日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

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2018年06月29日 | Weblog
ほぼ10年間書き続けた。その結果は視聴者が33万人100万編が読まれたそうである。
途切れ途切れの部分もあったがよく続いたと思う。
一体誰のために書いているのか。今となっては孫のためである。

だから世の中おもしろい0

2018年06月27日 | Weblog
          淫行も均等で、二五歳の女性送検

 二五歳の女性が一八歳の少年に、性的交渉を迫り、その少年を追いかけ回して警察に捕まり送検されたと言う夢の様な事件が起こった。
蛙が蛇を飲み込んだ類いで面白い。時として人間社会では面白い事が起こる。
私は何故こんなことが起こるのか、神様にお願い方々聞いてみることにした。
「神様。女が男を追いかけ回して性交渉を強要するという、面白い事件が起こりました。神様が人間に授けなさった性エネルギーの発現形態が違っているから、男は能動的で
女は受け身だとばかり思って参りました。が、これをみる限り、男女平等です。
神様。よくぞ、このことを今度の事件でお示しくださいました。何でも平等平等と言う御時世、それも結構でございます。
 そして願わくは、たとえ十年間だけでも、結構でございます。性エネルギーの発現形態を逆にひっくりかえして、つまり、女が能動、男が受動と言う形にはしてもらえますまいか
そうすると世の中の有り様が様変わりするのではないかと思います。
我々男には手出しができると言う特権がありますが、時としてそれは手負い傷となって心はうずきます。能動的に、積極的にモウションをかけると言うのも気分の良いこと
ばかりではありません。特に小生の様な、この面にかけてはドジな男は、自分で手だしするよりも、むしろ先方から、モーションを掛けられる方が気が楽です。気にいれば
うけりゃいいし、気に入らなきゃノーサインをだせば良いと言うのは気楽なもんですぜ。 それに自分のモテ具合が分かるのも自分自身を客観的に眺め、評価する上で必要な事
だと思います。
それよりも神さん。なんでっせ。現代の社会は男と女の現状に合わせてフィックスされているから、逆の行動パターンになると、いろんなところでチグハグがでて来て面白いじゃないですか。
何ですか。お前は暇人じゃと。仰せの通りです。
齢も五十を越えると、普通ならば第一線を退かなきゃならん年代。どちらを向いても
楽しい事などありゃしませんよ。金をかけた子供は巣立つわ、住宅ローンの支払い
はまだ残っているわ、それにくわえて自分たちの人生に向けて、なにがしかの準備
をせにゃならんわ、それはそれはほとほと疲れます。その上、心ときめく様な事が、
日常生活の上に起こってくるかと言えばそんな事一つもおこりっこない。せめて世の
中をひっくりかえしてみて、何か面白いものはないかと探すぐらいがオチです。
立場が逆になると言うのは逆転の発想にもなり、新鮮な気分にもなること必定、
中々面白いとはおもいませんか
 神様は私と違って、この位のことをするのは朝飯前の筈。一度いたずらにやってみられたら如何です


93・5・1・

ソノ後について

23年9月から大阪府の調査によるとある女性は性的衝動を抑えきれずに性交にに及んだという。いつの世でもおもろいことが起こるものだ。怒りよりも笑っちゃう方が先立つ。

平成30年6月25日









自由に生きる0

2018年06月27日 | Weblog
自由に生きる

ゲタをはいて着物を着た人が、大山澄太、その人だとは私は知らなかった。中々上品な風貌で知性が漂っていた。とても80歳を越えた人には見えない。
「お宅も作曲したりして自由人ですな。」
「いやいや、これでなかなか苦しいんですよ。」
「延命十句観音経が合唱曲になるなんて、びっくりしましたよ。なかなかやるじゃないですか。」
「ありがとうございます。この娘たちは今日もコーラスで延命十句観音経を歌いますが、いま手元にこの娘たちが吹き込んだテープがありますので、差し上げたいと思いますが、どうか貰っていただけませんか。」
「それはどうもありがとう。松山に帰ったら、山頭火の本を送りますよ。お礼に。」
「それはそれは、ありがとうございます。どうかよろしくお願い致します。」
間もなく松山の消印ご押された小荷物が私の手元に届いた。茶色の紙に紐を掛けた包みをほどくと、本が2冊出てきた。その本のページには、便せんにひょうひょうとした文字で、本を贈る旨が書かれていた。
多少とも仏教と芸術に関心を寄せている私ではあるが、山頭火は失念していた。緑色の表紙には、黒い文字で山頭火と表記されている。

山頭火。漂白の俳人。頭蛇袋を首から下げて日本全国を放浪し、心に去来する想いを自由律の俳句に託した徹底人。その生きざまは西行にも似て、一種のあこがれさへも感じさせてくれる。自分の人生、時空を含めて、自分の欲するままに生きた人。生涯は貧しさと引き換えに、いつも心の自由を確保していたことだろう。大山澄太も彼にあこがれて著作したのだろうが、私も同じく彼の心の自由さにあこがれている。生き方をよく考えて人生をすごさくちゃ、とつくづく思った。
山頭火は私に良い見本を見せてくれている。大山さんも良いことを教えてくれたものだ。
そういえば、かって、山田耕作先生は
「歌詞といえば詩人はすぐ定型に当てはめて作ろうとするが、付曲する側、つまり作曲家は定型に縛られてたまるものか。メロディの流れには、それ自体に必然性があり定型よりは自由律の方がよい場合だっていくらもある。」といわれたのを思い出して、大山さんの「山頭火」を大変ありがたく思った。

高野山1

2018年06月25日 | Weblog
高野の町は西の大門から、東の奥の院まで歩いても、距離的にはしれている。

こんな快適な日は木の香りのする山道を歩くのは、それだけで幸せである。

金剛峰寺の前の広い駐車場には今日も沢山の観光バスが停まっている。ということは大勢の観光客が全国津々浦々からこの山に登ってきた事の証拠である。

最初に書いたように真夏の暑さをもろに受ける都会や町などに住んでいる人が、観光を兼ねて、避暑に来るには高野山は、もってこいの場所である。

それはそれで良いのだけれど、せっかくここまで来たのなら、お大師さん(の生き方や、教え)を知ってほしいと思った。

昭和30年代以来、バブルがはじけるつい10年前まで、高度経済成長を支え、それに己を没頭させて、今定年を迎えつつある世代は、会社を退職すると、生き甲斐を見失う事が多いようだが、経済成長を突っ走る事にのみが人生ではないことにようやく、気付き始めている。

特に平成時代になって、経済的な不況が続き、将来の生活に不安がつきまとう時代になると、今まで自分たちのやってきた事が、果たして自分や家族を幸せにしたのかどうか、考えざるを得ない。今定年組は漠然とではあるが、そのような疑問を持っている。

 高野山は確かに、夏は涼しい。涼を求めるのもいいが、それだけだと下界に下ると、
人生は何も変わらないのではないか。単なる一時しのぎの時間を過ごしたにすぎない。
ここにこうして登ってきたのも何かのご縁によるものだと思いたいし、よい機会だ。


一生一度しかない人生だ。生きていて良かったと実感出来る人生を過ごしたいものだ。

それにはやはり自分の問題として、生き方を考える必要がある。経済不況にぶっつかって、漠然とではあるが、今までの生き方に疑問を持つ今が、チャンスである。

もう一度今ここで己の人生を見つめ直して、生き方なり、価値観なりを再点検してみたらどうだろう。お大師さんの教えについて考えるのに、一番ふさわしいのはやはりここ、高野山だ。

高野山は確かに、夏は涼しい。涼を求めるのもいいが、それだけだと下界に下ると、

またあくせくした日常生活に巻き込まれる。一時の快適さを味わうだけに終わってしまうではないか。人生は何も変わらないのではないか。また同じフレーズが頭を駆けめぐった。

余計なお節介だという声も聞こえそうだが、僕はこういうことを考えながら、杉の木立でひるなお暗い奧の院の参道を一人で歩いて行った。


余り多くの事を考えても、お大師さんの言われる実践が伴わなくなる。それでは意味がない。せっかくここまで来たのだから1つや2つは役立つことを学んで帰らなくては、
今回ぼくがお大師さんから学んだことは、

1,こだわるな

2,まず行動せよ。実践するから何かが判る訳で頭で考えていると本当の意味が分からない。物事の理解に限界がある。

3,生かされて生きているのだという事実
のほかに般若心経の’空’と言うことに付いて、もう少し勉強したかった。「空」はいつも意味がこんがらがって訳が分からなくなるのだ。

「スカッと腹に収まるような理解をしたいので誰か教えてくれませんか。」そんな呼びかけをしたかった。

 夏に冬のことをいうのも変な話だが、冬の高野山の寒さは関西では格別のようである。寒いときには零下10度まで下がることだって珍しくはない。その中で人は修行する。

己の精神を見つめ、磨くのだ。恐らく生きる意味を問い直すことを経験するだろう。か言ってそれを自分がやるとなると僕は遠慮する。そういう形で人生を見つめ直さなくともそれなりに生きていけるからだ。

だがお大師さんは電気もない、ガスもない、灯油もない1200年も昔にここを住処とし、道場を開かれたのだ。修行の道場、精神を磨く場、だったのが今は観光と避暑の格好の地となっている。

これでいいのか。我々庶民はこのくらいのことしか出来ないのだ。だから僕はお大師さんを拝む対象にしているのだ。こんな巨人と並べ比べようなんて、どだい無理な話である。

距離は100億光年だけれど、智慧だけは借りたいものだと、虫のいいことを考えながら木洩れ日も少ない、夕暮れの奧の院の参道をバス停に向かって引き返した。

沖縄平和祈念像讃歌1-16

2018年06月23日 | Weblog
沖縄全戦没者追悼式

73年目の「慰霊の日」を迎えた23日、沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園には、早朝から多くの遺族が訪れ、犠牲者名が刻まれた「平和の礎(いしじ)」に向かって手を合わせた。
インターネットより引用

今日は平和祈念堂では高名な作曲家・渡久地正信先生の沖縄平和祈念像讃歌も

披露されたのではなかろうか。

話は最初記念像だけでは物足りないから歌を作ろうという流れになったそうである。

その委員会の席上で、たとえばこんな祈念文ではどうだろうかと、自作の詞を

ご披露されたところ、良い作品だからこの作品にしようと衆議一決したらしい。

あくまで参考にでも成ればという気持ちから提出したことだから、

衆議一決には我ながら驚いたと、先生は話してくださった。

僕は1読してこの詞がいかにすばらしいものか感動した。

「いま皆が里に諍いを捨てん。見よ、白雲の果て 聖なる空に 沖縄の風さやかに歌う」

のフレーズには胸が熱くなった。これこそ渡久地従軍戦士の平和希求への心の叫びであると

確信した。日頃の先生との会話から先生の誠の願いが詠み込まれていると思ったからである

余談ながら、作曲は沖縄出身の在アメリカ⒉世の方がされたと聴いた。いやこれも先生の作曲に違いない。第一曲がきれいだから。先生らしい曲だから。

1970年代の作品である。 全文を書いておこう

          沖縄平和祈念像讃歌

諸人の願い 天地もなびく

いま皆が里に諍いを捨てん。

見よ、白雲の果て 聖なる空に 

沖縄の風さやかに歌う   渡久地正信著 島どう吾ん宝   より引用

へッドライト0

2018年06月22日 | Weblog
            へッドライト

こんにち、車に乗っていてスピード違反を一度も経験した事ガないという人はまず、いないだろう
運わるく、スピード違反取締りの警官につかまったか、いないか、は別にして、車の流れに沿って走るなら最高速度制限時速40Kmでは.もたもたしていて、とても走れたものではない。
誰が車の流れを作るのかわからないが.4OKmの速度制限を無視した形で、一群の車は流れている。夜間か昼間か、空いているか混んでいるか、色いろな道路状況にもよるが、まぁ普通50Kmから60Km ぐらいで 走っているようである。これはスピード制限をうわまわっていることは事実である。しかしこれが自然な車の流れみたいである。
猿が高い所へ登りたがるのと同様に人間は、出来るだけ早いスピードを出したがる本能みたいなものを持っているらしい。事実、直線道路で前方が空いていると、いつの間にか50Kmをオ一バーしているがこれ人間の習性ではなかろうか。しかし諸般の事情を加味してスピード制限を科学的に割り出してみると、安全速度、4OKmということになるのだろう。この科学的数字として表示される速度と、人間の本能もしくは習性によって来るところの速度、あるいはそのときの道路状況の判断による速度との食い違いは、時々ネズミ捕リという不人気な方法でもってしても是正する必要があるのだろう。

 対向車がさかんにライトを点滅させてこちら側に何かサインを送ってくれているのに気がついた。  
ハッとしてブレーキを踏みスピードをおとし制限速度内の40Kmすれすれにした。
どこに警官がひそんでいるのか、見渡したが姿は見えない。だが、道路の端の方に細いコードが這っていたから、恐ら合図を受けたあたりだったんだろう。スピードを落した地点あたりが、見張りの警官が居たところに違いない。
 やられた、と思ったが、パトカーや机を並べて十人ちかくの警官のいる前を呼びとめられることなく通過出来た。
見れば、3、4人が机の上の書類にむかって不気嫌な顔をして何かを記入していた。 いずれ五千円以上の金を指定金融機関に支払いに行くことになろう。法治国家において、自分が法律違反をして罰金を払うのは当然だが、腹の中はもっていき場のない悔しさや腹立たしさで一杯だろう。と、思った途端、ライト点滅によって事前にネズミ捕りを教へてくれた行きずりの対向車の運転をしていた人の親切心に感謝の気持ガわいてきた。
御礼の言いようもないから.私はこの感謝の気持を対向車線で.ネズミ捕りを発見した時は必ずライトを点滅させてサインを送ろうと思った。警官を向うにまわして取り締まられる立場にある市民が協力して.ネズミにならないようにする、これ、生活の知恵とでも言うべきか。
それにしても全く不特定の市民が協同して警察の網にひっかからないようにすることは.共同戦線をはったというよりはそこに何か人間らしい温かさのある連帯感を感じるのは、恐らく私一人だけじぁあるまい。
法を守る精神を持つのは、市民として当然の事ではあるが、法に縛られて身動きが出来ない、つまり人間の自然の情までも法によってガんじガらめに縛りつけるのは如何なものだろうか。
他人に重大な影響を及ぼさない範囲で.順法精神を忘れずに、ある程度の弾力性を持たせて法を理解するのが市民生活の知恵ではないだろうか。 
 少なくとも私はこう考えて生活している。赤信号みんなで渡れば怖くない、というのではない。私の場合は赤信号を見ると安全性を必ず確認して危険がないと確信が持てたときしか赤信号を渡らない。

金色堂追想ー0

2018年06月21日 | Weblog
金色堂追想ー



一瞬の出来事だった。鬼気迫るように感じた。すごいオーラが体を突き抜ける。

心は一瞬立ちすくんだ。髪の毛は天をさして逆立ちしている。

無言の世界。異次元の世界、幽界か冥界か。

恐れをなして人が金色堂に戻ってきて欲しかった。

どうして堂内で空白が生じたのだろうか?

誰かほかにこんな体験をしたことがある?

帰宅してから、不思議体験を五線紙に書き留めておいた。それがこの作品である。

ワットアルン

2018年06月20日 | Weblog

気品と優雅さあふれる「ワット・アルン」の美しい姿に魅せられて、私の旅はどれほど慰められ、癒されたことだろうか。

通い続けた10年の歳月を思うとき、その優しさと懐かしさがこみ上げてくる。  

この聖なる仏塔がタイ国や、タイ国民にとどまらず、ここを訪れるすべての人々に、平安と安寧を与えることを願い、そしてまた、すべての人々に、

この曲を聴いて欲しい、唄って欲しい、という願いを込めて作ったのです。  

暁の寺は、チャオプラヤ川の西岸にある寺で、そこにそびえ立つ、5基の仏塔の壁面には美しい陶片が埋め込まれ、白壁には天使が描かれています。

特にライトアップされた姿は、川面に映え、水に揺らめくその姿は、我々を別世界に誘ってくれるでしょう。 

◇◇なおこの曲は日本でも、タイ・バンコクでも放送されました◇◇

1,

ワットアルン 時の流れを    ワットアルン  見守り給え 

ワットアルン 心ゆだねる     おお、ワットアルン  ふるさと

輝く愛に  包まれて      癒やされるこの命

暖かく抱くように         天使の街は ほほえむ



2,

ワットアルン 暁の寺       ワットアルン 導き給え

ワットアルン 希望の光      おお、ワットアルン 輝け

麗しくそびえ立つ          懐かしいその姿

鳴り渡る鐘の音          天使の都 クルーンテープ

 

ホテル・ド・パリ0

2018年06月20日 | Weblog
ホテル・ド・パリ

バラナシにつくとカントン駅の表玄関と反対方向、つまり北側の一番端のプラットフオームに行ってから線路へ飛び降りた。
破れた金網をくぐり抜け、細い路地のような道を通り抜けて広場に出た。
このほうが今から行こうとしているシッダルタホテルへ行くのに近道が出来るようだし、うるさく付きまとうリキシャ、ワーラーに煩わされる事もないように思ったからである。

だが実際はバラナシ市内ならどこでもそうであるように、広場にたむろしているリキシャワーラーが、僕を見るなりわっと押し寄せて来た。 仕方がないのでそのなかから人の良さそうな五十代のワーラーにシッダルダホテルにいってくれと言って乗った。ワーラーは調子よくヘイ、分かりましたという顔をして軽やかにペダルをこぎ出した。


ところが先程から彼が行く方向が気になる。地図で見る限り逆の方向に走っているように思えてならないのである。僕は何回もシッダルダホテルへ行ってくれと繰り返した。やがて広い道を左折して奥まった所でリキシャは泊まったが、そこは新しくできたゲストハウスであった。またか、カルカッタでのあのいやな気分が頭を横切った。


建物から人が飛び出して来て、そのゲストハウスへ引きずりこむように部屋を案内した。僕はここは違う、シッダルダホテルへ行ってくれ、と語気をあらげた。 しつこい勧誘を振り切って表路へ出ると、リキシャはどこをどう通ったのか知らないが、大きな庭のある瀟洒な白い建物が立ち並ぶ閑静なホテルの前を通った。入り口にはホテル・ド・パリと書いてある。
ははーん。これが有名なホテル・ド・パリか、


僕はしばらく見とれていた。大きな木の陰でワーラーといっしょに休みながら、なめ回すように僕はこのホテルの様子や、たたずまいを観察して脳裏に焼き付けた。インドにあっても、このホテルは西洋の香りを漂わせている。ホテルの雰囲気にマッチするかのように庭内を散策する人も西洋人らしい人達ばかりで、ここだけは喧噪もなくバラナシで別世界を構成していた。金持ちによる租界か。 下町がインドならここはヨーロッパだ。そう思ったが、僕は今インドに来ているのだと自分に言い聞かせた。ヨーロッパには用はない。


さあ、行こう。僕はワーラーをせきたてた。彼は相変わらず行き先が分からないのか、ぐずぐずしている。インドで短気は禁物だといわれたアドバイスを思い出しながら堪えはしたが、これじゃ日が暮れる。僕は適当な所で降りてリキシャを乗り換えることにした。
乗り換えたリキシャに揺られながら、僕は先程のリキシャについて考えた。


そういえばあのワーラーはにこにこ笑みは絶やさなかったが、ひょっとしたらインド人ではないのではないか。ネパールがどこかから流れ込んで自分の言葉以外には何も理解できなかったから、変なゲストハウスへ連れ込んでここが宿だと思い込んでいたのではないか。そういえばあのゲストハウスのマネージャーが話していた言葉も理解出来なかったようだった。


成る程。言葉に関しては文盲だったんだ。僕は勝手にそう決め込んだ。そうしたら心の中にあったもやもやが少し晴れた。怒鳴ったり、露骨にいやな顔をしなくてよかった。よしんば僕が不機嫌をあらわにしても、彼はただにこにこしていただけだろう。やっぱりインドでは短気では暮らして行けない、僕はたったこれだけのことだったが、なにか大切なことを学んで得をしたような気になった。
立場は違うがこれと似たような経験をしたことがある。


僕がまだ進駐軍のキャンプで働いていた時の事である。
ある特別寒い冬の夜、僕は玄関のドアーを半開きにして友達と立ち話をしていた。そこへこのクラブの総支配人であるジョン・シャネシーが通りかかった。
赤鬼のような顔をしたこの大男は僕を見るなり
「ガッテメ、ゲラルヒヤー」、
と語気をあらげて怒鳴りつけた。そのすさまじい勢いに僕はどうしたらよいか分からないで、咄嗟に、にこっと愛想笑いをした。彼は顔を真っ赤にして僕の腕をつかみ部屋の中に引きずり込んだ。彼は大きな声で二言、みこと、怒鳴った。僕は怖じけついているうえに英語はからっきしわからない、ぽっと出の田舎者である。

ただ彼の顔をじっと見つめる外はなかった。最後に背中を突き放すようにしてうしろからジャブと言葉を浴びせられた。
言葉が分からないというのはある意味では幸せなことである。何を言われているのか、全く分からないから反論のしようもないし、腹も立たない。ただ暖房をがんがん焚いて暖めている部屋のドアーを閉めるために雇われている僕が半開きにしているのだから、怒られるのは当たり前の話である、と僕は自分の非を認めて納得した。


後日僕は英語の分かる友人に、ガッテメ、ゲラルヒヤーとジャブの意味をたずねた。友人が言うことを僕なりに解釈して言い換えると
「この野郎。馬鹿もんめ、そんなところで何やってんだ。とっとと出て行け。
こんちくしょう。日本人野郎めが。」
かなりきつい軽蔑と差別を含んだ言葉だ。後で聞いた言葉に僕は腹が立って来た。もう何十年の昔のことだけど未だにはっきり覚えている。 今だったら、しっかり言い返してやる。そのことがこんな場面で急浮上したのだ。


よかった。嫌みの一つも言わなくて良かった。言ったところでどうなる事でもない。
ほどなくしてリキシャはシッタルダホテルに到着した。
やれやれこんなに時間がかかるのなら初から正面の中央コンコースを通ってリキシャのたまり場へ行けばよっぽど早かったかも知れない。

インドでは急がばまわれか、僕は計算違いに苦笑した。




2018年06月17日 | Weblog
本物の知識をもった学者は未知の領域がどれほどおおきいものか知っている。

そして未知の分野を神の領域として本当の信仰に目覚めた。

中途半端な学者(にかぎらず、一般人もそうだが)未知の分野に目を向けるよりも、

己の知っていることだけに目を向けた。神の領域と人間の領域との分別がない。

そんな人たちがどうして誠の信仰が出来ようか。神にぶち当たることが出来ようか。

何かを通して、神にぶち当たらないと、神の発見が出来ないと思う。

宇宙の真理第一発見者がお釈迦様で真理を創造された訳ではない。と

常盤先生から教わった。

そこで僕は考えた。誰か創造したものが居るはずだ。

それは絶対者すなわち神だろうと、今も考えつづけている

青春。

2018年06月16日 | Weblog
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青春。

花は咲き鳥は歌う.

少年は口笛を吹き,少女は花を摘む.

夢に追われて現実を知らない時代,生きる厳しさを知らない時代.この年頃に

私は食べ物に飢えていた.

そのせいで他人の痛みは十分味わった.
.
幸いにして他人の痛みが自分の痛みに直通する回路が形成された.

青春時代特有の恋はなかった。心の内にも外にも.

我が身を養うための金が何より必要で、考えることは金を稼ぐことばかり。

美しいロマンチックな青春の思い出も、ノスタルジアも、いつも他人の世界の出来事だった

しかし私はまだ救われている。

この歳になるまで、生きてこれたから。

戦争で亡くなった若人の青春は、銃弾と共に消えてしまったのだ。なにおか言わん。

恋衣

2018年06月15日 | Weblog

恋衣

夏の終わりは、秋というよりは、初冬を連想させる。

真っ黒な雲が、かたまりになって、空を覆い、午後の一時すぎだと言うのに、まるで夕方のように暗くなっている。

北国の夏の終わりとはこんなものか。僕はもやもやと曇った心で空を見上げた。
北国の夏の終わりの頃は空は怒気をふくんでいる。

今朝は、堺の自宅を4時に出た。京都を通り越して、鯖街道を北上し、山川登美子のふるさと小浜に着いたのは、一時すぎだった。

小浜の町は、静かで、落ち着いた雰囲気の城下町である。おそらく、夏の始まりには、海水浴でにぎわったことであろうが、もうその時期も過ぎて、祭りのあとの寂しさが漂っていた。そんな感じを受けた町の素顔は他人を押しのけてしゃしゃりでる図々しさや、自己主張に乏しい古風で、女性的なたたずまいである。それは正しくひそやかな恋こそふさわしい街である。

山川登美子という人は、こういう雰囲気の中で、生まれ育ちつつしみ深いまわりの環境の中で、情熱を燃やし、歌作りに励んだ、女流歌人である。

人間は、いかに個性的であろうと、育った環境の影響を受ける。彼女もきっとこの小浜の雰囲気を身に浴びて、心の奥底には、たぎるような情熱を胸の底に秘めて、それを控えめに、歌作りに励んだのだろう。

山川登美子は、1879年小浜に生まれ、29歳の若さで、不幸な生涯を終えたと僕は思う。恋には敗れ、父が勧めた銀行員と結婚して2年に、夫とは死に別れ、更に不運にも夫の病が移って当時不治の病であった結核にかかり、この世を去った。恋愛といい、結婚生活と言い人生の重大な局面では、彼女は悲運の神にとりつかれたように、彼女の人生は彼女にとっては不幸、不幸の連続で人生を終えることになった。

歌人与謝野鉄幹に認められ、与謝野鉄幹をめぐっては堺出身の鳳晶子と激しい恋争いをした。自由奔放な気質の鳳晶子比べて、小浜の町の古風で、女性的なひそやかな恋心を燃やしていた。


しかし、父親が一方的に決めた当時のエリート銀行家との結婚話で、古風で、堅気な彼女は、封建的な家風に逆らうことなく、恋を断念する。与謝野鉄幹は、そんな古風な女性よりも、自由奔放な鳳晶子を選んだ。つまり、山川登美子は、この恋愛レースには敗れたのである。
登美子は、恋の敗北者である。だが、若い情熱を断ち切って、運命に従った女の悲鳴にも似たる恋の情炎の激しさは、鳳晶子の情熱に、決して劣るものではないと僕は思う、いや、そう願いたい。

晶子との恋争いには破れはしても、それで彼女の心の中が収まったわけではない。激しい恋愛感情とその情熱は心の底に沈んだまま、内に秘めた悲しい叫び、恋をあきらめ人並の命さえも授からなかった不幸な生涯の断腸の思いが、彼女の歌に限りないに力を与えている。
彼女の著書を調べ、現地へ赴いて、調べることによって僕は、彼女の不幸に対して、同情の涙を流さないわけにはいかなかった。
彼女自身の自分の不幸な運命に対する嘆きは、僕の心に直接に響いて、縁もゆかりもない彼女の運命に対して、彼女に変わって敵討をしたい衝動に駆られた。彼女の悲痛なこの思いを時の闇の中に、埋もれさせてたまるか。僕の心の中は、怒りのマグマが、あれくるっていた。

彼女の実家に、立ち寄ったけれども、まわりを一周しただけで、たちよる事無く、通りすがりで、家の中を覗き、家人がおられるのを横目に見て通り過ぎ、彼女について尋ねる事はしなかった。実情を詳しく調べるという思いの前に、僕自身が、彼女の心中をそっくりそのまま、僕の心の中に、取り込んだ。いや、彼女のその部分が、乗りうつったと言った方が適切かもしれない。そして足を小浜図書館に向けた。

図書館には、山川登美子に関するコーナーは設けられてはいるが書物は、ほんのわずかしかなかった。ここに来る前に彼女が、学んだとされる梅花女学校から、彼女の著書をコピーしてもらって、調べておいたから、あらかた彼女の事は判ってはいたが、それにしても、高名な歌人をもっと顕彰すべきではないか。何か物足りないものを感じた。人というものは恋の敗者にはたとえ同郷の人であっても、同情を寄せないものであろうか。

彼女のお墓は、発心寺に在ると聞いた。図書館から、小浜線の線路を渡った近くにお寺はあった。この地方ではかなりの名刹らしく、雲水が4,5人いて庭掃除をしていた。そのうちの一人に、登美子の墓のありかを訪ねた。正面に向かって、本堂の左側の方は、山になっている。
その山を切り開いたような形で、一帯は墓地になっている。
人一人が、通れるほどの細い坂道を登っていって、左の奥に山川家の墓があった。登美子の石塔は山川一族のお墓の隣に建てられていた。

僕は、合掌しながら心の中で、彼女に次の様に、語りかけた。
恋には破れるは、結婚して夫にはわずか2年で先立たれ、同じ病を移されてわずか29才でこの世を去ったあなたの人生に想いをいたすとき、僕は心から、同情申し上げる。そして、あなたの悔しい思いは、必ずや僕の手で、世間に知らしめたい。
歴史上には、歌人として名を残しながらも、表舞台からは、忘れ去られているあなたの存在と歌集を必ずや世に問うてみる。
歴史は常に勝者にスポットライトを当てるが、そのうらには、こんな悲しい人生もあったのだと言うことを知らせば、あなたが生きた真実も世間に理解されるに違いない。
それがどうしたのかと問われると、何とも答えようながないが、それでも同じような境遇にいる人に、あなたの存在が慰めになり、場合によっては勇気ツケになり希望を与えるかも知れない。あなたのように慎ましい古風な女性はこの世にごまんといる。事実を知ればきっと多くの女性が共感するのではないだろうか。

幸い僕は人の気持ちを表現する手段を持っている。僕は今自分が感じているこの思いを詞と曲に託し、いつか世に問うてみたい。せめてそれだけが今自分の出来る事である。
どういう縁が働いてこういう事に成ったのか、自分でもよく分からないが、今このときあなたを訪問しているのは紛れもない事実である。
帰宅すれば早速筆を取ろう。そしてあなたに代わって僕の思いを世に問うてみることにする。それがせめてもの本日こうしてあなたと対面したことの意味である。

恋衣

一、
赤い夕日に 身を染めて   
北を指して帰る鳥たち
白い翼に悲しみ乗せて    
お前達かえるのか
かなわぬ恋に 身を焼いて  
北を指して帰る私
つらいさだめを  一人逃れて
私は帰るのよ
ああー 貴方は今も  私のそばにいる
ああー 貴方は今も  私を愛している
誰よりも誰よりも  私を愛している


二、
今は幻の恋人であっても
離したくない 離れない
恋の戦に敗れても    
恋衣は破れない
例えこの身は 召されても  
私の恋は終わらない
あなた色に染まる 恋の炎は
激しくもえるのよ
ああー 貴方は今も 私のそばにいる
ああー 貴方は今も  私を愛している
誰よりも誰よりも  私を愛している










散文詩集

2018年06月15日 | Weblog
tvはニュースしか興味はないが、このニュースではくらいニュースが多い。

そのたびにマイナス感情が持ち上がる。もうそろそろ暗いニュースから卒業だ。

ちかごろ井上靖の散文詩集を手に入れた。

こんなことが詞の対象になるのかと大いに参考になった。

出来ればそういう方向で、文章を書いていこう。感情を爆発させて文章を書くとそれは後々

残って尾を引いて安眠の妨げになる。

視点を広げて宇宙だとか、人類だとか地球だとかに変えていこう。所詮ブログは自分の

心の日記みたいなものだという位置づけだから。