「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

新谷館と遠野菊池一族

2008-04-09 20:47:33 | 歴史・民俗
 2003年晩秋、霙が降りしきる中、東京都在の稲用さん、そして青森県在の藤九郎さんの3人揃っての初の城館探訪で私が遠野をご案内したのですが、お2人は私より一回り年少ながらも、北奥羽関連の城館跡探訪やら歴史探求は私より先輩であり、この分野では私の師匠格といっても過言ではありません。
 また、インターネットで繋がっていたとはいえ、この分野でのかけがえのない友を得た思いでもあります。

 そんな彼らと訪ねた小友町の新谷館跡、結局、核心となる館跡そのものを確認できないまま、というより発見することができずに次の探訪地へ移動という不本意な結果となっていて、その後も探訪時期になると第1の探訪候補とするも、どうしても別な館跡探訪となって、後回しにしてきた経緯がありました。

 その新谷館、本日についに意を決して探訪して参りました。




 国道脇の長野川を越えて直ぐの林道・・・・前回は堀跡を林道に利用といった結論となったと記憶しているが、後々に見た資料によれば、館下に普段の住居としていた屋敷があったと記述され、その屋敷を一応に防備するための遺構か?山城である本来の新谷館とはあまり関連はなさそうな雰囲気でもある。


 この林道を100メートルほど進んでいくと沢が流れ、沢を挟んで左右に急斜な山野がある。
 この何れかの山野が新谷館であることは、誰でも予想はつくが、私は向って右側の山が怪しいと睨み、早速斜面登りを開始する。

 しかし、中腹辺りに至っても館跡特有の段差が全くみられない、おかしいと思いながらも遂に山頂まで来てしまった。
 全身汗だく、山頂も今まで観てきた雰囲気とは違って、どうやら空振と気付くと一気に疲れが下半身を襲う・・・・。

 このまま下っても良いが、今度は同じ高さの隣の山野を登らなくてはならないと思うと、これまた気が滅入ってしまい、山中を彷徨うように山頂を奥へ奥へと歩き始める。

 なんでこんな行動に出たかといえば、少しでも高さを稼いで、頃合を見計らって隣の山野へ移動を目論んでのこと。
 これはズバリ的中、少し下ったところに沢があって、その上に縦堀とおぼしき溝を発見、土塁のような形跡も斜面に確認できる。
 一気に登って見ると、そこには紛れもない空掘が横たわっておりました。





 まずまずの残存度、山頂背後では2重の堀で山野を断ち切っている。
 正に山城見学の醍醐味といったところですが、全体的には小ぶりな館であり、思ったほど見所満載の館跡といった雰囲気ではなかった。
 それでも、苦労してやってきた思いは報われたこと、5年越しの思いもこれで幾らか吹っ飛んだ思いがいたしました。






○新谷館
 遠野市小友町長野地内
 標高510メートル・比高110メートル・阿曾沼時代
 館主・菊池平十郎景光(新谷禅門)・新谷庄作・・・新谷一族

 新谷一族とは、本姓を菊池と称し、新谷を名乗る前は平清水氏。
 慶長5年の遠野の政変では、新谷禅門の嫡子、平清水景頼(駿河)が鱒沢氏、上野氏の南部方となってクーデターを成功させた功で、一躍遠野盟主に躍進したが、父、禅門、他の兄弟達は平清水駿河に呼応せず、新谷館に篭って別路線を通したと言う・・・・。
 後に平清水家は南部利直によって断絶となり、新谷氏の兄弟達は南部家に登用、或いは八戸から遠野へ入部した八戸氏の家臣となり新谷番所の勤番等を歴任して明治維新を迎えた。


 新谷屋敷跡か・・・?(新谷館下方)



 
 本姓を菊池とする平清水氏、新谷氏に通じる流れとして、菊池右近恒邦の名が第一に語られる。
 右近は葛西家臣、岩谷堂(江刺)の江刺氏の重臣だったと伝えられ、玉里地区に勢力を持つ菊池一族であった。
 江刺氏臣の菊池一族は多く散見される。

 天正年間、菊池右近は主家である江刺恒重に南下著しい南部信直との同盟を画策したため江刺氏から追討される。
 遠野の阿曾沼広郷がこの混乱に乗じて江刺に出陣するも敗走、菊池右近は遠野へ亡命し小友の一部を阿曾沼氏より預かることになった。
 
 新谷(荒谷)菊池系図には菊池右近を遠野での初代とし、その子に菊池又市郎(板沢氏)、菊池平十郎(平清水氏・新谷氏)が記されている。

 菊池氏が江刺から遠野へ流入、小友に当初入ったかのような印象を受けるも・・・・阿曾沼時代後半から慶長年間までの遠野郷の菊池氏を見ますと・・・。


○小友町
 菊池平十郎(平清水景光)・新谷出雲(帯刀)⇒平清水館・新谷館
 平清水平右衛門(平清水景頼)・平清水館
 小友喜左衛門(奥友)・奥友館

○宮守町
 宮森主水(宮杜)⇒宮守館

○上郷町
 菊池又市郎(板沢)・板沢平蔵⇒板沢館
 平倉長門盛清・平倉兵庫⇒平倉館
 平倉新兵衛・平倉新八⇒刃金館・・・後に菊池新四郎
 平原備後吉武・平原吉成⇒平野原館
 切掛蔵人⇒大寺館
 内城治兵衛⇒内城館

○青笹町
 菊池兵庫介成景⇒臼館
 宮沢左近⇒花館

○松崎町
 駒木豊前広道・駒木隼人広三・駒木六兵衛⇒八幡館
 畑中吉晴・畑中吉治⇒畑中館

 
 菊池一族はある時期、すなわち天正、文禄に至る年代、すなわち江刺氏の内訌も含めて豊臣秀吉による奥州仕置で葛西家が没落したことによる要因で遠野へ入って来たことは、おそらく史実であり、まずはこの時代からの考察やら検証が必要と考えております。
 無論、私自身の菊池姓に関する思いは南北朝時代に始まるという考えは強いものでありますし、巷の菊池氏研究では菊池がククチからとか、藤原なんとかからとか、そんな事は一切興味はない、いずれ遠野での菊池姓のルーツは何なのか、何故に此処まで広がったのか、このことのみであります。

 まだまだこの分野では核心に迫るといったことはできてませんが、菊池一族縁の館跡探訪も含めまして今後も展開していく所存です。


 新谷館跡のある山野





 おまけ

 小友方面の館跡めぐりやら史跡探訪での昼食は、此処・・・笑

 


 天婦羅そばセット・・・ワンコインです。  
コメント (26)    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 年一度 | トップ | アサリとネネ »
最新の画像もっと見る

26 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
わぉ! (玉千代)
2008-04-09 21:46:52
小友しんくろ(w
こちらは、リアル画像ダァ。いいなー

緑が出てますね~ 例年より早いのデスカー?
今週は、温度差週間だなぁ・・・暖かい日、寒い日、強風の日、そして雨・・・着実に本格的な春へと近づいているんでしょうね。

貴重な舘巡り限定期間、有効にお使いのようですね。
腰部をお労りくださいませ・・・・
○もちゃんでの腹ごしらえ?
小友へ行く際は、大変重宝します・・・・麺類の汁は「熱っい!」のが嬉しいです。
小友です (とらねこ)
2008-04-09 22:00:01
はいっ、小友ですよ・・・笑
腰痛のご心配すみませんです。
なんとか治ったでやんす。というか夢中になるとすっかり忘れているでやんす。

ともちゃんのお昼は安くて美味しくて・・・さらに冷たい水がなんとも美味しいですよ。
1500年代 (24地割)
2008-04-10 22:16:05
甘えて二度目のコメです
天正とか慶長 ^0^ 
受験生ブルースが深夜放送から流れていた時代にお年頃を迎えた世代の私は日本史は西暦で覚えました(w
小友といえば金山
実吉、蟹沢、大洞、火打沢、名鳥沢、荷沢みよし、婦可持  って名前の金山があったそうな。


ワンコイン (一人静)
2008-04-11 07:59:17
美味しそうな味噌にぎり
ほんの少しあぶってあるのでしょうか
このオニギリと漬物だけでも嬉しいですね

昨日 500円玉貯金を持って局に行きジャラジャラ♪
でも旧コインが弾かれて戻ってきました
なんだか・・・複雑なツーコインでした
金山の菊池一族 (とらねこ)
2008-04-11 11:49:50
24地割さん

どうぞどうぞ、ご遠慮なさらずに気になるエントリーやらございましたら、コメントをこれからもお願いします。

小友の金山名の詳細までは詳しくはございませんが、菊池一族は金山や鉱山開発に優れた一族とも考察しております。
遠野への菊池一族の流入は歴史的なことも含めて鉱山開発の進捗に伴っての移動によるものという線もございます。
金山関連では小友長野地域で平清水氏がその開発、産金に深い関わりがあったことは、かなり語られておりますので、この分野もまた見逃せません。
上品な味 (とらねこ)
2008-04-11 11:51:56
一人静さん
味噌おにぎり、少し焙っておりますよ。
芳ばしい雰囲気もあって美味いですが、売り物でもありますから、少し上品な感じに仕上がっております。
ついに (藤九郎)
2008-04-12 17:17:17
ついに、ついに到達したんですね。
そうですか、あれは2003年だったんですか~。
つい最近のようでもあるずっと前のようでもあります。
まずはおめでとうございます。
頂部の郭の写真からするとなかなか良さげ(藤九郎好み)の感じもします。
ついに (とらねこ)
2008-04-13 10:46:48
藤九郎さん
実は2003年だったか2004年だったかは不明なんです。
HPには2003年と書かれていたので、そのまま書いたのですが、私がはじめて野崎さんと藤九郎さんを八戸に訪ねた翌月というのは間違いありません。

館はこじんまりとした館跡でもありました。
どこか気仙や江刺のものとも通じる雰囲気も感じられます。
標高、比高共々かなりの高所ですが、比較的楽に行けるルートもありますから是非にご案内したいと思ってます。
Unknown (オズサム)
2021-11-17 15:52:42
埼玉県のオズサム(新谷)と申します、最近父親の誕生した家を訪ねる為、青森県藤崎町に行ってきました
辿り着いた住所には、残念ながら跡継ぎが居なくなり、建売住宅に変わって居ました、近所の方に
祖先のお墓を教えて貰い、行って見ましたが藤崎城跡の中に有る共同墓地でしたが、新谷家だけは
他とは比べ物に成らない面積で新谷家の墓石が4墓と新谷氏の墓碑が一つ有りました。
藤崎町の藤崎城の歴史を見ると、安倍氏、安東氏、南部と城主が変わっており近所に新谷家が有るのは
菊池じぇんごたれさんが調べて戴いた資料の続きで、新谷家は南部藩の藩士に加わり青森方面で
繁栄したのでは無いのかと、勝手に想像しております。
特に五所川原市には新谷性が相当な数の家が有ります、私の家系で遡れたのは文政12年生まれの高祖父までですが
菊池じぇんごたれさんの菊池性から新谷が生まれてきたとの調査に何となく祖先が見えてきた様な気がします。

ご参考に藤崎城の説明です
藤崎城
http://www.town.fujisaki.lg.jp/sp/index.cfm/8,1307,13,227,html
新谷氏 (とらねこ)
2021-11-17 17:47:12
オズサムさま
コメントいただき、ありがとうございます。
青森県藤崎町のご先祖の地を訪ねられたのですね。
藤崎町は詳しくはありませんが津軽の地、歴史的には安東氏、八戸根城南部氏、浪岡氏もかな?三戸南部氏、
津軽氏と争奪或いは勢力の拠点的な位置付けだったと思います。
拙ブログでの菊池氏、新谷氏(荒谷)に関しては記載のとおりではありますが、詳細はまだまだ把握していな
い現状でので、なんともいえません。
江戸時代は藤崎は津軽藩ですので、南部藩との関係から南部藩の新谷氏が津軽でそれなりに大きく成長は
考え難いのですが、今後の調べ等に期待という感じかと思います。
ちなみに墓石等に家紋とかありましたか?菊池氏に関係ある家紋であれば、遠野の新谷氏、菊池一族と
何からしらの関連性は否定できないと思います。
探究及び調査の先が見えてきたとのこと、さらなる成果が期待できること、ご祈念しておりますし、
何かありましたらまたコメントいただければと思います。

コメントを投稿

歴史・民俗」カテゴリの最新記事