見もの・読みもの日記

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右派言論の多様性と可能性/『諸君!』『正論』の研究(上丸洋一)

2014-04-17 23:13:34 | 読んだもの(書籍)
○上丸洋一『『諸君!』『正論』の研究:保守言論はどう変容してきたか』 岩波書店 2011.6

 むかし、小さな研究所の図書室に勤めていたとき、どちらかと言えばリベラルな教員が、自分の研究費で『諸君!』『正論』を買って、読み終わると図書室に寄贈してくれていた。たぶん自分と逆の立場の人々の発言を、ジャーナリズム研究者としてウォッチしていたのだと思う。そのせいで、もの知らずな私は、長いこと『諸君!』『正論』はリベラル左派の読む雑誌だと思い込んでいた。

 本書の著者は、2002年から2005年まで、朝日新聞社の雑誌『論座』の編集長だった方である(ああ、『論座』も私の勤務先の図書室に置かれていた)。そして、当時『論座』よりはるかに多い読者を獲得していた『諸君!』『正論』の研究に着手したのだという。しかし『論座』は2008年に休刊、文藝春秋社の『諸君!』も2009年に休刊してしまった。気づかぬうちに、雑誌ジャーナリズムって、もはや完全に過去のものになってしまったのだな…。

 著者は、1969年の『諸君!』の創刊に遡り、その背景となった1968年の世界と日本の激動について語る。ベトナム反戦運動、文化大革命、全共闘の時代だ。この時期、社会の非主流に追いやられた保守派の知識人たちが、言いたいことの言えるメディアを必要としていたことは納得できる。その要請に応えた文藝春秋社の池島信平という人は、えらい出版人・編集者だなと思った。

 一方、1973年創刊の『正論』に色濃く影を落としているのは、産経新聞のカリスマ社長、鹿内信隆である。鹿内は「新聞界の偏向」に挑戦するために『正論』を創刊したとはっきり述べている。こうして並べると、『諸君!』と『正論』には、保守言論の雑誌とひとくくりにすることができない、明瞭な出自の違いがあることが分かる。

 そのことはさておき、どちらの雑誌も1990年代前半までは、かなり幅広く多様な主張を掲載していた。1975年には児玉誉士夫が『正論』に天皇退位論(戦争の責任をとっていただきたいというのではない。天皇陛下を崇敬し、天皇制を絶対に守らねばならぬからこそ天皇の責任を明らかにしていただきたかったのである)を掲載し、大きな反響を巻き起こした。

 76年に国際政治学者の猪木正道は、『正論』誌上に「はっきりいえることは、外国人の愛国心を理解し、尊敬できないような愛国心は、疑いもなく偽物だという点だ」「旧大日本帝国を破滅に導いた狂信と、本当の愛国心の間には、ガン細胞と正常な細胞の間の相違と同じく、質的な区別が存する」等々、私から見ても、まさに正論を寄稿している。

 1980年代後半には、主として『諸君!』誌上、のちに『正論』をも巻き込むかたちで、俵孝太郎、小田村四郎、山本七平ら保守派の論客が、A級戦犯の靖国合祀をめぐって論争している。いまの右派の主張にいちばん近いのは小田村四郎かな。俵孝太郎は「私は靖国神社に祀られるのはあくまで国難に殉じた戦没者であって、国難を招来したものであってはならないと思う」と主張している。こうした保守論壇の多様性の検証は、非常に面白かった。

 しかし、1989年にベルリンの壁が崩壊し、91年にソ連共産党が解散し、反共・反ソ論者に見えていた「敵」が消滅した頃から、事態はおかしくなっていく。新たな敵を求めて『諸君!』『正論』には北朝鮮関係の記事が目立つようになる。なるほど、そうだったかもしれない。

 90年代の終わり頃から『諸君!』の文体は「著しく劣化してきた」と著者は指摘する。同感だが、『諸君!』だけではなくて、保守系論壇全てが、いや右も左も、総体的に日本人の頭脳が劣化(幼児化)したような気もするし、雑誌というメディアの衰退を示しているだけなのかもしれないとも思う。しかし、考えておかねばならないことがひとつあって、雑誌メディアを回復不能な凋落に追いやった原因は、電子メディアとの競合などではなくて、「売れればいい」「売れるためなら何をしてもいい」という態度だったのではないかと思う。いま、同じ理由で、単行本も滅びつつあるような気がしてならない。

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