見もの・読みもの日記

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京都史跡散歩・源平ゆかりの地を歩く(洛南その1)

2013-02-16 10:06:07 | 行ったもの(美術館・見仏)
JR宇治駅で降りると、「源氏物語のまち」をPRする看板が目につく。まあフィクションの中ではそのとおりだが、歴史上では、むしろ宇治って、治承4年(1180)の以仁王・源頼政と平家方との戦いや、寿永3年(1184)の源義経軍と源義仲軍との戦いなど、激しい戦乱の故地である。もっと古代にさかのぼれば、藤原仲麻呂(恵美押勝)も、平城京を脱出して宇治へ入り、さらに近江国を目指したのだった。

宇治橋の西詰に立てられた「夢の浮橋」古跡を示す石柱や、まだ新しい紫式部像を見ながら、後世の人間の記憶って恣意的だなあ、としみじみする。

平等院(京都府宇治市)

鳳凰堂は「平成の大修理」で、2012年9月3日から2014年3月31日(予定)まで拝観停止になっている。だが、長年、寺社めぐりをしていると、拝観停止中のめずらしい風景こそ目に焼き付けておきたい、写真に残しておきたい、と思うのだ。↓今、こんな感じ。東南アジアの水上建築みたいで、とてもきれいだ。



ミュージアム鳳翔館では、国宝平等院鳳凰堂平成修理記念『極楽を夢見て』(2013年1月19日~3月29日)を開催中。この中に、昭和の大修理(昭和25~32年)を描いた河原悦人の絵画『鳳凰堂簀(す)屋根』が初公開されている。工事風景を写実的に描いているのに、不思議な抒情がにじみ出ている。どこか日本画ふうの油絵。

源三位頼政の墓所にもお参り。なお、藤原忠実が宇治に隠棲(謹慎)していた邸宅「西殿」跡は、2004年に宇治市宇治妙楽の「宇治市街遺跡」から見つかっている。へえ~これは今、仕入れたばかりの知識なので、次回は様子を見にいこう。

※四国新聞社「藤原摂関家が宇治の町割り/碁盤の目道路跡が初出土」(2004/10/15)

※【新着ニュース】京都新聞「鳳凰堂、平安期の瓦1500枚 創建50年後 屋根ふく?」(2013/2/14)
創建(1053年)の50年後=1103/康和5年。お~白河院の院政時代である。

法界寺(京都市伏見区)

日野に出て法界寺へ。初めて訪ねたのが20年くらい前で、それ以来ではないかと思う。去年の大河ドラマの序盤、「こうして白河院は世を去った」みたいなナレーションの退場場面で、伊東四朗さん演ずる白河院が伏し拝んでいたのが、ここの阿弥陀如来で、あ、ロケ地は法界寺だ、と懐かしく思った。

平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像によく似ているが、いくぶん厳しい感じのする、こちらのお像のほうが私は好き。動きのある繊細な光背も。20年前もそうだったと記憶するが、受付兼務のお寺の方の説明を少し聞くと、あとはほったらかしなので、堂内を自由に見せていただける。平安の香りを残す巨大な阿弥陀さまと二人きりになる気分はなかなか贅沢でよい。

別のお堂に安置されている本尊・薬師如来は秘仏である。ご開帳ってないのかな…。探してみたら「防災訓練のときに見られる」という書き込みは見つけたが。

平重衝墓

南都焼討で名高い平清盛の五男。この近傍の木津川畔にて斬首されたことにちなみ、重衡妻の大納言典侍が一時身を寄せていた場所とも伝える。

20年前に初めて法界寺を目指して来たとき、偶然、道端でこの石柱を見つけて、感慨にふけった記憶がある(当時から平家びいきだった)ので、再訪してみたいと思った。

法界寺門前の道を北へ15分くらい。「合場川を渡り300mほど」という情報を、あらかじめ得ていたのだが、なかなかそれらしい物件がない。実は、写真↓の金網前に見える石柱が目印。



前(北側)にまわってみると「従三位平重衡卿墓」とある。これ、法界寺側から歩いて来ると見落としやすいなあ。石柱の角を左に折れると、



集合住宅の間の空き地に墓所が整備されている。背後は枝垂れ桜だろうか。花の季節は艶やかだろうと思われた。



向かって右の、鏡餅みたいな五輪塔くずれが微笑ましい。

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