見もの・読みもの日記

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等伯が描く禅宗祖師たち/南禅寺天授庵と細川幽斎(永青文庫)

2017-10-03 22:02:27 | 行ったもの(美術館・見仏)
〇永青文庫 秋季展『重要文化財 長谷川等伯障壁画展 南禅寺天授庵と細川幽斎』(2017年9月30日~11月26日)

 南禅寺塔頭・天授庵といえば長谷川等伯である。というほど、きちんと両者が結びついているわけではないのだが、直近では、昨年、京博の『禅』展で見た『祖師図』(南泉斬猫)が記憶に新しい。自分のブログを探ってみたら、2010年春季の非公開文化財特別公開で天授庵を拝観している。「一部が京博出品中で歯抜け状態なのと、全て収蔵庫に移築されていて、描かれた当時の姿を想像しづらいのが難点」と書いているが、現在はどうなのだろう。

 天授庵は細川家ゆかりの寺でもある。無関普門の塔所として暦応3年(1340)に創建されたが、応仁の乱で荒廃し、慶長7年(1602)細川幽斎の援助によって再興された。幽斎が再興した方丈には、長谷川等伯の晩年の作風を伝える障壁画が残されている。中央(室中)が『禅宗祖師図』で、右側(上間二之間)が『商山四皓図』、左側(下間二之間)が『松鶴図』だ。本展は、前期に『禅宗祖師図』、後期に他の2作品が展示されることになっている。

 4階の展示室に上がると(はじめて?エレベーター利用)、三方のガラスケースをうまく使って、室中の空間が再現されていた。『禅宗祖師図』は、左右の側面が、比較的幅広の四面の襖から成る。右手は「船子夾山図」で、舟に乗った人物と岸を歩きながら振り返る人物が描かれる。中央は幅の狭い襖が八面。右端に「五祖六祖図」で、禅宗第五祖の弘忍と第六祖の慧能を描き、左端には「趙州頭戴草鞋」を描く。中央が松の木とうっすらした建物を描くだけになのは、襖の奥が仏間になっており、真ん中を開け放した状態を想定したためだろう。左手は四面の襖で、右端が「南泉斬猫図」。ここも中央はぼんやり建物の屋根を描いて場面転換し、左端に「懶瓚煨芋図」を描く。

 「南泉斬猫図」の迫力! つまみあげられた猫の軽さ、命のはかなさに息を呑む。空間の角で、南泉と90度の角度で相対する趙州は草鞋を頭に載せて、滑稽な身振り。ここは、もとの話がつながっているのである。「懶瓚煨芋図」は、汚いおっさんが棒切れで地面をほじほじしている。よく見ると、手に小さな芋を握っていて、焼き芋の準備をしているのだ。その前に立つ官僚ふうの男性は、高僧・明瓚の噂を聞いて訪ねてきた唐の皇帝の勅使。おつきの童子が奥から覗いている。なお「懶瓚煨芋図」で検索したら、中村不折がこの題で油彩画を描いていることが分かった。不折の明瓚は、もう少しこぎれいな身なりをしている。

 あと天授庵所蔵の『細川幽斎像』と『細川幽斎夫人像』(ともに17世紀初め)も面白かった。剃髪した幽斎は、団扇を手にくつろいだポーズ(柿本人麻呂像を意識している)。夫人は白い頭巾をかぶり、数珠(?)を掛けた両手を胸の前で合わせる。わりと細面で個性的な顔立ち。幽斎夫人って俗名は麝香(じゃこう)というのか。こんな名前あったのか?! 洗礼名はマリア。若狭熊川城主沼田氏の出身と聞いて、ああ小浜に行くバスが通る熊川宿の近くか、とか、関東沼田氏の一族か、とか、いろいろ興味が広がる。

 3階展示室には、細川幽斎と周辺の人々に関する文書、武具など。幽斎の書状の文字は、同時代の武将たちと比べて、各段に雅だと感じた。絵も巧い。どんな気持ちで周りの武将たちに接していたのかなあ、と思ったが、Wikipediaを読んだら、武芸にも優れ、膂力も強かったそうだ。面白い。将軍・足利義晴の落胤という説もあるのね。2階は、細川家に受け継がれた能の世界の特集で、江戸初期の能面が多数。いずれも古風で品がある。そして、眼尻と目頭に影を入れて暗くして、白目は中心部だけ描く手法、古い人物画と共通なのだな、と感じた。

 天授庵の『商山四皓図』と『松鶴図』が出る後期は10/31からで、また来ようと思っている。帰りに受付で、図録がわりの季刊誌『永青文庫』の最新号を買っただけでなく、『等伯の説話画 南禅寺天授庵の襖絵』(2015年刊行)も買ってしまった。うれしい。
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