草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

西部邁の先制攻撃をしない核武装論は傾聴に値する!

2017年09月10日 | 日本主義の哲学

もう一つ東京新聞に関係した文章を取りあげてみたい。西部邁が8月5日付に「米国追従でいいのか」との一文を寄稿しているからだ。西部も、恩師の清水幾太郎のように、核武装による日本の主権の回復を主張しているのである。西部が一時期転向したかのように思われていたが、それを読むとブンド全学連時代から変わらぬ精神が息づいているのを感じた▼アメリカに屈服することで平和を維持してきたのは、西部にとって屈辱なのである。とくに、核の傘に対する信頼が失われた今となっては、核武装しかないと結論付けるのである。しかも、近隣の諸国と同質性がなく、アメリカから自立できない浅ましい現状を考えれば、それしか選択肢はないというのだ。西部の主張は左右のラディカリストの立場と重なり合うのではないだろうか。代々木の官僚のような偽善的二枚舌ではなく、正直に本心を語っている▼ラディカリズムに立脚する者たちは、アメリカと距離を取るためにも、核武装に賛成するしかないのである。そして、核兵器による先制攻撃をしないと憲法に明記することで、人間としての良心を守り抜くのだという。国際政治の現実からして日本一国では守り抜くことは困難だとは思うが、能天気な平和ボケよりは説得力がある。西部の口から核武装という言葉が出てくるほどに、日本は危機なのである。国家の交戦権を奪われた国家は国家ではない。日本を国家たらしめる覚悟が今の日本人にあるかどうかなのである。


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桐生悠々を取り上げた東京新聞の社説を嗤う!

2017年09月10日 | マスコミ評

東京新聞が今日の社説で桐生悠々を取り上げたのには嗤った。桐生が「関東防空大演習を嗤う」を書いたのは昭和8年のことであり、信濃毎日新聞においてであった。よく読みもせずに東京新聞が桐生を引用しているが、帝都の空に侵入する前に撃ち落とすべきことを主張したのである。お手上げだから何をしても無駄だと厭戦主義を煽ったわけではない▼桐生は断じて反戦主義者ではなかった。安全保障上の持論を展開したのである。「この危険以前に於て、我機は、途中これを迎え撃って、これを射落すか、またはこれを撃退しなければならない。戦時通信の、そして無電の、しかく発達したる今日、敵機の襲来は、早くも我軍の探知し得るところだろう。これを探知し得れば、その機を逸せず、我機は途中に、或は日本海岸に、或は太平洋沿岸に、これを迎え撃って、断じて敵を我領土の上空に出現せしめてはならない。与えられた敵国の機の航路は、既に定まっている。従ってこれに対する防禦も、また既に定められていなければならない。この場合、たとい幾つかの航路があるにしても、その航路も略予定されているから、これに対して水を漏らさぬ防禦方法を講じ、敵機をして、断じて我領土に入らしめてはならない」▼今の時代に生きていたら、間違いなく敵地攻撃の急先鋒であっただろう。「帝都の空に迎え撃つ」ことの愚を嗤ったのだ。東京新聞ごときが桐生を語るべきではないのである。


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日本人が取り戻すべきは「行過ぎ」を戒める常識だ!

2017年09月10日 | 思想家

日本人は常識という大切なものを忘れてしまったのでないか。恥ずかしいということがなくなってしまったのではないか。それは一時的な流行である何とか主義とは違う▼小林秀雄は「常識」と題する文章で「常識は、何事によらず、行過ぎといういふものを好まない、ただそれだけの事に過ぎないのかも知れない」と書いている。そして、左右のイデオロギーに振り回された苦い経験をした国民として「思想や知識として理解されてゐるといふより、道徳として感じられてゐるであらう」とも述べたのだった。▼小林はバランス感覚の大切さと、人様には迷惑をかけない、という普通のことを説いたのである。政治家の不倫疑惑がマスコミに大々的に取り上げられている。山尾志桜里の個人的なスチャンダルなどどうでもいいが、自らの立場をわきまえないから批判されるのである。「行過ぎ」てしまったのは、我慢することができないからだろう。不倫を誰もがしていると思うのは間違いである。国民の半数近くは、不倫とは無縁であり、あくまでもテレビや小説の出来事なのである▼人間が人間であろうとするのならば、常識を離れては存在できないのである。「道徳」という言葉も小林は儒教的な意味合いで用いたわけではない。世の中の生きていく上での最低限の約束事であり、それがまさしく、今の日本人が取り戻すべき「行過ぎ」を戒める常識なのである。


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