見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

旅のパートナー/北海道道路地図(昭文社)、日本鉄道旅行地図帳(新潮社)

2014-08-31 11:48:33 | 読んだもの(書籍)
■昭文社編『ライトマップル 北海道道路地図』 昭文社 2014.3(3版)

 地図を2点紹介する。今回、5泊6日のオホーツク海沿岸旅行に持っていったのがこの地図。ほかに北海道の初心者向け観光ガイドブックも1冊持っていったのだが、このエリアは、網走と稚内を除き、ほとんど記述がなかったので、とりあえず地図だけ携帯していくことにした。A4判で全40ページ。値段は1,000円。薄くて軽くて、旅のパートナーとして、本当にありがたかった。いまはスマホがあるので、現在地周辺の詳細地図が見たいときは、グーグルマップを利用するが、長距離旅行の場合、こういう地図帳があるほうが、自分の位置感覚や移動距離をつかみやすい。

 初日の札幌→網走の鉄道旅行が、どれだけ大移動か、そして、網走まで、旭川・北見を経由していくということが、当日まで分かっていなくて、地図を見ながら驚いていた。道央を突っ切るには、大雪山(山系)を迂回しなければならないので、やや北に寄ったルートになるのだな。遠軽駅のスイッチバックも地図を見ながら予想していたら、その通りだった。道内には未踏エリアがたくさんあるので、この地図帳を眺めながら、次の旅行の計画を練りたい。来年の夏まで、まとまった休暇取得は難しいけれど。

■今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳:全線・全駅・全廃線』1号「北海道」(新潮「旅」ムック) 新潮社 2008.5

 そして、旅行から帰って、どうしても欲しくなったのがこの地図帳である。旅行前は(鉄道が通っていないルートなので)ひたすら路線バスを乗り継ぐ(一部タクシー)とだけ聞いていたが、行ってみたら、バスターミナルの多くが、旧国鉄駅舎をそのまま利用していて、結果的に廃線跡をめぐる旅のようになってしまった。確か全国の「全廃線」を採録した鉄道地図帳があったなと思い出す。私は、それほどの鉄道ファンではないので、「歴史編成」の『朝鮮・台湾』編と『満洲・樺太』編しか買わなかった。しかし、こうなると「北海道編」が欲しい。

 まず、札幌駅近くの紀伊國屋書店に行ってみたが、「鉄道」コーナーにそれらしいものなし。もうずいぶん前に出版されたものだから難しいかな、と思いながら、買い物がてら、ショッピングモール「アリオ札幌」にあるくまざわ書店に行ってみたら、この地図帳が全号揃っていた(はじめ、第1号「北海道」だけ棚にない、と思って落胆したら、目の前に平積みになっていた)。くまざわ書店、えらい! 以前からショッピングモールの書店にしては品揃えの質がいいと思っていたが、これでますます気に入った。

 今回の踏破ルートのうち、もともと興部(おこっぺ)~枝幸(えさし)間は鉄道が敷設されていなかったという友人の情報を「予定線・未成線一覧」で確認。興部~枝幸間は未成線(工事着工したものの開業に至らなかった路線)で、未成線が多いことは北海道の特徴だという。それにしても廃止路線の多さ。この中には、古くは開拓民の生命線だった簡易軌道や、鉱山鉄道(軌道)が多数含まれている。後半の「駅名一覧」(路線一覧)を見ると、殖民軌道・簡易軌道には馬のマークが多くて、ええ?と思ったが、馬力のみだった軌道が圧倒的に多い(一部に馬力・内燃併用も)。いや、驚いちゃいけないんだろうけど、驚いてしまった。

 蒸気機関車資料館のある小樽市総合博物館へはまだ行っていないので、ぜひ今度行ってみよう。車窓絶景100選委員会が選ぶ「北海道の車窓絶景14選」も、私はまだほとんど体験していない。しかし、この絶景ポイント、おすすめコメントが苦笑もの。日高本線:日高門別~東静内の「晴れた日も絶望的な太平洋」って、褒めているんだかいないんだか。根室本線:別当賀~昆布盛の「地の果てがあるとすればこんな風景」も気になるし、同:厚岸~糸魚沢の「別寒辺牛湿原の底知れぬ誘惑」はどういう誘惑なのか、さらに気になる。
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北の考古学/オホーツク街道(司馬遼太郎)

2014-08-31 02:49:45 | 読んだもの(書籍)
○司馬遼太郎『オホーツク街道』(朝日文庫 街道をゆく38) 朝日新聞社 1997.1

 この夏、友人の企画で、網走から稚内までオホーツク海沿岸を旅行した。その結果、本州とは時代区分から異なる北海道の歴史を、ようやく少し頭に入れることができた。最後の稚内で本書を買って、復習のために読んでみることにした。

 「週刊朝日」への連載は1992年4月~12月。1971年から書き継がれた「街道をゆく」シリーズでは、かなり晩年の作に属する。エッセイの後半に、突然、画家の安野光雅氏が登場するので、あれっ?と思ったが、須田剋太氏の没後、桑野博利氏に続き、1991年8月から安野光雅氏が挿絵を担当していた。そうだった。当時、母が購読していた「週刊朝日」を借りて拾い読みしていたが、司馬さんのこのエッセイは、日本史の知識の乏しい私には難しくて読めなかったことを思い出す。

 はじめに、日本列島の古代史について、著者の大きな見取り図が示される。縄文文化は、一時期、北は南千島、南は沖縄に達していた。縄文文化において北海道は本州から孤立した地域ではなかった。しかし、中国の春秋戦国時代の末期(紀元前8~3世紀)東シナ海を越えてきた越人の一派が、日本列島に稲作をもたらす。稲作(弥生文化)は東北地方までを覆い尽くすが、稲作に不向きな北海道には、ながく縄文人が残った。やがて彼らは、13世紀の鎌倉時代に「アイヌ文化」に変化する。その触媒となったのが「オホーツク文化」である。

 さらに「オホーツク文化」発見の地である網走の「モヨロ貝塚」と、大正時代にこれを発見した在野の考古学者・米村喜男衛(よねむら きおえ、1892-1981)を紹介する。ここまでが、まず、北海道考古学になじみのない読者のための前段。

 それから著者の旅が始まる。基本的には、1991年9月と1992年正月の2回の旅をもとにしているらしい。最初の旅は、札幌から女満別空港に飛び、網走に滞在した。女満別の豊里遺跡、モヨロ貝塚、常呂町などを訪ね、網走に住むウィルタ(サハリン先住民族、旧称・オロッコ)の北川アイ子さんに会いに行っている。

 1992年正月、再び北海道へ。このときは、札幌から鉄道で6時間かけて稚内へ。オンコロマナイ遺跡、宗谷岬などを見学。それから、枝幸、浜頓別、目梨泊、興部、紋別と南下し、網走を再訪する。網走では天都山の北方民族博物館(最初の訪問の時に見学したと書かれている)を紹介する。ここに「大林太良博士が館長である」と書いてあって、そうだったのか、と私は驚いた。さらに知床半島の斜里町まで行って、旅を終える。

 記述の対象は、旅の範囲を超えて、さまざまに広がる。北海道の遺跡をめぐる学者、あるいは学者でない人々の交流。「日本で最初に高等教育をうけたアイヌ」の知里真志保が、恩師・金田一京助に根底で抱いていた敬意。戦争中、海軍施設の建設のために破壊されかけたモヨロ貝塚を守った米村喜男衛。このとき、文部省保存課の若き技官だったのが、のちに東大教授となる斎藤忠だった。一方、常呂貝塚を発見した大西信武さんは、小学校もろくに行かず、鳶職や土工を転々としていたが、常呂川の港湾施設の工事をしていたとき、貝塚を発見する。たまたま常呂に投宿していた東大教授(言語学)の服部四郎博士のところにそれを知らせにいくのだが、博士は「何をゆすりに来たのだろう」と思ったという(笑)。

 さらに、間宮林蔵、松浦武四郎のこと。幕末に斜里町で病没した津軽藩士のこと。日露戦争中、宗谷岬の望楼で、ロシア海軍の動きを見張っていた兵士たちのこと。

 最も興味深かったのは、著者が「ちょっと一服」とか「私の道楽」とことわった上で語っている、古代民族に関する考察だった。「蝦夷(えぞ、えみし)」とは何か。『日本書紀』に登場する「粛真(みしはせ)」とは何者か。著者は「この稿で仮称している”オホーツク人”こそ、ミシハセではないか」と述べ、また別の箇所で「ニブヒ(旧称・ギリヤーク)こそ、私どもが考えている”オホーツク人”にいちばんちかいのではないか」とも述べている。ただし「証拠はない」と書き添えることを忘れない。

 分かっていないことを分かっているかのように語るのは罪深い。だが「ソースは」とぎりぎり詰め寄って、推論に基づく発言を封じ込める最近の風潮も、私はつまらないと思う。多くの文献を読み、人の話を聞き、調べられるまで調べ尽くしたあとに「ただ、私の気分だけである」とうそぶいて、こういう発言ができる司馬さんの精神の闊達さは、やっぱりいい。大人の風格というものだ。
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