○木下直之『股間若衆:男の裸は芸術か』 新潮社 2012.3
木下先生、またこんな本書いてェ~ (≧▽≦)と、ふだん使わない顔文字で恥らってみた。雑誌『芸術新潮』に掲載された「股間若衆」(2010.5)「新股間若衆」(2011.11)に、書き下ろしの新稿を加えたもの。たぶん雑誌掲載のどちらかは目にしていたので、初めて聞くネーミングではなかった。あ!本になってる!とヨロコビながら手に取ったが、電車の中で開くのがためらわれる写真図版もあって、いつどこで読むか、判断に困った(女性読者の場合?いや、男性読者のほうが誤解を受けやすいかも)。
本書は、幕末・明治以降の、日本人美術家たちの裸体表現をめぐる葛藤と挑戦について考察したものである。女性の裸体表現については、多くの先行研究があると思うが、特に男性裸体彫刻に重点をおき、結果として、その股間表現(?)に注目したところが新しい。
著者にこのインスピレーションを与えたのは、赤羽駅前に立つという二人の青年の裸体像。その股間は、パンツと身体が渾然一体と化した「曖昧模っ糊り」状態だという。あるある。駅前とか、公民館とか市役所とか市民体育館の前には、なぜかこの手の裸体彫刻像が多い。少なくも、ある時期までは多かった(最近は、人体彫刻が人気を失い、抽象的なモニュメントに置き代わりつつある)。私は、本書の写真を見ながら、なんとも懐かしい「昭和」の既視感を味わった。「希望」「飛翔」など抽象的な理念をあらわす具象的な肉体。しかし、その股間だけは、具象を離れた「曖昧模っ糊り」型が多かったように思う。
「これは長い歳月をかけて、日本の彫刻家が身につけた表現であり、智慧であった」と著者は言う。そして、近代の始まりから、裸体表現をめぐって、表現者と官憲の間で繰り広げられてきた闘争と妥協の歴史を読者に開陳してくれる。知っている(有名な)エピソードもあり、初めて聞く話もあった。話は知っていても、実際にその「証拠」が残っていることに驚いたものもある。たとえば、黒田清輝の『裸体婦人像』(静嘉堂文庫蔵)が下半身に布を巻き付けて展示されたことは知っていたが、その現場写真が、雑誌『明星』に残っていたなんて!
黒田は息をひきとる直前の病床まで、裸体画・裸体彫刻をめぐって警視庁や官僚と交渉を重ねていた。このエピソードは、申し訳ないが、いくぶん滑稽でもあり、凄絶でもある。このとき問題になった彫刻の一つがロダンの『接吻』であるが、当時(大正年間)、美術だけでなく文芸においても「接吻」という表現は(題名にしただけで)「風俗紊乱」の恐れありとされた。うわ~!そんな時代だったのか。
男性裸体彫刻に話を戻すと、初期には、西洋美術由来の「木の葉」が愛用された。重力を無視して股間に貼りついた、奇跡の木の葉である。さすがに木の葉が時代遅れになると、褌やズボンが活躍し、さらに「曖昧模っ糊り」へと進化していく。とりわけ著者が注目するのは、朝倉文夫と北村西望。北村西望には「とろける股間」の尊称が奉られている。
こんな感じで『芸術新潮』掲載の二稿は、面白いが、比較的淡々と読める。最後の書き下ろし新稿は、欲望が解放された戦後の「女性の写し方」「男性の写し方」(ヌード写真)を考察し、特に「男性の写し方」では、かの『薔薇族』に触れて、ややアブナイ香りの漂う内容となっている。そして、意外というか当然というか、街角の「股間若衆」たちが、この手の趣味の人々から、熱い視線を浴びていたことも分かる。
どこにいけば「股間若衆」に会えるかのデータも豊富に掲載。いや、別に股間に注目しなくてもいいのだが、私は、古いタイプの具象的な人体彫刻がわりと好きだ(仏像好きにつながるところがある)。最近、撤去が進んでいるというから、希少種にならないうちに、今度、積極的に巡礼してみよう。人体モニュメントに関しては、一時期の中国にも多かったなあ。今後は、ぜひ海外比較研究も期待したい。西洋古典彫刻の伝統がないところに限る。
なお、田丸公美子さんが書評で「パンツ姿の著者近影?まで披露して、最後まで人を食ったユーモアを忘れない」と書いているのは早とちりである。「あとがき」の最後に登場するパンツ一丁の精悍な股間若衆、これは、ネタバレになるが、『坂の上の雲』に登場する広瀬武夫の写真である(ドラマでは褌姿で写真を撮っていたと思う)。
著者本人はカバーの折り返しに後ろ姿で登場するので、本書を手に取って、お楽しみください。まったく、もう(笑)。
木下先生、またこんな本書いてェ~ (≧▽≦)と、ふだん使わない顔文字で恥らってみた。雑誌『芸術新潮』に掲載された「股間若衆」(2010.5)「新股間若衆」(2011.11)に、書き下ろしの新稿を加えたもの。たぶん雑誌掲載のどちらかは目にしていたので、初めて聞くネーミングではなかった。あ!本になってる!とヨロコビながら手に取ったが、電車の中で開くのがためらわれる写真図版もあって、いつどこで読むか、判断に困った(女性読者の場合?いや、男性読者のほうが誤解を受けやすいかも)。
本書は、幕末・明治以降の、日本人美術家たちの裸体表現をめぐる葛藤と挑戦について考察したものである。女性の裸体表現については、多くの先行研究があると思うが、特に男性裸体彫刻に重点をおき、結果として、その股間表現(?)に注目したところが新しい。
著者にこのインスピレーションを与えたのは、赤羽駅前に立つという二人の青年の裸体像。その股間は、パンツと身体が渾然一体と化した「曖昧模っ糊り」状態だという。あるある。駅前とか、公民館とか市役所とか市民体育館の前には、なぜかこの手の裸体彫刻像が多い。少なくも、ある時期までは多かった(最近は、人体彫刻が人気を失い、抽象的なモニュメントに置き代わりつつある)。私は、本書の写真を見ながら、なんとも懐かしい「昭和」の既視感を味わった。「希望」「飛翔」など抽象的な理念をあらわす具象的な肉体。しかし、その股間だけは、具象を離れた「曖昧模っ糊り」型が多かったように思う。
「これは長い歳月をかけて、日本の彫刻家が身につけた表現であり、智慧であった」と著者は言う。そして、近代の始まりから、裸体表現をめぐって、表現者と官憲の間で繰り広げられてきた闘争と妥協の歴史を読者に開陳してくれる。知っている(有名な)エピソードもあり、初めて聞く話もあった。話は知っていても、実際にその「証拠」が残っていることに驚いたものもある。たとえば、黒田清輝の『裸体婦人像』(静嘉堂文庫蔵)が下半身に布を巻き付けて展示されたことは知っていたが、その現場写真が、雑誌『明星』に残っていたなんて!
黒田は息をひきとる直前の病床まで、裸体画・裸体彫刻をめぐって警視庁や官僚と交渉を重ねていた。このエピソードは、申し訳ないが、いくぶん滑稽でもあり、凄絶でもある。このとき問題になった彫刻の一つがロダンの『接吻』であるが、当時(大正年間)、美術だけでなく文芸においても「接吻」という表現は(題名にしただけで)「風俗紊乱」の恐れありとされた。うわ~!そんな時代だったのか。
男性裸体彫刻に話を戻すと、初期には、西洋美術由来の「木の葉」が愛用された。重力を無視して股間に貼りついた、奇跡の木の葉である。さすがに木の葉が時代遅れになると、褌やズボンが活躍し、さらに「曖昧模っ糊り」へと進化していく。とりわけ著者が注目するのは、朝倉文夫と北村西望。北村西望には「とろける股間」の尊称が奉られている。
こんな感じで『芸術新潮』掲載の二稿は、面白いが、比較的淡々と読める。最後の書き下ろし新稿は、欲望が解放された戦後の「女性の写し方」「男性の写し方」(ヌード写真)を考察し、特に「男性の写し方」では、かの『薔薇族』に触れて、ややアブナイ香りの漂う内容となっている。そして、意外というか当然というか、街角の「股間若衆」たちが、この手の趣味の人々から、熱い視線を浴びていたことも分かる。
どこにいけば「股間若衆」に会えるかのデータも豊富に掲載。いや、別に股間に注目しなくてもいいのだが、私は、古いタイプの具象的な人体彫刻がわりと好きだ(仏像好きにつながるところがある)。最近、撤去が進んでいるというから、希少種にならないうちに、今度、積極的に巡礼してみよう。人体モニュメントに関しては、一時期の中国にも多かったなあ。今後は、ぜひ海外比較研究も期待したい。西洋古典彫刻の伝統がないところに限る。
なお、田丸公美子さんが書評で「パンツ姿の著者近影?まで披露して、最後まで人を食ったユーモアを忘れない」と書いているのは早とちりである。「あとがき」の最後に登場するパンツ一丁の精悍な股間若衆、これは、ネタバレになるが、『坂の上の雲』に登場する広瀬武夫の写真である(ドラマでは褌姿で写真を撮っていたと思う)。
著者本人はカバーの折り返しに後ろ姿で登場するので、本書を手に取って、お楽しみください。まったく、もう(笑)。