない旅である

ある人は1200キロを歩き通し,またある人は例えマイカーで巡拝すれにしても、山門や本堂の軒下で野宿をするようなきつい旅行をしている人たちが多い.
その人たちが御礼とか感謝とかいう言葉を口にするのだから我々が日常会話で使っている言葉の意味とは少し違うように思う..

普通の観光旅行と違ってかなり厳しい条件の旅をしつつもどうして御礼とか感謝という言葉が出るのであろうか.普通の常識からいうとそこに何か違和感がある.

しかし私が違和感を抱こうとそういう遍路をされている人は心の底から
気持ちを込めてそれらの言葉を口にされるからそれは真実の言葉なのである.
四国88カ所遍路して回る旅はひとつには自然とのふれあいであり
また四国の人々の暖かい人情に触れることでもある

それによって、普段は心のをそこに閉じこめられでしまって心のそこで眠ってしまっている感謝という言葉や気持ちを思いだしたりして人間本来の素直な気持ちになることからいう言葉が出てくるのであろう

いずれの年からか私もまた菅笠や2白装束の遍路姿ににあこがれを抱きバイク遍路を始めるようになった

確かに肉体的には楽な旅ではないが、精神的には今まで経験したことがないようなすがすがしいさを感じる。

もちろんお大師さまには心を寄せて同行二人という安心はあるものの
初めての遍路の旅ということもあって心細い感じもした

私が四国遍路を思いたった理由のひとつに先祖供養ということがある
今は亡き父母や父方や母方の祖父母の菩提を弔うために写経をしてそれ
を本堂と大師堂に納経するために遍路したいのである

単なことではあるが、写経100枚はそれなりに我慢のいることであった。100枚目が終わったときに私はまずありがとうという言葉が口から出た、さあ出来た。やれやれ。これでいけるという前に、ありがとうが出たのだ。何故だかわからないが、ごく自然に腹の底から出た言葉であった。

ひょっとしたら お遍路さんは今の私のような状態でごく自然に御礼の言葉が出たり感謝の言葉が出たりするのではなかろうか。
意図していう言葉ではない。自然に口をついて出る言葉である
もちろん遍路には人それぞれの目標がある。それが成就されたとき
には、感謝の気持ちが湧いてきて当然だ。

そして目的成就を考えてみるとそこには同行二人つまりいつもお大師さまが側にいて、付き添ってくださりそのおかげで満願成就したという実感もある。
理由はなんであれ物欲に振り回されいつも飢餓状態に置かれている現代人が幸せのもとである感謝の気持ちを取り戻したあるいは自覚したというのなら現代人にとって遍路することこそ幸せへの近道ではないかそんなことも考える。

さて私は8月末の天候にはいらいらしている。あんなに暑かった日照りの続いた今年の夏は早衰えて秋雨前線が2、3日おきに雨を降らせている。バイクで走るには雨の日は都合が悪い。雨で写経がぬれて字がにじんでしまうことも考えられるし、なによりも道が滑って危ない。
そこで私は天気の日を選んで巡ろうと思っている。

それにしても長いあいだ忘れかけていた感謝の心を教えて、とりもどさせてくれた四国遍路には感謝したい気持ちでいっぱいである
お大師様ありがとう。四国遍路ありがとう。








歌雑念

2018年09月24日 | Weblog

知識人は感傷という
だが有力な感傷など何になろうか
泣く代わりに歌うことで人々は耐えて生きることができる

プロデューサーの立てた企画を最も効果的にレコード化することだ

レコードは商品だが歌はそれだけのものではない

良い歌を作るのは人間の感動である電子計算機で大衆に愛される歌はできない

会社は歌の本質は何かという議論には関心がない

どうすれば売上を増加できるかそれだけを考えているそれが仕事である

レコード会社の不振は制作部門における企画の貧困にある

レコード制作に関するすべてはディレクターに一任これを改めて新たにプロデューサーシステムを作る

作詞作曲の専属制度を廃止してアーティストの自由な交流を図る年功所属にこだわらず企画内容にふさわしいスタッフをその都度ピックアップして適材適所を使用する

コンピューターシステムによるレコード情報センターの新設

レコードの企画はベテランの経験や勘に頼るやり方を改めて科学的な分析と予測を重視する

作詞作曲歌手のキャスティングから作品の傾向内容まで売上の選定プレスの適正な数量までを決定する

販売面の合理化パソコンを導入して事務の簡素スピードか在庫の適正化売り切れの防止生産販売計画の精密化を実現する

おごった心では演歌は作れない

流行歌手というものは生きていることの楽しみを心の底に叩いていなくてはならない

演歌調の歌に根強い嫌悪感とある種の共鳴を同時に感じている

組織の中にいる人間でも心情的に孤独なやつは演歌に惹かれる

孤立無援の人間の歌

演歌を無視したところで日本人のナショナルソングは成立しない、

演歌のどこがそんなに極悪なんだろうか
浪花節みたいに唸るところなんかとても子供達には聞かせられない

演歌は押さえつけられ差別され踏みつけられている人間がその重さを食いしばって全身で跳ね除けようとする唸り声みたいな感じだ

大組織の組合にも属さない宗教ももたない仲間の連帯も見出せない人間そんなバラバラで一人ぼっちで生きている人間が変化を必要としているんだ

艶唄とは恨み歌でもある

庶民の口に出せない怨念や悲しみを艶のある詩曲に転じて歌う転じるるところに何かがある

泣く代わりに歌うのだ無力な干渉と知識人が言うが有力な感傷など何になろうか

これから大衆に迎えられる歌を作るのは合理的なシステムとコンピューターだ

歌は心だなんてセリフは古い浪花節の中の文句だ

これからは組織と集団が歌を作る

外国のヒット曲を分析しデータを整理し外国とは国の社会状況の落差を計算して味付けをする
それを強引な電波媒体の利用で大衆に上から流せば大衆は必ずついてくる

手作りのお歌一人一人の人間が作る歌そして自然にじわじわと人々の中に広がってゆく歌それが僕の考える歌

歌謡曲流行歌ポップスフォーク演歌何でも構わないけれど歌を作る仕事を産業にまで高めた

時代遅れの演歌が廃れていくのは歌のせいだけではないそれを支える精神風土がもうこの世ない中に受け入れられなくなってきた

恨みつらみの演歌が時代は間違いなく進んだが大事なことを置き去りにして進んでしまった

受けたのは昔の話今はそんな時代ではない

近代化合理化もいいけど何かがこぼれをしているそいつを拾って集めて一つの時代遅れの歌を作る

彼は音楽を産業にしてしまった流行歌は商品でいいがそれは手作りの血の通った商品でなくてはならん

音楽のための産業と産業のために音楽を利用するのとは違う小学生や高校生の子供にとって音楽は水や空気みたいになくてはならんものである

フォークやロックの引き出しの中には音楽が人間の意識を変え世界を変えると考えている

ポップスの分野に登場してきて圧倒的に若い音楽ファンの共鳴を集めている新しいグループのバックで少し目先の変わった LP を作りたい

仕事を着実にしてレコード界や
楽会での自分たちの地位を築こうとかうんと金を稼ごうとか言った気持ちはまるで持っていない

あくまで自分たちの音楽をエンジョイするために演奏しその楽しみのおこぼれが仕事だと考えている

今の歌手は歌の心を忘れているよ作っている連中が皆そうだ外国の流行ばかり追うかけて本当の人間の心を歌う歌をどこかへ置いてけぼりにしてしまった

演歌は古いと言うが古いものは古いだけの値打ちがある本当はみんなが演歌を好きなんだそれをごまかして新しいカっているだけだ

口で演歌をけなしながら自分一人になると演歌を歌っている

若くても年寄りじみた曲を作る人もいるし年をとっても若々しいメロディーを持っている人もいる

歌は心だなんて言ったって誰も今頃は振り向くはしない

血も涙もない合流主義者の作った音楽が人の心を打つことがあるだろうか

新しい時代には新しい歌が起こる演歌だって変わっていく悔しい思いをして生きている人間がこの日本に残っている限り演歌は滅びない正しい形は変わっていくだろう

当時流行っていた歌の文句を聞いているうちにドット涙が出たたわいない話である


1968年以降オリコン年間シングルチャートに100位に入らないレコード会社の撤退演歌歌手のリストラ

60代後半から70代以上の高齢者限定のジャンルになる

2010年以降は年数回
ものまね紅白歌合戦

に日本の歌テレビ東京
あなたが聴きたい歌のスペシャル TBS

毎日演歌のレギュラー番組を自主制作する会社
千葉テレビテレビ埼玉

新歌謡曲
j-pop の中に勝手の歌謡曲の様子を備えた歌が復権する

1970年代ジャンルの細分化精鋭化が激しくなって

歯が持っていた普遍的で視野文学に通じる要素つまり子供から高齢者までがぬこの身に口ずさむ様子は重視されなくなった

歌謡曲の全盛時代1970年代
スター誕生レッツゴーヤングザベストテン
テレビとの結びつきが子供から年寄りまで国民的ヒット+生まれる

アイドル歌謡を聞いて育った戦後生まれは中年層になってもロックフォークなどで演歌を歌わない

2000年代
YouTube や Web 上の音楽配信のために CD が売れなくなる CD 不況

1970年代歌謡曲の全盛
1990年 j-pop 全盛


六十歳定年

2018年09月24日 | Weblog
六十歳定年
今は少し伸びて65才になっているようだが定年後は何もすることがない健康なうちは暇を持て余すよりは仕事をして働いている方が健康にも良い

小人閑居して不善を為すと言う

何かすることがなければしかもその仕事は社会的につながった仕事である場合は意欲が出てきて健康維持に役立つ

人生やりたいこともあるだろう
また毎日出勤するのはちょっと体にこたえるだから週に2、3回程度で良い労働だと思う個人差はあるけれど一概には言えないけれど
やはり暇を持て余すよりは社会参加をしている方が健康維持には良いように思う
暇であるということは耐えられない部分がある

もちろんこのことについては個人の事情が大きく作用する趣味とか生きがいとか健康とかの事情は人それぞれによって異なる


死刑存置論と死刑廃止論

2018年09月19日 | Weblog

.死刑存置論と死刑廃止論

 あらためて、死刑制度に関する国民の意識をみてみると、約8割は死刑に賛成で、約1割が反対の立場を示しているといわれている。


現在わが国では行われていない、仮釈放のない「終身刑」が新たに導入されるならばという条件のもとでは、死刑廃止に反対が52%、賛成が38%となる。

その限りでは、死刑の代替刑としての終身刑に対する肯定的評価がうかがえる【出典:「平成26年度 基本的法制度に関する世論調査」(内閣府)(https://survey.gov-online.go.jp/h26/h26-houseido/2-2.html)】

 さて、そのような国民の意識のもとを探るに、死刑賛成・存置論の論拠としては、以下のような事柄が挙げられよう。

まず、人を殺したものは自らの命をもって贖うべきことは国民の法的確信であるとの考え方であり、また、死刑の存在によって殺人等の凶悪犯が抑えられているという、その威嚇力による犯罪の抑止効果であり、さらに、そのような危険な犯罪者から社会を保護する最終的かつ有効な手段であるとの考え方である。

これに対して、死刑反対・廃止論の側からは、国家が法律で殺人を禁止している以上、国家による殺人を肯定することは背理であり、これを断じて認めることはできない。また、死刑に犯罪抑止効果があるということはこれまで立証されておらず、むしろ死刑になることを願って殺人を犯す犯罪者がいるのは事実である。

そして、誤判の可能性は否定できないところ、死刑執行の後に誤判が判明した場合には取り返しがつかない、との主張がなされている。

 しかし、これらの各側のいずれの見解も、その主張するところの論拠としては十分なものではないといわれている。

社会契約説の論者の間でも、賛成論、反対論が相半ばするのであり、犯罪の抑止効果についても、有意なデータが出ている訳ではない。誤判の問題についても、たしかに廃止論の主張は納得させるものであるが、

他方、無期刑の受刑者が長きにわたり収容され死亡した後に誤判が判明した場合と比較して、いずれが残酷であるとはいえないであろう。
インターネットから引用

死刑は目前に死がある。人間の死に対する恐怖は無期刑によって命の生存が保証されるのとは、

命を奪われるのとは、恐怖心、人間心理に大差がある。この大差が意味を持つ。この大差が被害者感情であり、社会正義なのである。

被害者意識と社会正義はどんな理由があろうとも譲れないものである。殺人者は死刑を前にして死の恐怖を味わうのは当然だ。
これは被害者に与えた恐怖と同じものだ。

死刑制度があるのは当然だ。廃止論者には正当な理由が見いだせない。

緊急時対応の出社退社

2018年09月18日 | Weblog
緊急時対応

地震や台風などによって災害が世雄される場合に、

出退勤が大変だのに出社する必要があるのか。

出社困難者や帰宅困難者を招集する会社は一体何を考えているのか。

必要とあらば、振替休日という手もある。

社会全体が混乱に陥ることがわかっているのに、仕事と社会混乱では、どちらが被害をもたらすか

大災害の時は緊急職員の出社は必要だが、普通の会社は自主休業にすべきである。

東京や大阪で大災害が起こると、人命に多大な損害が出ることは目に見えている。

近頃身障者がやたらと目につく

2018年09月17日 | Weblog
近頃身障者がやたらと目につく

それはその数が増えたからというのではない

気が付くのはこちらの事情である

腰が痛い,目が見えにくい,足が痛い,歯がガタガタ.そんな老化現象である

若い頃はそんなことはなかった

身障者には気がつかなかったし見向きもしなかった

気にかかるようになったのは,

自分の体が弱って自分以外の弱った人々に目が行くようになったのである

年をおいて体力は弱まり,

始めて今まで普通に思えていたことが恵まれていたことだったんだということがわかった

夢は続く

2018年09月17日 | Weblog
夢は続く

若い頃生きてることの意味が分からなかった。

生きる中で夢が芽生え花咲くことも夢見ていた

年を経て世の荒波に揉まれても夢を見る

青春の日々はロマンチックで幾星霜を越えようとも、夢に生き夢を追い求め続けている私

夢は続くどこまでも果てしなく

青春をくぐり抜けて,今は中年と言われるような生活の中で見つけた夢は,

つぼみでもいいがいつか花になる。

殺人者は人間ではない。

2018年09月14日 | Weblog
意味の分からない犯罪者・殺人者が増えている。犯罪を起こすにはそれなりに理由があるはずだ。

その理由が常識では理解できない。

つまり善良な市民には災難としか言いようがない。そんなものを野放しにしてよいものか

町中に熊が現れたらどうするか。危害を加えるだろうという想定のものに

射殺するじゃないか。

殺人者も熊も何ら変わるところがないときは、警官は積極的に犯人を射殺することが

社会の安寧にとって必要だ。拳銃の使用が適正だったかどうかなんていちいち釈明する必要はない

古本0

2018年09月11日 | Weblog
本は一回読むと価値が下がる。

赤線を引こうものなら、古本屋でも買い取ってくれない

ダンボールいっぱい60冊の本を売りに行った。結果買取価格は5円だった

あまりにも安かったので、しばらくは不要の本でも売りに行くのはやめにした

本というのは一回読めば、もうそれだけで商品価値を失うものなのだろうか

若い時に読んだ本でも、老年になって読み返してみる、理解のし方が多いに違って、、、、ということがしばしばある

新しい発見もある。経験によって赤線の弾くところも違うし、感激したり、感銘を受けたりする箇所が随分違う。

古本として売る前に、もう一度読んでみると、5円や10円で売るのはためらう

しかし本は狭い部屋を更に狭くする

。困ったなあ.処分しないと置き場がないし。

そうかといって5円や10円で売るのは、本がかわいそうや、

詞か曲か

2018年09月10日 | Weblog
歌を聴いていると詞にひかれるか、メロディーにひかれるかと自問することがよくある。

ビートルズのポールマッカートニーさんによれば、メロディーは詞に勝るという。

僕も詞によってメロディーは起こされるが,歌が出来上がってみると、メロディーの美しさが心にしみる。

詞か曲かの論争はナンセンスだとは思うが、一般の人々に与える力はメロディーの方が上位に立つように思う。

そこでポールマッカートニーの言葉にかえるのだが、メロディーの美しい方が一般的に受け入れられるから、詞に比べて優位に立つと思う。

洋服の仕立てに例えると、生地がいくら良くても、仕立てがまずいと売れない商品になるのと同様に、

仕立てが良いと生地の粗末さはある程度ごまかせる。詞を生地に、曲を仕立て屋に例えると、作品の完成度は仕立て屋の力だと思う。

エンマさん0

2018年09月10日 | Weblog
エンマさん

エンマさんは、魂の世界に帰ってきた人間を生前の行いに照らし合わせて、さばくと言う。
そのエンマさんを中心仏として祀った寺が白毫寺である。

奈良市の南のほうにある、高円山の中腹にあるこの寺の、お堂の中心に鎮座されている閻魔さんは見るからに、謹厳である

地獄極楽という世界があるのか、ないのか知らないが、閻魔さんが司命、司録を使っている

姿を見ると、そんな世界もあるのかなと改めて考える

エンマさんで有名なこの寺は高台にあるために、眺望はすこぶる良い。風は下から吹き上げてくる。

ベンチに腰掛けて、市街を見下していると、ひょっとすると、今眼前に広がるのが

極楽世界かもしれない。そんな気がした。

穏やかな気持ちに包まれて僕は寺を後にした

寝る前に聴く初恋0

2018年09月09日 | Weblog
寝る前に聴く初恋

心を安らかにするために、落ち着いて綺麗な曲を聴きながら寝ることにしている。

歌は初恋石川啄木の詠んだ詩に、越谷達之助が作曲。歌唱は声楽家家上浪明子の諸氏。

曲名は、初恋。

幼い日の初恋を思い出す。あの心豊かさ、あの時代に我を連れ戻す懐かしさに,涙ぐむ思いだ。

人は誰でも一生に一度は初恋を経験する.

その当時の自分の心情に、現在の我を引き戻すと、心が熱くなるのが人情だ。

そういう思いに浸るとき、人は心豊かになる。心の安らかさ、若かった純粋だった、

自分に戻れるだけでも幸せなことだ 。

地震放送を見て

2018年09月08日 | Weblog
tvニュースを見る限り、毎日毎日地震の惨状を放送している。

もう見飽きた。やるせない悲しみがこみあげてくる。どうしようもない。

まだまだ予知はできないのだろう。暗闇のなかで、手探りで右往左往しているのが現状だ。

一方的に被害を浴びるほかはないのだろうか。情けない。

こういう災害に遭って、水電気のありがたさが身にしみる。

あと30年も経てば歌は

2018年09月06日 | Weblog


初めて聞く歌はよほど訴求力が大きくないとリピートして歌われることはない.


昔覚えた歌は質が高かったのか、感受性の強い時だったのか、良い思い出の歌になっている。

こういう背景が今のテレビ局の選曲の基準になっているようだ。

30年から50年昔に流行った歌を、そのまま歌手を変えて再生しているに過ぎない。

それが現在のコンサートである。おそらく今の歌は馴染みが少ないから不人気なのだろう。

当代の歌がお粗末なのもそうだろう。

会場の観客もテレビを見ている人もやはり自分が懐かしいんだ懐かしい歌を求めている

現代の新曲に詩や曲を求めても昔のような質の高い詞も曲も生まれて来ないだろう。

これじゃ音楽産業が廃れるのも自然の道理の筋書きで、当然のことかもしれない。

何か良い方法はないものか。

あと30年も経てば歌を聴く人もいなくなるから歌は自然消滅だ。

台風一過

2018年09月05日 | Weblog
大阪は通過するまでの約1時間はすごい風雨だった。

大木は倒れなかったけれど、枝は吹き飛ばされて何本も折れた。いつも群れをなすカラスは

昨日はどうしたのだろう。鳴き声も聞こえない。

台風が来るのを察知して、どこかに避難したのだろう。人間はデータによって知るが

彼らは本能で察知するのだろう。うまく台風をやり過ごして、何事もなかったように、

今日はいつのもの場所にやってきている。

科学が発達してない頃は人間も本能察知をしていたのだろう。

いずれにせよ災害をさける方法は原始的だが、ちゃんと備わっている

文明のおかげで自然環境が変わり、人間は安全を期しているが、それでも今回の台風で11名が死亡した。

森のカラスがこの台風によって死んだという報道はない。

そこで考えた。文明にぺったり張り付くのもいいが、文明利用と同時に、危険察知の本能を

意識するのも悪くない。両方に頼って身の安全を守ることが大切だ。