○鷲田清一『だれのための仕事:労働vs余暇を超えて』(講談社学術文庫) 講談社 2011.12
あるべき労働とは何か。この問いは、ほとんど、あるべき人生とは何か、という問いに重なる。この問いをめぐって、精緻で誠実な分析が続いていくのだが、しばらく読み進んでから、かすかな違和感を感じて、原著の刊行年を確認した。1996年刊。当時すでに社会人だった私からすれば「わずか」15年の間に、日本人の「労働」観は、かなり変わってきているのではないか。
さまざまな時代、さまざまな社会において「労働」と呼ばれてきたものの内実が、本当はずいぶん異なっている、というのは、本書を読んで感じたことだ。産業社会以前の労働。労働者は労働過程の全体を表象し、自分の行うことの意味を理解しながら作業を勧めることができた、と言われている。
産業社会では、工場の生産装置に従属した、規則的な活動が強いられる。労働者はよけいなことを考えず、機械的に身体を動かすことがよいとされる。過酷な隷属状態である「労働」に対して、自由で豊かな「余暇」という二分的思考法が成立する。だが、これは既にかなり古い労働形態である。現代のオフィスワーカーの場合、労働と余暇は、よくない意味で、ぐちゃぐちゃに入り組んでしまっていると思う。
労働が生命維持に必要な「労苦」であればこそ、人間には、進んで労働を行い得るようなモチベーションを編み出す必要があった。そこで「勤勉・勤労(インダストリアス)」という美徳が発明・強調され、人びとの中に浸透する中で、二つのことが起こった。ひとつには「自律」という観念の下で、より深い服従強制に主体的に従う心的機制が生まれ、今ひとつは、「仕事/遊び」が「労働/余暇」に置き換えられることにより、どちらも貧困化してしまった。この指摘は、どちらも重かった。
隅々まで規格化されて「遊び」を失った「労働」にも、「労働」を補完するための「余暇(リクリエーション)」にも満足できなくなった人びとから、にわかに注目を集めているのが「ボランティア」だという。折しも1995年、阪神大震災に際して、多くの人びとが非報酬労働と肉体労働を求めて被災地に向かった。それは「他者の前でだれかとしてその他者にかかわるという、ひさしく労働というものが失っている契機」を求める行為だったのではないか、と著者は説く。
単純作業に楽しさがないのは、「だれのために」という契機が抜け落ちているためである。仕事の楽しさとは、未来の目的(達成とか報酬とか)ではなく、現在の他者との関係の中で「自分」あるいは「自分を超えたものに自分が開かれているという感情」を確認するところにあるのではないか。…ちょっと要約しすぎかな。著者の言いたいことは分かったような気がしたのだけど。
本書には、新たに執筆された「補章」が付け加えられており、こっちの方が、最近の「労働をめぐるきびしい状況」に即している分、読みやすい。若年層の多くが「納得のゆく」仕事につけていないという由々しき状況。しかしさ、会社に入ればみな、だれでもできる仕事しかさせてもらえない。本当にそうなんだよな。だれでもできる仕事を工夫しながら丹念にくり返しているうちに、自分流のやり方を見つけ、はじめて、他のひとにはできない仕事が生まれるのだが、「自分にしかできないこと」へのこだわりが強い若者には、「このことがなかなかわかってもらえない」と著者は嘆息する。
仕事を懸命にすればするほど「他人のおかげ」ということを思い知り、自分の「目的」でなく「限界」に向き合うこと、けれども、そこに「喜び」を感じることができれば、それこそが働き甲斐というものである。私自身は、そろそろ自分自身よりも、部下の働き甲斐に責任を持つ立場になってきた。どうすれば、一般のオフィスワークの中に「他者との関係」を導入し、生産性の追求や自己実現とは違った「働く喜び」を作り出すことができるだろうか。そんなことを思いあぐねながら、本書を読んだ。
あるべき労働とは何か。この問いは、ほとんど、あるべき人生とは何か、という問いに重なる。この問いをめぐって、精緻で誠実な分析が続いていくのだが、しばらく読み進んでから、かすかな違和感を感じて、原著の刊行年を確認した。1996年刊。当時すでに社会人だった私からすれば「わずか」15年の間に、日本人の「労働」観は、かなり変わってきているのではないか。
さまざまな時代、さまざまな社会において「労働」と呼ばれてきたものの内実が、本当はずいぶん異なっている、というのは、本書を読んで感じたことだ。産業社会以前の労働。労働者は労働過程の全体を表象し、自分の行うことの意味を理解しながら作業を勧めることができた、と言われている。
産業社会では、工場の生産装置に従属した、規則的な活動が強いられる。労働者はよけいなことを考えず、機械的に身体を動かすことがよいとされる。過酷な隷属状態である「労働」に対して、自由で豊かな「余暇」という二分的思考法が成立する。だが、これは既にかなり古い労働形態である。現代のオフィスワーカーの場合、労働と余暇は、よくない意味で、ぐちゃぐちゃに入り組んでしまっていると思う。
労働が生命維持に必要な「労苦」であればこそ、人間には、進んで労働を行い得るようなモチベーションを編み出す必要があった。そこで「勤勉・勤労(インダストリアス)」という美徳が発明・強調され、人びとの中に浸透する中で、二つのことが起こった。ひとつには「自律」という観念の下で、より深い服従強制に主体的に従う心的機制が生まれ、今ひとつは、「仕事/遊び」が「労働/余暇」に置き換えられることにより、どちらも貧困化してしまった。この指摘は、どちらも重かった。
隅々まで規格化されて「遊び」を失った「労働」にも、「労働」を補完するための「余暇(リクリエーション)」にも満足できなくなった人びとから、にわかに注目を集めているのが「ボランティア」だという。折しも1995年、阪神大震災に際して、多くの人びとが非報酬労働と肉体労働を求めて被災地に向かった。それは「他者の前でだれかとしてその他者にかかわるという、ひさしく労働というものが失っている契機」を求める行為だったのではないか、と著者は説く。
単純作業に楽しさがないのは、「だれのために」という契機が抜け落ちているためである。仕事の楽しさとは、未来の目的(達成とか報酬とか)ではなく、現在の他者との関係の中で「自分」あるいは「自分を超えたものに自分が開かれているという感情」を確認するところにあるのではないか。…ちょっと要約しすぎかな。著者の言いたいことは分かったような気がしたのだけど。
本書には、新たに執筆された「補章」が付け加えられており、こっちの方が、最近の「労働をめぐるきびしい状況」に即している分、読みやすい。若年層の多くが「納得のゆく」仕事につけていないという由々しき状況。しかしさ、会社に入ればみな、だれでもできる仕事しかさせてもらえない。本当にそうなんだよな。だれでもできる仕事を工夫しながら丹念にくり返しているうちに、自分流のやり方を見つけ、はじめて、他のひとにはできない仕事が生まれるのだが、「自分にしかできないこと」へのこだわりが強い若者には、「このことがなかなかわかってもらえない」と著者は嘆息する。
仕事を懸命にすればするほど「他人のおかげ」ということを思い知り、自分の「目的」でなく「限界」に向き合うこと、けれども、そこに「喜び」を感じることができれば、それこそが働き甲斐というものである。私自身は、そろそろ自分自身よりも、部下の働き甲斐に責任を持つ立場になってきた。どうすれば、一般のオフィスワークの中に「他者との関係」を導入し、生産性の追求や自己実現とは違った「働く喜び」を作り出すことができるだろうか。そんなことを思いあぐねながら、本書を読んだ。