見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

この非合理的なるもの/感情の政治学(吉田徹)

2014-10-06 23:29:49 | 読んだもの(書籍)
○吉田徹『感情の政治学』(講談社選書メチエ) 講談社 2014.7

 政治学は社会科学の一分野である。「科学」というからには、どんな問題でも、十分に合理的に考え、捉えることができれば、適切な「解」を見出すことができるという確信が前提になっている。しかし、現実はさほど単純ではない。ということで、例にあがっているのが(嬉しいことにw)『スタートレック』シリーズ。理知的で合理的なスポック博士の指摘が、必ずしも正しい結果をもたらすとは限らない。さまざまな情報が飛び交い、主張や意見の行き違いが生じ、妬みや恨みも生まれる中で、限られた時間内で乗組員の感情を機敏に把握し、説得や懐柔という手段を通じて、船内の調和を図っていくのは、むしろ直感に優れた直情型のカーク船長の得意とするところ。それこそが政治である、って、たいへん分かりやすい比喩だ。

 「私たちは、一人一人が合理的に正しく考え、行動すれば世の中は良いものになるという思考にあまりにも慣れ過ぎてはいないか」と著者は問題提起するのだが、この「私たち」は、アカデミズムの世界に生きる政治学者だけではないか、とちょっと思った。ともかく、本書は、いくつかのキーワードをもとに、どのような「感情」が、人々の政治参加の駆動力となるのかを考えている。

 「化」の章では、投票行動における「選好」が、どのように作られているかを調査する。人々は、各党の政策を合理的に判断して決めているわけではない。家族やカップル、友人など「親密圏」の強い影響を受けながら、政治意識を形成していく。興味深いのは、アメリカの子供たちが、大統領を理想化することを通じて、母国の政治システムに信頼を置くようになるのに対して、日本の青少年は政治家にマイナスの印象を抱いている割合が高い。だから、日本の政治をよくするには、まず家庭内で政治をシニカルにではなく、好意的に論ずることだ、と著者は言うのだけれど、ううむ、現状では無理がありすぎる。

 「間」の章では、1980年代以降に台頭した新自由主義と比較しながら「政治的恩顧主義」を再考する。まず、新自由主義の最大の弊害は、格差の拡大や権威主義でなく、社会全体を他人に対する不信を前提に組み立てる「新自由主義モード」をもたらした点にある、と喝破する。これに対して、個人的な関係を基礎とし、政治的な支持の見返りに何らかの報酬を求める「政治的恩顧主義」は、前近代的な悪習と見做されがちだが、パトロンとクライアントには、長期的かつ持続的な関係が構築される。互いが互いを必要とすることによって、平等主義的な関係が形成され、共同体の強度を高めることもあり得る。

 「群」の章は省略。「怖」の章は、恐怖(平等な負の感情)が共同体の基礎となることを説く。同時多発テロに対する「不安」、経済不況や雇用不安に対する「苛立ち」「憤り」は、人々を集団化し、極端に暴力的な行動にさえ駆り立てる。このことに対して著者の考える処方箋は難しいのだが、情念を捨てて理性的になれ、と呼びかけるのではなく、情念の存在を踏まえた政治のあり方が模索されなければならない、とする。ここでホッブズが参照され、「平和が実現されて恐怖が消え去るのではない。(略)恐怖があるから人間は合理的に行動し、自分の欲求(※平和)を達成することができるのだ」と説明されているところは、正直、かなり難しかった。

 最後に「信」の章は、日本が他の先進国に比べて、異様に「増税しにくい国」である理由を、日本が政治に対しても、他人に対しても信頼を寄せない「高度不信社会」であるから、という説明から入っていく。この章は、頻繁に統計調査が参照されていて、とても興味深い。世界各国の調査によれば、福祉の度合いと他人への信頼度には明らかな相関関係がある。高度な福祉国家である北欧諸国は、国家に対する信頼も、他人への信頼度も高い。私は、今すぐ日本が「高度な福祉国家」になれるとは思わないので、「中程度の福祉国家」でいいんじゃないかと思うけれど、著者のいう、「他人の自由が増えることは、自分の自由が減ることを意味しない」くらいのコンセンサスを認め合う社会にはなってほしいと思う。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 民主政権崩壊以後/歴史を繰... | トップ | 絵画史料の読み方/江戸名所... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

読んだもの(書籍)」カテゴリの最新記事