見もの・読みもの日記

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日米の比較から/ジャーナリズム崩壊(上杉隆)

2008-11-06 23:32:50 | 読んだもの(書籍)
○上杉隆『ジャーナリズム崩壊』(幻冬舎新書) 幻冬舎 2008.8

 著者は、NHK報道局、政治家の秘書、ニューヨークタイムズ東京支局取材記者を経て、現在はフリーランスで活動しているジャーナリスト。本書では、日米の比較をもとに、日本のマスコミ(主に新聞)の特殊性、閉鎖性を批判している。

 その象徴的な存在が、各公共機関に設置された「記者クラブ」ある。外国メディアやフリーランスの記者を締め出し、政府見解を一方的に伝えるシステムとして悪名高い。その結果、日本の記者たちは、与えられた情報を伝達する役割に慣れてしまい、他社と横並びの記事を書くための「メモ合わせ」を不思議に思わなくなる。うそか本当か、初耳だったのは、担当した政治家が出世すると政治記者も出世するという図式。逆にその政治家が失脚すると、記者も会社での地位を失うのだという。そうした環境が、政治に関与する、フィクサーまがいのジャーナリストを生み出す。

 興味深く思ったのは、ニューヨーク・タイムズには記者が出世して経営に入るという考えが存在しない、という点。編集部門で働いた人物のゴールは編集局長であり、どんな立派なジャーナリストも経営方針に口を挟むことはできず、逆に経営陣が編集部門に口を出すこともできないという。いま、どんな仕事も「経営者マインド」が大事、と日々煽られ、それがアメリカ流であるかのように感じていた身には、ちょっと奇異な感じがした。ジャーナリストというのが、それだけ特殊な職業として認識されているのだろうか。

 また日本の新聞は、週刊誌スクープの後追い記事を書くときは、情報源を明記せず「一部週刊誌が報じた」あるいは「…ことがわかった」で済ませてしまう。いわれてみればそのとおりで、もはや今の時代に通る慣習ではないと思う。ニューヨーク・タイムズが、写真1枚でも、提供者のクレジットなしには載せない、という規程を設けているのとは、大きな違いである。

 米紙のように、何もかも署名入り報道を原則とするのがいいかどうかは何ともいえない。私は、匿名や筆名による発言もあっていいように思う。むかし、新聞を読んでいた頃は、長い連載の最後に「○○が担当した」というかたちで、執筆者の「種明かし」を読むのが楽しかった記憶がある。しかし、朝日新聞の匿名コラム「素粒子」の「死に神」報道事件の記事本文をはじめて読んで、暗澹とした気持ちになった。最初のコラムも駄文だが、匿名の「謝罪」記事がまた、救いようがない。

 黒塗りの社用車で取材に出かけていく日本の若い新聞記者たちを見た米人ジャーナリストが、あんなことで一般市民の目線からの取材ができるのか?といぶかったという。ああ、その程度の健全性も、いまの日本のジャーナリズムにはないのだろうか。

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