見もの・読みもの日記

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ぜいたくなノート/ナショナリズム(橋川文三)

2005-12-25 00:33:43 | 読んだもの(書籍)
○橋川文三『ナショナリズム:その神話と論理』 紀伊國屋書店 1968.8(新装復刊版 2005.6)

 本書の存在を知ったのは、姜尚中氏による。氏は、数年前から講演や対談で、素朴なパトリオティズム(郷土愛)と近代的ナショナリズムの差異を説明するにあたり、しばしば本書を引用していた。読んでみなくちゃなあ、と思いながら、なかなか探しあてる機会がなかった。この古典的名著を、今年、紀伊國屋書店が新装復刊してくれたことに、まずは心から感謝したい。

 新装版のオビには、姜尚中氏の「ナショナリズムの表裏を全身でわかっていた稀有な存在」というコメントともに、大澤真幸氏が「作者自らは失敗と断ずる不思議な傑作」というコメントを寄せている。さすがの両氏で、短い評語のうちに、本書の魅力は尽きているように思う。

 ほんとに不思議な本なのだ。「あとがき」によれば、著者は、少なくとも明治二十年代までを含め、後年の超国家主義への展望をひらく予定で書き始めたが、「序説のうちの序論」で終わってしまった、と告白している。そのため、慣例的なアクノレジメント(謝辞)もないし、文献リストもない。文中の引用は形式にとらわれず、出典が明記されていないこともある。要するに、著者にとって「少々ぜいたくなノート」の域を出ないのである。にもかかわらず、素材のまま、投げ出された数々の示唆は、実に豊かで魅力的だ。

 序章は、用語の整理から始まる。ハーツ(Hertz)によれば、「ネーション(国民)」は主権の保有者であり、「ステート(国家)」はその意志を実現するための機関であり、「ガバメント(政府)」はネーションによって任命された国家の管理組織である。ただし、英語には「ステート」から派生した形容詞がないので、国家によって運営されたり、統制された何かを指す場合にも「ナショナル」という形容詞が使われる。なるほど! 私は、正直、たったこれだけのことも整理できていなかった。

 しかし、英語の「ナショナル」が、容易に「ポピュラー(人民の)」に取って代わり、「国民バター」や「国民パン」という表現さえ可能にするのに対して、ドイツ語の「ナチオナル」は、民族的光栄、民族的統一のような高尚な概念のためだけに用いられる。それは、ドイツ人にとって、ネーションという概念が「縁もゆかりもないもの」であったことを示している。

 では、日本はどうか。内部的同質性を保ち、「一般意志」を共有する「日本国民」は、果たして存在し得たのか。この問題意識のもとに、第一章は幕末、第二章は明治初年(自由民権運動の始動前まで)を扱う。第一章で最も印象的なのは、長州藩の奇兵隊をめぐる考察である。歴史家E.H.ノーマンは、下級武士・農民・町人など雑然たる階級出身者から混成された奇兵隊に、封建制からの解放を見ようとする。一方、遠山茂樹は、これら農商兵を、農民一般・町人一般から分断され、武士身分に引き上げられたものと見る。

 著者は後者の分析を是とし、そこに「日本におけるネーション形成の固有の表現」を見て取る。つまり、一般民衆の中から、身分上昇のエネルギーに支えられた人々を選び取り、立身のコースに移行させる。そして、初めは「烏合の衆」(奇兵隊日記)に過ぎない彼らを、きびしい「専制」のもとに教化・統合してゆく。これこそ、「その後の日本政治の基本的な戦略となったもの」である。思えば、まさに黎明期の東京大学が担った役割も、これと瓜二つであった。

 福沢諭吉は、くりかえし「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」と指摘している。つまり、明治維新とは、「ネーション」を抜きに達成された、特異な革命なのである。まあ、ここまではいい。「上からの革命」という表現で、しばしば指摘されてきたことだ。

 しかし、続く指摘は鋭いなあ~。言い換えれば、明治維新によってもたらされた事態は、「国家がその必要のためにようやく国民を求めるにいたった」のであり、「国家が、その権利の対象として(福沢のことばでいえば「政府の玩具として」!)国民を要求した」ことにほかならないのである。うーん、福沢って、にくらしいほどのリアリストだなあ。

 このあと、本書の最終部分は、明治初年の大規模な反政府運動、すなわち自由民権運動に触れ、急ぎ足ではあるが、さらに重要な問題提起を行っている。自由民権運動には「濃厚なナショナリズムの傾向」があり、のちの日本右翼運動(たとえば玄洋社)の源流がここにあると言うこともできるのだ。著者は「民権論を主張するこの運動が、かえって熱烈な国権の擁護者でもあったという二重性格」を指摘する。うーむ。複雑怪奇。このへん、勉強不足の私には、十分理解し得たとは言いがたいが、重要な指摘であることは分かる。「民主と愛国」は、戦後日本の専売特許ではなかったということかなあ。

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王陽明の国民感 (和田啓二)
2016-03-02 11:55:16
明の王陽明の本職は軍人。反乱民を告諭する文面に「朝廷の赤子」なる言葉がある。明代又はそれ以前に普遍的に用いられていた概念の可能性が強い。現代語では政府の国民という意味になる。赤子というニュアンスにはレディファースト同様、保護すべき弱い存在というニュアンスとそれ故、権利能力を認めるべきではないとの意味が透けて見える。 天皇の赤子は朝廷の赤子から転じたと思われる。 いずれにしても、赤子はネーションとしての国民とはほど遠い。 安倍内閣の思想も国民の政府ではなく、行政の国民との考えから国民を縛る憲法、とりわけ系譜的正統性を誇る国柄で国民を縛る憲法を志向する。  北の金王朝は唯一日帝に抵抗した勢力、外勢から自主独立を貫いたとの神話正統性だけを政権維持の根拠にし、壇君古墳を捏造。金正日白頭山誕生神話、日への改名などを行う。

中国はやはり、造反有理-革命の伝搬を止めた頃から自主独立実績の系譜的正統性のみを正当性根拠とする。  東アジアの儒教圏地域で権威主義的権力が強まっている。

橋川文三は、国家神道にあまり言及しない。 記紀の神々は私見では天神系-物部を中心として先行したムスビ系の血縁擬制関係に天照の天孫系を上書きした。出雲の臣はオオクニヌシではなく、天照の次男アメノホヒを祖とする。 そして、アメノホヒの子は記紀に記載があるが、アメノホヒの妻の記載がない。 筋書きから云えば、アメノホヒは松平の娘の水女を妻にした新田世良田系系譜(徳川神話)同様、オオクニヌシの娘を妻にした娘婿となるべきだが血縁的抱き込みが不完全なものに終わる。

天皇の赤子とは、朝廷の赤子と比較しても部族的(血縁擬制序列)ニュアンスでネーションとは相容れないところがある。

超国家主義者の多くは血縁的序列性を受け入れられず、全体の一部として一体性を実感する血縁擬制あるいは文化擬制的超越概念を求めた。
自然に拝跪する多神教的部族感では、殷・アズテクの他民族生贄、マヤ・インカの自己犠牲に繋がる。

東アジアは未だ前近代を引きずっている。
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