見もの・読みもの日記

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書物とともに/中国出版文化史(井上進)

2006-11-29 22:36:43 | 読んだもの(書籍)
○井上進『中国出版文化史:書物世界と知の風景』 名古屋大学出版会 2002.1

 このところ、アメリカ関連本ばかり読んでいたので、漢字文化の本が読みたくなって、つい買ってしまった。しかし、手を出すのは出張が終わってから、と自分に禁じていたら、著者の久々の新刊『書林の眺望:伝統中国の書物世界』(平凡社 2006.11)が、書店に並んでいるではないか。嬉しいけれど、ちょっと慌てた。まずは旧著から読んでいこう。

 本書は、中国の書物世界の歴史を概観したものである。「出版史」とは言いながら、記述は、印刷本のはるか以前、中国文明において「書籍なるもの」が成立した時代から始まる。孔子の生きた春秋時代(紀元前6世紀)には、既に「読書」というタームが成立し、「自著」の意識が芽生え、支配階級や民間の学者には「蔵書家」が現れた。ただし、当時の「書籍」の形態は、当然、竹簡である。

 魏晋以来、紙の使用が一般化し、唐代に印刷術が登場する。宋代には、知識階級の拡大(旧貴族の没落→士大夫の成立)に伴って、営利出版と書籍の売買が、いちじるしく発達した。しかし、やはり、伝録(鈔写)は、知識の正当な伝達形態であり続けた。

 明初、出版の俗化と衰退を経て、明中期(16世紀)に至って、書籍業界には新紀元が訪れる。書物一般は金で買えるものとなり、非特権身分の蔵書家も一般的になる。同時に、知識の相対化が進み、異端・異説が許容され、通俗文学が認知される。読書に惑溺する楽しみを隠そうとしない者も現れる。

 以上は、本書の記述を雑駁に要約したものだ。中国の歴史と、あまりにも親密に付き合いすぎている私(たち)は、孔子が「読書」と言えば、つい、糸綴じの冊子本を思い浮かべてしまう。唐代の詩人が人気を博したと言えば、彼の詩集が印刷されて出回ったようにイメージするし、宋代の学者が善本を求めるといえば、本屋に買いに行くことだと考える。

 そうした思い込みが、本書では、ひとつひとつ具体的な事例と考察によって、覆されていく。古代の「蔵書家」とは、いったい、どのくらいの量の書籍を持っていたのか? たとえば、蔵書「数百巻」といえば多いか少ないか?(→多くない。西洋の書物と違って、中国の古典籍は巻数が多く、たとえば『史記』は1作品で百余巻ある) 本はいくらで売り買いされたのか? 書店はどこにあったのか?等々。

 宋代、書籍を買うなら開封の相国寺の市(月に5度)が有名だったとか、明代には、江南の水路を書船(書籍を売る船)が往来していたと聞くと、訪ねたことのある当地の風景が思い出されて、想像が広がる。

 明初には『史記』を読もうとしても善本が廃絶して入手困難だったとか、異端書の極致『墨子』は、二千年近くを鈔写で伝わったのち、明の正徳年間に初めて「出版」された、などのエピソードからは、今日、ひとしなみに「古典」と呼ばれる作品も、それぞれ個別の享受史を持っているのだということを、あらためて感じた。

 さらに興味深いのは、著者によれば、書物に現れた明末の文化情況は、伝統的な権威が完全に崩壊する臨界点まで行っていたにもかかわらず、そうならなかったという点だ。「営利出版の氾濫は退潮に向かい、いよいよ表舞台に登場しそうであった通俗文学も、再び裏通りに押し込められた」と言う。よって、本書には、清朝の記述はない。清朝びいきの私には残念なのだが、この、一気に沸点まで行きそうで行かないところが、「中国史の中国史たるゆえん」だという気もする。

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