○MIHO MUSEUM 開館10周年記念特別展『中国・山東省の仏像-飛鳥仏の面影』
http://miho.jp/japanese/index.htm
金曜日は埼玉で夜の9時頃まで飲んでいた。それから東京駅に出て、10時の新幹線に乗った。日付が変わる前に名古屋に到着して、予約していた駅前のビジネスホテルに宿泊。週末の朝を迎えた。
MIHOミュージアムは久しぶりである。2001年秋の『龍門石窟』展には行った。それから、2004年春の『長安-陶俑の精華』も行ったと思う。いい美術館だが、なにせ石山駅からバスで50分の山の中なのだ。東京から関西方面に出張るときは、なるべく数をこなして欲張ろうとするので、なかなか気軽に立ち寄ることができない。
しかし、今回は見逃すわけにはいかないと思っていた。2001年の『龍門石窟』展のとき、話題になった仏像がある。MIHOミュージアムが購入した後、中国からの盗品だと判明した菩薩立像である。そのときのニュースを探したら、以下のサイトがヒットしたのでリンクしておく。
■Kenの美術館書庫(国内編#4:'01)
http://homepage2.nifty.com/kenkitagawa/sub15.html
→「MIHO MUSEUMの石造菩薩立像(01/11)」参照
MIHOミュージアムは、この仏像を中国に譲渡(返還とは言わないのね)することに合意し、その代わり、中国側が同館に多くの仏像を貸し出して「山東省の仏教美術にかかわる展覧会」を 共同で開催することに同意したのである。あれから6年。私は、2000年の夏に中国山東省を訪ね、その秋の『中国国宝展』で、山東省の仏像、特に青州市博物館=龍興寺址出土の名品に魅入られて以来、この展覧会をず~っと楽しみに待ってきた。
さて、その展覧会、点数は70点余りでさほど多くはないが、質の高さには十分満足した。時代的には、北魏末年~東魏~北斉~隋初に焦点を絞っている。わずか100年余りの期間(A.D.6世紀)だが、仏教美術に、何段階かの変化の波があったことが、非常によく分かる構成になっていた。
山東省では北魏末の520年代から大きな石造の仏像が作られるようになる。初期の造型は、仏像の足元に「唐草を吐く龍」が逆立ちしていたり、光背の背後に日月を掲げる人物像がいたり(伏羲と女禍だ!)、中国の土着宗教の影響が強いが、東魏から北斉にかけて、次第に造型が洗練されていく。540~550年代には、西方(インド)風の薄い衣、ボリュームのある肉体表現が登場する。北斉後半になると、颯爽とした肉体に中国人好みの華やかな装飾性が加わり、隋初に至って、肉体表現がより現実味を帯びてくる。
まとめてしまうと味気ないが、実際に作品を傍らに置いてみると、様式の変遷が、実によく分かって興味深い。面白いことに、東魏から北斉の三尊仏には、脇侍の一方を中国式(装飾が多い。厚手のプリーツスカートのような衣)、一方をインド式(肉体に密着した薄い衣、両膝の丸みに沿った襞)に作るものが、ときどき見られる。これが、次第に一体の造型表現に統合されていくのである。
ポスターやチラシに使われている、東魏時代の菩薩立像(青州市博物館蔵)は、金・朱・緑の彩色の名残りが石灰石の乳色の肌を引き立てて美しい。貴族の青年を思わせる、瞑想的で上品な面差しである。ただし、正面から見ると、幅のある、堂々とした体躯だが、横から見ると、芝居の書割りのように薄い。顔立ちには完成された精神性が宿っているが、まだ「肉体」を獲得する以前という感じがする。
好みもあるけど、私のおすすめは、最後の展示室に登場する北斉時代の菩薩立像。みずみずしい肉体表現と、それを飾る瓔珞の装飾美に見ほれる。ああ、こうして「隋唐文化」の時代がやってくるんだな、と思う。
ところで、上述の「盗品」と判明した菩薩立像とは、「宝冠に蝉の飾りをつけた菩薩像」である。当時、このニュースを伝える中国語の記事が「蝉冠菩薩」(?)とか何とか書いていて、意味がよくわからなかった記憶がある。中国の戦国時代以来、皇帝の近臣や高級宦官が清廉、節倹の証として冠の正面に蝉の飾りを付けたことによるのだそうだ。面白い。
http://miho.jp/japanese/index.htm
金曜日は埼玉で夜の9時頃まで飲んでいた。それから東京駅に出て、10時の新幹線に乗った。日付が変わる前に名古屋に到着して、予約していた駅前のビジネスホテルに宿泊。週末の朝を迎えた。
MIHOミュージアムは久しぶりである。2001年秋の『龍門石窟』展には行った。それから、2004年春の『長安-陶俑の精華』も行ったと思う。いい美術館だが、なにせ石山駅からバスで50分の山の中なのだ。東京から関西方面に出張るときは、なるべく数をこなして欲張ろうとするので、なかなか気軽に立ち寄ることができない。
しかし、今回は見逃すわけにはいかないと思っていた。2001年の『龍門石窟』展のとき、話題になった仏像がある。MIHOミュージアムが購入した後、中国からの盗品だと判明した菩薩立像である。そのときのニュースを探したら、以下のサイトがヒットしたのでリンクしておく。
■Kenの美術館書庫(国内編#4:'01)
http://homepage2.nifty.com/kenkitagawa/sub15.html
→「MIHO MUSEUMの石造菩薩立像(01/11)」参照
MIHOミュージアムは、この仏像を中国に譲渡(返還とは言わないのね)することに合意し、その代わり、中国側が同館に多くの仏像を貸し出して「山東省の仏教美術にかかわる展覧会」を 共同で開催することに同意したのである。あれから6年。私は、2000年の夏に中国山東省を訪ね、その秋の『中国国宝展』で、山東省の仏像、特に青州市博物館=龍興寺址出土の名品に魅入られて以来、この展覧会をず~っと楽しみに待ってきた。
さて、その展覧会、点数は70点余りでさほど多くはないが、質の高さには十分満足した。時代的には、北魏末年~東魏~北斉~隋初に焦点を絞っている。わずか100年余りの期間(A.D.6世紀)だが、仏教美術に、何段階かの変化の波があったことが、非常によく分かる構成になっていた。
山東省では北魏末の520年代から大きな石造の仏像が作られるようになる。初期の造型は、仏像の足元に「唐草を吐く龍」が逆立ちしていたり、光背の背後に日月を掲げる人物像がいたり(伏羲と女禍だ!)、中国の土着宗教の影響が強いが、東魏から北斉にかけて、次第に造型が洗練されていく。540~550年代には、西方(インド)風の薄い衣、ボリュームのある肉体表現が登場する。北斉後半になると、颯爽とした肉体に中国人好みの華やかな装飾性が加わり、隋初に至って、肉体表現がより現実味を帯びてくる。
まとめてしまうと味気ないが、実際に作品を傍らに置いてみると、様式の変遷が、実によく分かって興味深い。面白いことに、東魏から北斉の三尊仏には、脇侍の一方を中国式(装飾が多い。厚手のプリーツスカートのような衣)、一方をインド式(肉体に密着した薄い衣、両膝の丸みに沿った襞)に作るものが、ときどき見られる。これが、次第に一体の造型表現に統合されていくのである。
ポスターやチラシに使われている、東魏時代の菩薩立像(青州市博物館蔵)は、金・朱・緑の彩色の名残りが石灰石の乳色の肌を引き立てて美しい。貴族の青年を思わせる、瞑想的で上品な面差しである。ただし、正面から見ると、幅のある、堂々とした体躯だが、横から見ると、芝居の書割りのように薄い。顔立ちには完成された精神性が宿っているが、まだ「肉体」を獲得する以前という感じがする。
好みもあるけど、私のおすすめは、最後の展示室に登場する北斉時代の菩薩立像。みずみずしい肉体表現と、それを飾る瓔珞の装飾美に見ほれる。ああ、こうして「隋唐文化」の時代がやってくるんだな、と思う。
ところで、上述の「盗品」と判明した菩薩立像とは、「宝冠に蝉の飾りをつけた菩薩像」である。当時、このニュースを伝える中国語の記事が「蝉冠菩薩」(?)とか何とか書いていて、意味がよくわからなかった記憶がある。中国の戦国時代以来、皇帝の近臣や高級宦官が清廉、節倹の証として冠の正面に蝉の飾りを付けたことによるのだそうだ。面白い。
こちらはなかなか充実した内容のブログで、トラバするのが気恥ずかしいですがよろしくお願いします。
返還とは言わなかったとは知りませんでした。善意の第三者だからなのかな。
それはともかく、ペイ氏の作になるこの美術館は、その外身も中身も他の美術館とひと味違うと感じたいます。ペイ氏の最近の美術館として、他には中国蘇州とアラブのカタールにもあるとか。
奈良博と奈良県立美術館にもいらしたんですね。私は、さっき、週末関西旅行から帰ってきたところですが、時間がなくて奈良は回れませんでした。
今後ともよろしくお願いいたします。