○将基面貴巳『言論弾圧:矢内原事件の構図』(中公新書) 中央公論新社 2014.9
内容とは無関係だが、将基面貴巳(しょうぎめん・たかし)さんって、ずいぶん難しい名前だなあ、と思った。あとから知ったことだが、主に海外の大学でキャリアを積んでいらして、『ヨーロッパ政治思想の誕生』で2013年のサントリー学芸賞を受賞されている。
「矢内原事件」とは、東大経済学部教授であった矢内原忠雄が、政府に批判的な論説を発表したことによって職を辞した事件である。私が初めてこの事件の梗概を学んだのは、立花隆の『天皇と東大』だった。同書の内容は詳しく覚えていないが、軍国主義に抵抗し、思想・学問の自由を貫いた矢内原に肩入れする立場から書かれていたと思う。それから竹内洋さんの『大学という病』も読んだ。こちらは、昭和初期の東大経済学部における教授たちの権力闘争を描いたもので、「矢内原事件」はその一挿話のような扱いだったと思う。
矢内原は、内村鑑三門下の無教会キリスト者であり、『中央公論』『改造』などの総合雑誌を中心に活躍した「講壇ジャーナリスト」の先駆者であった(著者いわく、昭和初年度においては、大学教授が総合雑誌上で一般読者向けに論説を発表することは今日よりも一般的だったように思われる。へえーそうなのか)。
事件の直接のきっかけとなったのは、昭和12年(1937)、盧溝橋事件勃発により世間の雰囲気が激変する中、矢内原が『中央公論』9月号に寄稿した論文「国家の理想」だった。巻頭に掲載されるはずだった同論文は、当局の指示で削除(不掲載)処分になったが、処分は完全に実行されたわけではなく、一部には掲載されて流通した(読んだ、という同時代人の記録がある)という。ええ~面白いものだな、全国の図書館に残っている同誌を調べてみたい。
当時の『中央公論』編集者の回想によれば、出版社は、雑誌を商業ベースに乗せるため、あえて発禁のボーダーラインすれすれを狙った誌面づくりをしていた。そして、当局から「発禁」の通知が出て、問題の雑誌が返納されると、社員総出で発禁論文を物理的に切り取って、また書店に流していたという。本書は、大きな問題を扱っているわりに、こういう細かい具体的な描写が豊富で、非常に面白かった。
政府当局において矢内原の言論抑圧の火付け役になったのは文部省教学局であり、その中心人物は、伊東延吉と菊池豊三郎であった。文部省を中心として(!)ほかの省庁や政治家も、一斉に矢内原攻撃を仕掛けたが、彼らの多くは、蓑田胸喜の主宰する雑誌『原理日本』の購読者だった。
これらの荒波が最後に到達したのが、東大経済学部の教授会であり、土方成美学部長と長与又郎総長の協議、さらに長与総長と木戸幸一文部大臣の協議である。当初、長与総長は矢内原を守る決意を固めていた。しかし、文科省は再び長与総長を呼び出し「矢内原辞職に決す」旨を伝える。その理由は、前述の「国家の理想」とは別に、キリスト者を対象とした講演「神の国」における矢内原の発言「日本の理想を生かす為に、一先ずこの国を葬って下さい」が、「国体精神と全く相容れない」ためだという。
ううむ、駄目なのか、これ。無教養な官僚や政治家が、思想的・文学的修辞を理解できないのは仕方ないとして、東京帝国大学総長が、たったこれだけの文言で「余としても到底許容出来ぬ文章あり。自発的に辞職せしむる外に道なし」と決心してしまうのか。著者が「矢内原事件」の核心を、「当局」対「一大学人」ではなく「大学総長」、「文部省からの一撃に大学総長があえなく屈した」点に置いていることは重要である。組織内(フォロワー)に対するリーダーシップがどれだけあっても、外圧に対して腰砕けになる総長を選んではいけない、という教訓を引き出しておきたい。
また「愛国心」について、著者は以下のように指摘する。矢内原の愛国心とは、日本の国が掲げるべき理想を愛することであり、理想から離れた現実の日本を批判することだった。一方、土方成美は、いったん国策が決定し、現に戦争が行われている状況で、戦争に反対したり、時局を軽視することが「愛国的であるとはどうしても考えられない」と述べている。さらに蓑田胸喜は「真理とは日本国体なり」と述べる。理想はすでに日本国体(あるがままの日本)に顕現しているのであり、国体に対する、いかなる懐疑、批判も「侮日的」「抗日的」であることになる。
ああもう、ここを読んだとき、最近のネットを賑わす「反日」の意味はとってもよく分かった。彼らが信奉するのは、歴史上、現実に存在した日本国ではなく、「原理日本」なんだな、たぶん。(でも断っておくが、私は蓑田胸喜という人物はそんなに嫌いじゃないのだ。本書の「あとがき」を読むと著者もそうではないかなと思う)
戦後、矢内原忠雄は東大に復職して、社会科学研究所の初代所長になるんだなあ(感慨)。矢内原の著作『余の尊敬する人物(正・続)』(岩波新書)を読んでみたくて、いま、探している。エレミヤ論の末尾に、ひそかに「蓑田胸喜」の四文字を折句のように句頭に据えて、反撃を試みた部分があるというのは、本書で初めて知った。あと、本書からの情報ではないが、東大駒場キャンパスには、かつて「矢内原門」という通用門があり、今はその「跡」を示す石碑が立っているそうだ。大学って、よいことも悪いことも、こうして歴史を積み重ねていくところが好きなのである。
内容とは無関係だが、将基面貴巳(しょうぎめん・たかし)さんって、ずいぶん難しい名前だなあ、と思った。あとから知ったことだが、主に海外の大学でキャリアを積んでいらして、『ヨーロッパ政治思想の誕生』で2013年のサントリー学芸賞を受賞されている。
「矢内原事件」とは、東大経済学部教授であった矢内原忠雄が、政府に批判的な論説を発表したことによって職を辞した事件である。私が初めてこの事件の梗概を学んだのは、立花隆の『天皇と東大』だった。同書の内容は詳しく覚えていないが、軍国主義に抵抗し、思想・学問の自由を貫いた矢内原に肩入れする立場から書かれていたと思う。それから竹内洋さんの『大学という病』も読んだ。こちらは、昭和初期の東大経済学部における教授たちの権力闘争を描いたもので、「矢内原事件」はその一挿話のような扱いだったと思う。
矢内原は、内村鑑三門下の無教会キリスト者であり、『中央公論』『改造』などの総合雑誌を中心に活躍した「講壇ジャーナリスト」の先駆者であった(著者いわく、昭和初年度においては、大学教授が総合雑誌上で一般読者向けに論説を発表することは今日よりも一般的だったように思われる。へえーそうなのか)。
事件の直接のきっかけとなったのは、昭和12年(1937)、盧溝橋事件勃発により世間の雰囲気が激変する中、矢内原が『中央公論』9月号に寄稿した論文「国家の理想」だった。巻頭に掲載されるはずだった同論文は、当局の指示で削除(不掲載)処分になったが、処分は完全に実行されたわけではなく、一部には掲載されて流通した(読んだ、という同時代人の記録がある)という。ええ~面白いものだな、全国の図書館に残っている同誌を調べてみたい。
当時の『中央公論』編集者の回想によれば、出版社は、雑誌を商業ベースに乗せるため、あえて発禁のボーダーラインすれすれを狙った誌面づくりをしていた。そして、当局から「発禁」の通知が出て、問題の雑誌が返納されると、社員総出で発禁論文を物理的に切り取って、また書店に流していたという。本書は、大きな問題を扱っているわりに、こういう細かい具体的な描写が豊富で、非常に面白かった。
政府当局において矢内原の言論抑圧の火付け役になったのは文部省教学局であり、その中心人物は、伊東延吉と菊池豊三郎であった。文部省を中心として(!)ほかの省庁や政治家も、一斉に矢内原攻撃を仕掛けたが、彼らの多くは、蓑田胸喜の主宰する雑誌『原理日本』の購読者だった。
これらの荒波が最後に到達したのが、東大経済学部の教授会であり、土方成美学部長と長与又郎総長の協議、さらに長与総長と木戸幸一文部大臣の協議である。当初、長与総長は矢内原を守る決意を固めていた。しかし、文科省は再び長与総長を呼び出し「矢内原辞職に決す」旨を伝える。その理由は、前述の「国家の理想」とは別に、キリスト者を対象とした講演「神の国」における矢内原の発言「日本の理想を生かす為に、一先ずこの国を葬って下さい」が、「国体精神と全く相容れない」ためだという。
ううむ、駄目なのか、これ。無教養な官僚や政治家が、思想的・文学的修辞を理解できないのは仕方ないとして、東京帝国大学総長が、たったこれだけの文言で「余としても到底許容出来ぬ文章あり。自発的に辞職せしむる外に道なし」と決心してしまうのか。著者が「矢内原事件」の核心を、「当局」対「一大学人」ではなく「大学総長」、「文部省からの一撃に大学総長があえなく屈した」点に置いていることは重要である。組織内(フォロワー)に対するリーダーシップがどれだけあっても、外圧に対して腰砕けになる総長を選んではいけない、という教訓を引き出しておきたい。
また「愛国心」について、著者は以下のように指摘する。矢内原の愛国心とは、日本の国が掲げるべき理想を愛することであり、理想から離れた現実の日本を批判することだった。一方、土方成美は、いったん国策が決定し、現に戦争が行われている状況で、戦争に反対したり、時局を軽視することが「愛国的であるとはどうしても考えられない」と述べている。さらに蓑田胸喜は「真理とは日本国体なり」と述べる。理想はすでに日本国体(あるがままの日本)に顕現しているのであり、国体に対する、いかなる懐疑、批判も「侮日的」「抗日的」であることになる。
ああもう、ここを読んだとき、最近のネットを賑わす「反日」の意味はとってもよく分かった。彼らが信奉するのは、歴史上、現実に存在した日本国ではなく、「原理日本」なんだな、たぶん。(でも断っておくが、私は蓑田胸喜という人物はそんなに嫌いじゃないのだ。本書の「あとがき」を読むと著者もそうではないかなと思う)
戦後、矢内原忠雄は東大に復職して、社会科学研究所の初代所長になるんだなあ(感慨)。矢内原の著作『余の尊敬する人物(正・続)』(岩波新書)を読んでみたくて、いま、探している。エレミヤ論の末尾に、ひそかに「蓑田胸喜」の四文字を折句のように句頭に据えて、反撃を試みた部分があるというのは、本書で初めて知った。あと、本書からの情報ではないが、東大駒場キャンパスには、かつて「矢内原門」という通用門があり、今はその「跡」を示す石碑が立っているそうだ。大学って、よいことも悪いことも、こうして歴史を積み重ねていくところが好きなのである。