見もの・読みもの日記

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ハイカラ・モダン/魯迅(藤井省三)

2012-03-28 23:10:31 | 読んだもの(書籍)
○藤井省三『魯迅:東アジアを生きる文学』(岩波新書) 岩波書店 2011.3

 最近、楊逸さんの『孔子さまへの進言:中国歴史人物月旦』を読んで、魯迅の章が印象に残ったので、買ってみた。本書は、著者の個人的回顧「私と魯迅」から始まる。小学三年生まで野球少年だった著者は、四年生頃から読書少年に転じ、五年生のとき、魯迅の「故郷」という作品に出会う。さらに、中学国語教科書で「故郷」との再会を経て、著者は中国文学者に歩みを進めていく。

 私も魯迅作品との出会いは、中学国語教科書の「故郷」だった。本書によれば、この小説の教科書採択率は非常に高く、「ここ30年来日本人のほぼ全員が中学で『故郷』を読んできたことになる。…ほとんど国民作家に近い存在といえよう」とある。すごいな。しかし、オリンピック景気で空き地を失った元野球少年の著者は、喪失の物語である「故郷」にいたく感動したというが、私は、この小説を全く面白いと思わなかった。

 なぜだろう? 私も、いっぱしの読書少女だったはずなのに。思い当たるのは、「故郷」が、本質的に少年(男性)の物語なのではないか、という点だ。20年ぶりに里帰りした主人公は、楽しみにしていた幼なじみの閏土(ルントウ)との再会で、地主と小作人という身分の壁を突きつけられる…という物語。70年代の中学生だった私には、生得的な「身分」というものの実感がなかったし、むしろ美貌と愛嬌のほうが、女性の人生には重要だと(うすうす)感じていた。

 私が魯迅の小説を面白いと思ったのは、ずっと後年である。大学も終えて、たぶん30歳を過ぎた頃に代表作を読み返して、意外と「毒」の強い作品であることをはじめて認識した。しかし、魯迅という人物については、国民作家=非の打ちどころのない偉人のイメージを払拭できなかった。

 本書を読むと、その思い込みが軽やかに覆されていくので、気持ちよかった。たとえば、魯迅の日本留学といえば「仙台」だと思っていたが、7年半に及ぶ日本滞在期間のうち、仙台医専在籍期間は2年に満たず、大半は東京で過ごしている。鉄道、郵便、電信、映画、新聞、出版など、急速に成長しつつあったメディア都市・東京は、若き魯迅を魅了する。「医専を中退までして東京に戻っていったのは、魯迅がメディア都市での快感昂奮を忘れられなかったためではあるまいか」という指摘が新鮮である。

 それから、帰国後の魯迅が講師をつとめた北京大学の姿。軍閥混戦下の北京大学は、養成した近代的人材を供給すべき行先を持てなかった。それゆえ、大学自体が共和国の実現を望み、革命運動の中核を担った。うーん。明治政府の官僚養成機関として設けられ、政府と一体となって成長してきた(東京)帝国大学とは、ずいぶん出自が違うんだな。

 上海時代の魯迅のキーワードは「恋と映画とゴシップ」。なんと楽しい国民作家ではないか。30年代の魯迅は、国民党政府によってその作品を発禁処分にされた反体制文学者であると同時に、元教え子とおしゃれなマンションで同棲し、子供が生まれると一家で毎週のようにハイヤーで都心のハリウッド映画に通っていた(おお、モダン!)。お気に入りはターザン映画だったという。また『ビアズリー画選』を編集していたり、蕗谷虹児のことを激賞している。本書には、虹児の「タンポリンの唄」の魯迅訳が採録されていて、とても興味深い。

 清末から民国初期には、まだ一般に句読点が使用されていなかったが、「。」「、」「:」などの符号を取り入れ、口語文体をつくり上げたのも魯迅だという。なるほど、現代中国文(学)は、内容と形式の両面で、魯迅を淵源とするわけか。

 本書後半では、日本における魯迅の受容がはらんでいる問題、「文体や思考は十分に伝えられてきたか」を再検討する。特に竹内好訳の影響は大きく、魯迅作品を戦後日本社会に土着化させた功績の一面で、「伝統を否定しながら現代にも深い疑念を抱いて逃走するという魯迅文学の原点を見失ってしまった」ことが、批判的に取り上げられている。

 最終章は、村上春樹における魯迅の影響。私は文学にあまり詳しくないので、軽々しいことは言えないが、意外と近現代においても、日中間の影響関係ってあるのだな(魯迅は芥川龍之介の影響を受けていると言う)と思った。

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