○J.K.ローリング『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団(上)(下)』静山社 2004.9
9月1日に発売された、ハリー・ポッター日本語版の最新作。例によって店頭販売のセレモニーつきで華々しく登場したものの、すぐにベストセラー1位の座を明け渡したとか、小売店が在庫を持てあましているとか、人気”失速”の報道がかまびすしい。
どうなのかな。私のように「すぐ読んでしまうと次が待てない」と思って、1ヶ月くらいはブレーキかけてるファンもいると思うな。今日も近所のカフェで、買ったばかりらしい本書を、袋から出して眺めている若い女性を見かけた。文学(しかも児童文学)というのは、本来、長い時間をかけて浸透していくジャンルだから、音楽CDや映画みたいに”失速”を語ること自体、間違いじゃないかしら。
1巻から4巻まで読んできた日本の読者が、ここで離れてしまうとしたら、とても残念。確かに4巻くらいから物語のトーンに変化があって、初めの頃の「スカッとした面白さ」は後退している。でも、最初から最後まで同じように面白い長編小説なんてありえない。途中の退屈を辛抱して読み通してこそ、長編小説にしかない面白みが味わえるってものだ(いま、読んでいる「源氏物語」にも同じことを感じている)。
さて、この巻では、4巻で予兆のように忍び寄っていた様々な変化が確実なものになる。最大の変化はハリー自身だ。友だちや年長者の忠告に耳をかさず、危ない無鉄砲を繰り返し、そのうえ、自分を正当化して周りの人々を責め立てる。もともと彼は模範的なヒーローではない。好き嫌いもあるし、かんしゃくも起こす、普通の男の子だった。そうして、普通の15歳は、こんなものなんだろう。それにしても、年長者に対する反抗は”手厳しい”ほどだ。
まず、如何なるときも完全無欠の守護者だったダンブルドア校長に対する信頼が砕ける。ダンブルドアは、これまで見せたことのない苦衷の表情で、自分の判断に誤りがあったことを認め、ハリーに詫びるが、ハリーは彼を許すことができない。
実の父親に対する信頼も砕ける。ハリーは、スネイプ先生の記憶を覗き、そこで、同級生のスネイプを魔法でもてあそび、理由もなく笑い者にしている自分の父親を見てしまう。つねに正しく、勇敢なヒーローであったはずの父親の汚らわしい姿。
自分自身に対する信頼も砕ける。ホグワーツ入校依以来、勇気と叡智によって、いくつもの危機を乗り越えてきたハリー。そのことを誇りに思っていないと言えば嘘になっただろうが、忠告を無視して、シリウス・ブラックを救出に行った結果、まんまと「例のあの人」の策略にはまる。自分の「英雄気取り」によって、彼は最も大切な人を失うことになる。
もうひとつ。嫌でたまらなかったダーズリー一家の存在が、実は「最も古い魔法」によってハリーを護っていたこと、俗物の見本のようなペチュニア叔母さんが魔法使いの世界と無縁ではなかったことも、ハリーを驚愕させる。
そして、はかない失恋。15歳ってこんなものかな。子供時代に確かだと思っていたものが、何もかも砕け去り、失われる時代。
しっかり者のハーマイオニー。弱気でお調子者の愛すべきロン。双子のフレッドとジョージ。ネビル。ジニー。おなじみの顔ぶれも、それぞれの個性に従って、大人になっていく様子が描かれている。
この巻は「神話とともにあるファンタジー」としてよりも、成長過程にある少年・少女たちを描いた学園ドラマと思って読むほうがいいかも知れない。そう、ファンタジー文学としては、ちょっとハリウッド映画的な、もしくはテレビドラマ的なドタバタに堕している感がある。次作に期待。といっても、次作が読めるのはどのくらい先なんだろう...
9月1日に発売された、ハリー・ポッター日本語版の最新作。例によって店頭販売のセレモニーつきで華々しく登場したものの、すぐにベストセラー1位の座を明け渡したとか、小売店が在庫を持てあましているとか、人気”失速”の報道がかまびすしい。
どうなのかな。私のように「すぐ読んでしまうと次が待てない」と思って、1ヶ月くらいはブレーキかけてるファンもいると思うな。今日も近所のカフェで、買ったばかりらしい本書を、袋から出して眺めている若い女性を見かけた。文学(しかも児童文学)というのは、本来、長い時間をかけて浸透していくジャンルだから、音楽CDや映画みたいに”失速”を語ること自体、間違いじゃないかしら。
1巻から4巻まで読んできた日本の読者が、ここで離れてしまうとしたら、とても残念。確かに4巻くらいから物語のトーンに変化があって、初めの頃の「スカッとした面白さ」は後退している。でも、最初から最後まで同じように面白い長編小説なんてありえない。途中の退屈を辛抱して読み通してこそ、長編小説にしかない面白みが味わえるってものだ(いま、読んでいる「源氏物語」にも同じことを感じている)。
さて、この巻では、4巻で予兆のように忍び寄っていた様々な変化が確実なものになる。最大の変化はハリー自身だ。友だちや年長者の忠告に耳をかさず、危ない無鉄砲を繰り返し、そのうえ、自分を正当化して周りの人々を責め立てる。もともと彼は模範的なヒーローではない。好き嫌いもあるし、かんしゃくも起こす、普通の男の子だった。そうして、普通の15歳は、こんなものなんだろう。それにしても、年長者に対する反抗は”手厳しい”ほどだ。
まず、如何なるときも完全無欠の守護者だったダンブルドア校長に対する信頼が砕ける。ダンブルドアは、これまで見せたことのない苦衷の表情で、自分の判断に誤りがあったことを認め、ハリーに詫びるが、ハリーは彼を許すことができない。
実の父親に対する信頼も砕ける。ハリーは、スネイプ先生の記憶を覗き、そこで、同級生のスネイプを魔法でもてあそび、理由もなく笑い者にしている自分の父親を見てしまう。つねに正しく、勇敢なヒーローであったはずの父親の汚らわしい姿。
自分自身に対する信頼も砕ける。ホグワーツ入校依以来、勇気と叡智によって、いくつもの危機を乗り越えてきたハリー。そのことを誇りに思っていないと言えば嘘になっただろうが、忠告を無視して、シリウス・ブラックを救出に行った結果、まんまと「例のあの人」の策略にはまる。自分の「英雄気取り」によって、彼は最も大切な人を失うことになる。
もうひとつ。嫌でたまらなかったダーズリー一家の存在が、実は「最も古い魔法」によってハリーを護っていたこと、俗物の見本のようなペチュニア叔母さんが魔法使いの世界と無縁ではなかったことも、ハリーを驚愕させる。
そして、はかない失恋。15歳ってこんなものかな。子供時代に確かだと思っていたものが、何もかも砕け去り、失われる時代。
しっかり者のハーマイオニー。弱気でお調子者の愛すべきロン。双子のフレッドとジョージ。ネビル。ジニー。おなじみの顔ぶれも、それぞれの個性に従って、大人になっていく様子が描かれている。
この巻は「神話とともにあるファンタジー」としてよりも、成長過程にある少年・少女たちを描いた学園ドラマと思って読むほうがいいかも知れない。そう、ファンタジー文学としては、ちょっとハリウッド映画的な、もしくはテレビドラマ的なドタバタに堕している感がある。次作に期待。といっても、次作が読めるのはどのくらい先なんだろう...
ハリー・ポッターのシリーズは、1巻から(もちろん翻訳で)読んできましたが、4巻あたりから、話の展開や人物描写が雑になった感は否めません。特に5巻は、長いばかりで盛り上がりに欠けるし、大団円のすっきり感もありませんでした。4巻までは、ダンブルドアさんの「語り」についつい納得させられてたのですが、それもない。
いずれにせよ、全7巻の大河小説なので、最後までおつきあいしていくつもりで、あと2巻に大いに期待しています。
ハリー・ポッター5巻の記事を拝見し、トラックバックさせていただきました。
5巻では、jchzさんがおっしゃる通り学園ものとしての側面が強かったですね。
思春期の描写やDAの結成など、ハリーたちの成長と変化がより強く
表れていた巻でした。
とくにハリーは5巻で起きたエピソードによってそれまで信じていたものや
人を失ってしまったので、6巻では大人にならざるを得なくなるのでしょうね。
今後彼がどう成長していくのか楽しみです。