見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2017年5月@関西:宇治→大阪→神戸

2017-05-09 22:44:44 | 行ったもの(美術館・見仏)
〇宇治・平等院~藤田美術館~大阪歴史博物館~神戸市立博物館

 連休2日目は、藤が見たかったので宇治の平等院へ。8時半の開門からまもなくに到着できたので、ゆっくり見られるだろうと思っていた。そうしたら、庭園はともかく、鳳凰堂内部のツアーは3時間くらい先まで受付終了だという。え?どういうこと?と思って聞いてみたら、みんな開門前から並んで待つのだそうだ。やれやれ。今回は、庭園とミュージアムと塔頭の浄土院だけにしておく。あと源三位頼政公の墓所にはお参り。



満開絶頂の藤の花房は、精巧な飴細工か何かのように美しくて美味しそうだった。



藤田美術館 『ザ・コレクション』(2017年3月4日~6月11日/後期:5月2日~4月30日)

 先々週、前期展示を見たばかりだが、後期も見たくてまたやってきた。ちょうど学芸員らしきスーツの男性による(前期にも見かけた方だ)展示解説が行われていた。日本には三つの曜変天目があるという意味を正しく説明し、いま東京の茶の湯展にも静嘉堂の曜変天目が出ていますと紹介。なぜかウチが曜変天目を出すと、同じ頃に静嘉堂さんも出すんですよ、でも聞いてみたら、向こうも同じことを思ってたと言ってました、と大阪人らしい(?)軽妙なトークで笑いを取る。もう一つはお寺さんの所有だからめったに出ませんが、今年の秋の国宝展(京都国立博物館)にもしかしたら出るかもしれませんね、とのこと。

 藤田美術館の曜変天目は覆輪が嵌っている。実は口縁に欠けたところがあって修復しているのだ。材質は八、九割が銀だが、酸化していないのは不純物が多いためではないかという。見えにくいが、茶碗の外側にも青い斑点があることをLEDライトで照らしてみせてくれた。家康から水戸徳川家に伝わったというが、茶会で使われた記録はない。しかし内側には疵があり、竹の茶筅で疵がつくとは思えないので、中国式の茶会で用いる金属製の茶さじではないかという。いろいろ興味深い話を聞かせていただき、思わぬ収穫だった。

 後期展示の名品は『阿字義』『紫式部日記絵詞』『春日明神影向図』など。東博の『茶の湯』展のポスターに載っている『交趾大亀香合』はこっちに戻っていた。興福寺に伝わった『千体聖観音菩薩立像』の1体(50体所蔵)は、以前、サントリー美術館で見たものだ。平家琵琶(銘・千寿)は、雅楽の琵琶に比べて担ぎやすく、小ぶりにできているというのが面白かった。

 しばらくお別れになる展示棟と収蔵庫(?)の姿をここに掲げておく。





 建物の説明を読んでいたら、藤田邸は昭和20年(1945)の大空襲でほとんど焼失したが、蔵や庭の多宝塔は幸いに類焼をまぬがれた。そんな建物であるなら、より一層、後世に守り伝えてほしいと思う。

大阪歴史博物館 特別展『渡来人いずこより-』(2017年4月26日~6月12日)

 近畿地方周辺で出土した、朝鮮半島に関係する資料を展示し、渡来人の「出身地」を考える。朝鮮半島には、それぞれの地域に個性的な文化があり、特に三国時代(4~7世紀)には高句麗、新羅、百済、加耶といった国々が存在し、ひと括りにはできないからである。なんでもない土器、たとえば甑(こしき)にも、百済系と新羅系の違いがあるのが面白かった。

神戸市立博物館 特別展『遥かなるルネサンス 天正遣欧少年使節がたどったイタリア』(2017年4月22日~7月17日)

 1582年(天正10年)、伊東マンショら日本人キリスト教信徒の少年4人がヨーロッパに旅立った。16世紀後半のイタリアを訪れた天正遣欧少年使節の足跡をたどりつつ、「日本人が初めて見たヨーロッパ文化」「日本人が初めて見たイタリア・ルネサンスの芸術」に焦点を当てて、ルネサンスの豊穣なる美の世界を探求する。出品点数は約70件で、9割以上がイタリアのウフィツィ美術館やバルジェッロ美術館からの招来品。絵画、彫刻、織物、食器、メダルなど、当時の人々(もちろん裕福な)の日常生活がしのばれる美術工芸が多い。少年たちの足跡に従い、フィレンツェ、ローマ、ベネツィア、ヴェローナ、ミラノ等々、都市をめぐっていくのも楽しかった。

 ポスターなどに使われているのは、メディチ家のお抱え画家ブロンズィーノ(ブロンジーノ)が描いたビア・デ・メディチ(早世)の肖像。初代トスカーナ大公コジモ1世(1519-1574)の娘である。少年使節の一行は、コジモ1世の息子フランチェスコ1世(1541-1587)の時代にトスカーナ大公国を訪れた。フランチェスコ1世の妻ビアンカ・カペッロは、舞踏会で伊東マンショの手を取って踊ったという。へえ~そんなエピソードが伝わっているんだ!と思ったが、驚くのは早かった。

 ミラノを出発する前、伊東マンショがマントヴァ公子に出した書状(漢文、墨書?)がマントヴァ国立公文書館には残っているのである。「貴殿」で始まり、「伊藤鈍(ドン)満所」の署名が見える。伊東マンショの直筆! 文書館には同時代のイタリア語訳も保管されているのだそうだ。図録を見るとこのほかにも、各都市で歓待を受けたことに対する感謝状が複数残っていて、イモラ市にあてた感謝状(イモラ市立図書館)とヴェネツィア共和国政府への感謝状(ヴァチカン教皇庁図書館)が掲載されている。この展覧会は、青森と東京にも巡回するので、別の機会に見られるのではないかと思う。

 少年たちは、ローマで教皇に謁見しただけでなく、ヴェネツィアでガラス製法を見たり、パドヴァ大学を訪ね、植物園を案内してもらったり、円形劇場でコンサートを鑑賞したりしている。同時代の日本人が誰も知らないことを、一気に体験してしまったのだ。そして例の『伊東マンショの肖像』を見ると、どんな気持ちで異国の日々を過ごしていたのか、帰国して何を考えたのか、あらためて気になる。

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