見もの・読みもの日記

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根強い通俗道徳/生きづらい明治社会(松沢裕作)

2019-12-05 21:30:33 | 読んだもの(書籍)

〇松沢裕作『生きづらい明治社会:不安と競争の時代』(岩波ジュニア新書) 岩波書店 2018.9

 明治が大きな変化の時代であったことは言うまでもない。変化をチャンスとしてとらえ、果敢に行動して成功をつかんだ人もいる一方、不安に怯えて生きた人々もいた。その一例は、困窮した農民、また農村から都市に流入して日雇いの肉体労働などに従事する都市下層民である。1881-1886年(明治14-19年)の「松方デフレ」は、それまでの経済政策を大転換し、日本の経済発展の基礎を築いたと言われるが、一方で多くの困窮農民、負債農民騒擾を生み出した。

 江戸時代には、貧困者の救済は大名や幕府の代官・奉行、あるいは地域の富裕者によって各地でまちまちに行われていたが、明治になって、内務省が貧困者の救済を担当することになった。内務省は「恤救規則」を制定したものの、できるだけ制度の利用を制限し、「何らかの仕事のできる者」や「これまで隣近所で面倒を見てきた者」は救済対象として認めなかった。その理由は、政府に「カネがなかったから」である。

 なぜカネがなかったかというと、新政府の成立後も、領民の納める年貢は各藩の収入になっていた。廃藩置県によって、ようやく年貢が政府の収入になり、地租改正が行われた。しかし士族の反乱、農民反乱が相次ぎ、政府は大幅な減税を容認せざるを得なかった。つまり、クーデターによって成立した明治政府は、人々に信頼されていなかったので高い税金をとることができず、政府の財政を通じて富の再分配をすることができなかったのだ。公的扶助が期待できない「小さい政府」の下で、貧しい人々にできるのは「ひたすら自分でがんばる」ことだけだった。

 1894-95年の日清戦争に勝利した日本は、多額の賠償金を手に入れたが、その臨時収入は次の戦争に備える軍備増強に使われた。1899年、念願の地租の増税が行われたが、その使いみちは、強い軍隊、産業インフラ、学校などで、貧困者の救済には使われなかった。

 その背景には「通俗道徳のわな」があると著者は説く。「通俗道徳」というのは歴史学の用語なのだそうだ。誰もが必死にがんばらなければならない社会の中で、一握りの成功者は「成功するためには努力しなければならない」「失敗した者は努力をしなかったダメ人間である」という通俗道徳を吹聴する。それが社会に行き渡ると、ダメ人間のために税金を使うことに賛同する人々はいなくなる。なんだか明治の話ではなく、今の日本の話を聞いているような気がした。しかし明治時代は財産による制限選挙だったから、政治家が貧困救済に関心を持たなくても仕方ないが、普通選挙の今日でも貧困対策に抵抗が強いのは、よほどこの通俗道徳の縛りが大きいのだと思う。

 歴史学者の安丸良夫氏は、こうした通俗道徳が人々に広まったのは、市場経済が広まった江戸時代の後半だと考えている。それでも江戸時代には、豊かな人が必然的に貧しい人を助ける仕組み(村請制)があったのだが、明治以降は、完全に通俗道徳のわなにはまってしまうという。前近代の集団責任制には、もちろん負の面もあるが、いろいろ考えさせられる。

 この弱者に冷たい明治社会で、無理を強いられた人々として、本書は「女性」と「若い男性」について、それぞれ章を設けている。女性については、芸娼妓解放令によってタテマエでは自由になりながら、実質的には人身売買状態が続いたことが述べられている。そうそう、これは横山百合子さんの『江戸東京の明治維新』でも読んだ。男性も、職人、工場労働者など都市下層民の若い男性は社会の弱者だった。東京で何かの政治集会が開かれると、それをきっかけに暴動を起こすのはつねに彼らだった。ただし藤野裕子氏は、彼らの対抗文化(社会の主流文化に対抗する価値観)は、結局、通俗道徳の補完でしかないと論じている。このへんも、現代の政治状況、安保法制やヘイトスピーチをめぐるデモとの類似や差異を考える材料として興味深い。

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