この場に及んでもなお憲法9条に固執するのは、もはや信仰の域ではないだろうか。自分の国が核ミサイルの標的になっているのに、現実逃避もはなはだしい。カール・シュミットは『政治的ロマ主義』(大久保和郎訳)で「政治的活動のはじまるところでは政治的ロマン主義は終わる」と書いているが、安全保障に関して、これまでの日本人は「政治的活動」ではなく、希望的な観測のレベルであった▼だからこそ、いつ核ミサイルが撃ち込まれるかもしれないという危機に直面して、言葉を失ってしまっているのだ。心情の表白から抜け出せない者たちからは、「座して死んでもよい」との暴論まで飛び出す始末だ。残された時間は限られている。すぐに局面を打開する努力をしなくてはならない。国家緊急権の発動としての、超法規的なことも含めて検討されるべきだろう▼日教組の活動家であった元教師の知り合いがいるが、この前会ったら頭を抱えていた。「子供たちに平和憲法の意義を説いていたのが恥ずかしくなった」と語っていた。カール・ポッパーは反証可能性ということを重視した。科学とは間違っていることを示すあらゆる方法を前提にしているのであって、反証されれば、その時点で科学ではなくなる。その観点からいえば、現実によって反証された憲法9条などは、信仰以外の何物でもない。危機と向き合うには、物事を「政治的活動」として判断すべきなのである。
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