見もの・読みもの日記

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夢見る官僚たち/博物館の誕生

2005-07-10 00:21:29 | 読んだもの(書籍)
○関秀夫『博物館の誕生:町田久成と東京帝室博物館』(岩波新書)岩波書店 2005.6

 東京国立博物館には、よく通っている。しかし、私は、東京帝室博物館(東京国立博物館の前身)の実質的な創設者である町田久成(1838-1897)という薩摩藩士の名前を、本書で初めて知った。また、東京帝室博物館の創設に、さまざまな思惑の衝突と、こんな壮絶なドラマがあったことも。

 博物館の生い立ちは国によって異なる。ロンドンの大英博物館やパリのルーブル美術館の場合は、展示公開すべき資料があって、施設の構想が立てられた。しかし、日本の明治新政府には、資料など何もなかった。ただ、町田久成の「日本にも、博物館をつくりたい」という一途な夢だけが、全ての出発点になった。

 そもそも町田は外務官僚として新政府に出仕した。しかし、外務卿との意見の食い違いから、大学(文部省)への異動を命じられる。しばらく抵抗していた町田は、「博物館をつくる」という、自分なりの新しい目標を見つけて、ようやくこの人事を受け入れる。英国留学の経験を持つ町田がお手本としたのは、大英博物館だった。それは、第一に「文化財の収集と保護」「美術の勧奨」を目的とした人文系の博物館である。第二に博物館と図書館が合体したものでなければならない。

 ところが、同僚の伊藤圭介や田中芳男は、一過性の「博覧会」を最終目的と考えており、常設の「博物館」を目指す山田の意図を理解しなかった。そこで町田は、太政官の下に組織を移し、本格的な資料収集と用地の取得に乗り出す。このとき、町田は、文部省の所管だった物産資料や図書を取り上げるかたちとなり、文部大輔田中不二麻呂の激しい抗議を受ける。

 また、町田が博物館用地として目をつけた上野の山は、文部省が「文教地区」(学校や病院)に使用する予定だった。町田と同郷の大久保利通は、この計画を無理やり白紙撤回させる。博物館と文部省って、親戚みたいなものだと思っていたのに、こんな激烈な闘争があったとは、驚きだった。

 さて、博物館の着工にこぎつけたところで、大久保利通が死去。工事は中断を余儀なくされる。予算獲得のため、町田は、できた博物館を皇室に献上することを思いつく。これが、皇室の資産を増やしたいと願う岩倉具視の思惑と合致した。

 一方、内務省の田中芳男らは、町田の「大博物館」を勧業博覧会の会場として使うことを主張。対抗策として町田は、井上馨の協力を得て、収集済みの資料を保管していた内山下町(今の帝国ホテル付近)の施設を、鹿鳴館建設用地として引き渡し、上野への移転を強行する。

 また、田中は、上野の博物館に動物園と植物園を併設することを要求。最終的に町田は動物園の設置に妥協したが、動物園用の経費は認められなかった。明治15年(1882)、博物館の開館に当たり、田中は「内山下町に残っていた廃材をかき集め、粗末な動物小屋の囲いをつくり」開園の準備を整えたという。うわあ、上野動物園って、こんな悲惨はスタートを切っているのか。博物館と動物園の間にこんな確執があったというのもびっくり。

 最大の波乱はこのあと。開館から7ヶ月後、初代館長の町田久成は、突如解任される。後任に迎えられた田中芳男は、従来の持論に基づき、町田の博物館を、勧業博覧会の常設展示場に戻そうとしたが、周囲の非難を浴び、二代目館長の田中もわずか7ヶ月で退任する。その後、町田は公の場を退き、上野の山の近傍でひっそりと暮らしたらしい。

 明治22年、九鬼隆一が館長に就任、美術部に岡倉天心を迎えて「文化財の保護と美術の勧奨」という、町田の理想を具現化していく。また明治30年、上野に帝国図書館の建設が決まり、「図書館と博物館の連結」という、もうひとつの夢の実現を、町田は病床で聞き、同年死去。

 以上、長々と要約を書いてしまったが、どこかで名前を聞いたことのある明治の政治家・文化官僚が、多数登場する。彼らは、それぞれ少しずつ異なる「夢」を持っていて、その実現のため、時には衝突し、策を弄し、他人を陥れる。「夢」の純粋さに反して、やっていることの生臭さには、ちょっと言葉を失うものがあった。これからは、上野の山の雑踏をわたる風にも、少し物哀しいものを感じるかもしれない。でも、博物館を遺してくれた町田久成にも、動物園をつくってくれた田中芳男にも、とりあえず感謝したいと思う。
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