見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

文化財は誰のものか?/コロニアリズムと文化財(荒井信一)

2012-09-01 09:44:25 | 読んだもの(書籍)
○荒井信一『コロニアリズムと文化財:近代日本と朝鮮から考える』(岩波新書) 岩波書店 2012.7

 本書は、いちはやく「帝国化」を遂げた日本が、朝鮮半島において行った文化財収奪の経緯を詳述し、戦後、その「返還」をめぐる交渉、成果、さらに残された問題点を、世界で進むコロニアリズム清算の動きとあわせて紹介する。…というのは、断っておくけど、かなり本書の視点に歩み寄った要約である。

 私は、日本が近代化の過程で、隣国・朝鮮に対して、いろいろと非道なことをしてきたと認めるにやぶさかでない。日清開戦の名目をつくるため、京福宮に押し入った日本軍が、朝鮮王室の宝物を略奪したとか、戦乱で廃寺・野放しになった仏教遺跡から多数の石仏・石塔が日本に持ち去られたとか、後年、鉄道敷設のため、多くの墳墓が取り除かれ、墓の祭器がおびただしく流出したとか読むと、ああ、どうもすいません、という気持ちになる。伊藤博文がソウルの骨董商で高麗磁器をそっくり買い占め、最も優れた品は日本に持ち帰って明治天皇に献上したというのも、あるだろうなあと思う。

 だが、帝国博物館総長をつとめた九鬼隆一が、日清戦争を東アジア美術品収集の好機会ととらえ、政府や陸海軍の高官に意見書を送っていたことや、関野貞による朝鮮の古建築調査が、軍の庇護のもと、植民地統治の実用目的と結びついたものであったことなどが、全て「批判」の文脈で語られることには、正直、ものすごく居心地の悪さを感じる。もちろん、朝鮮の文化財調査を行いながら、その国外移動を行わなかったことで、好意的に言及されている少数の学者もいる。著者のスタンスは、文化財を原産地から移動させることに対し、おしなべて否定的なのだ。それってどうなんだろう?と、少し首をかしげたくなる。

 それから、よく分からないのは、著者の「アマチュア嫌い」だ。関野貞の古蹟調査が「おおくのアマチュアに依存」していたことに著者は疑問を投げかける。要するに、折りあらば発掘品を自分のものにしてしまおうというような古物コレクターが混じっていたらしいことを批判しているのだ。それ以外の箇所でも、朝鮮各地で、日本人のアマチュア古物収集家による濫掘が行われ、遺跡の荒廃を招いたことが問題視されている。しかし、この当時、専門家とアマチュア古物収集家に、どのくらい差があったのか。私は、現在、さまざまな美術館で「アマチュア収集家」由来のコレクションを見て、その質の高さに驚嘆することが多いのだが…。

 後半、戦後の文化財返還交渉をめぐっても、返還を要求する韓国、それに同調する本書の記述に対して、強い違和感がずっと抜けなかった。そして、最終章まで読み進んで、ようやく自分の違和感の正体に突き当たった。1950年「文化財保護法」の制定にあたり、参議院議員の山本有三は、文化財を定義して「わが国の長い歴史のなかで生まれ、育まれ、今日の世代に守り伝ええられてきた貴重な国民の財産であり、わが国の歴史・文化等の正しい理解のために欠くことのできないものであって、将来の文化の発展向上の基礎をなすものである」と述べている。格調高い、立派な文章であると思うが、「わが国の歴史・文化」「国民の財産」など、国民国家の存在が前提となっていることが、私の趣味に添わないのだ。

 本書が高く評価する「ユネスコ条約」も同じだ。「文化財の真価はその起源、歴史および伝統の背景についてできる限り正確な知識を得ることによってのみ理解」できるとし、文化財を「文明および国民文化の基本的要素の一つ」としている。これは、ユネスコが、文化財の原保有国への復帰・返還を促進する思想的基盤をあらわしたものと考えられる。

 しかし、周辺地域の文化財を収奪してきて、母国の国威発揚に役立てようという行為の根底にあるものがナショナリズムなら、国境の外に流出した文化財を国内に回収しようという行為もナショナリズムだと思う。両者に本質的な差はないのではないか。人類の長い歴史と比べれば、「国民国家」という概念は、まだ生まれたばかりと言ってもいいくらいだ。にもかかわらず、いずれの文化財も、その原産地に、たまたま、現在居住する「国民」と「政権」が所有権を主張できるのだろうか。また「文化財の真価はその起源、歴史および伝統の背景についてできる限り正確な知識を得ることによってのみ理解」できるというが、原産地の国民と政権が、これに最も該当すると言い得るのだろうか。…いま私は、大阪市の文楽補助金問題を想起しながら、この箇所を書いている。

 根本的には、本書のオビにあるとおり「文化財は誰のものか?」という設問に帰着する。本書によれば、私のような考え方は「文化財国際主義」と呼ばれるらしい(文化財ナショナリズムに対して)。原語はよく知らないが「国際」というのも古い表現だと思う。「国」が前提となっている時点で。

 著者の専門は西洋史で、朝鮮文化財の専門家ではない。そのこともあってか、個々の事例の記述には、ときどき素人の私でも疑問を感じるところがある。たとえば、2006年に東京大学からソウル大学に「寄贈」された『朝鮮王朝実録』。本書の記述だと、韓国の国宝およびユネスコ世界記録遺産の指定を受けるような唯一無二の至宝を日本がかっさらっていったかのような印象を受けるが、当時韓国には5種(昌徳宮+4つの史庫)があり、保存状態のよくないものを優先して東京に送ったと考えられている(※『朝鮮王朝「儀軌」百年の流転』、NHK出版 2011)。『実録』の移送にかかわった白鳥庫吉は、五台山本を「もっとも完全なもの」と語っているそうだが、ここは原文の引用がないので、どういう意味で「完全」なのか、よく分からない。確かめようと思ったが、参照文献の記載が不十分で、これでは原文に当たりようがない(ネット検索したら著者の別の原稿がヒットして「史学雑誌」を見ればいいことが分かった)。

 また、著者は「本来の所蔵地であった五台山史庫にもどされなかったことに問題があった」とも言うが、『実録』の旧蔵者は朝鮮王室と考えるべきで、史庫(戦乱を避けるため、わざわざ僻地に置かれた)や、その管理を任されていた月精寺に戻す必要は、全くないものと考える(五台山史庫って、2008年に行ってみたけど、これだぞ)。

 著者の原稿を多様な角度から検証し、不備を指摘して、よりよい著作に練り上げていくのは編集者の仕事だと思っているので、本書については、なんとなく編集者の力不足を感じてしまった。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 虚構の果ての廃墟/夢の原子... | トップ | ここまで書いて大丈夫?/工... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

読んだもの(書籍)」カテゴリの最新記事