病気の「おかげ」で今がある

回復に時間のかかる精神障害 絶望したくなる時も… でも今仲間と悩み・喜びを共有できる こんな生活も悪くないか…

サンタはいるの?

2021-12-26 | 個人的つぶやき

 この話には何度かお目にかかっているのですが、そのたびにいいなァと思ってしまいます。知っている人も少なくないと思いますが、あえて今回、毎日新聞のコラムから一部を引用してみました。

[引用 毎日新聞12月24日より]

 米ジャーナリズムで最も有名な社説はアポロ月面着陸でも、ケネディ暗殺でもない。ニューヨークの地元紙サンが1897年に載せた「サンタクロースはいるの?」と題する社説だ
 8歳の少女バージニアから編集部に手紙が届く。「友だちがサンタクロースはいないと言います。本当のことを教えて下さい」。これに論説委員が答えた。

<友だちがまちがっているよ。きっと見たことしか信じられないんだね>

 人間がわかっていることは限られていると論説委員は説き、こう続ける。

<実はサンタはいるんだ。愛や思いやり、いたわりがあるようにサンタもいる。そういうものがあふれているから人は癒やされる。サンタがいなかったら、さみしい世になってしまうよ>

 読者からの要望を受けサン紙はその後、クリスマス前に毎年、この社説を掲載する。

[引用終わり]

 

 この話は1897年ですから一世紀以上前の話です。今でもあちこちで取り上げられ、今後もずっと忘れられずに続くことでしょう。

 クリスマスは過ぎてしまいましたが、この話に触れないのは残念な気持がしたので、ここにご紹介しました。こうやっている私も気持がほっこりしています。

 

スクワット記録 

12/8(水)~12/14(金)○○○😥(渋滞)😥(忘)○○

12/15(水)~12/21(金)○○○○○○○

 

 


休日(土曜)夕方の教訓 (スクワット記録追加)

2021-12-11 | 個人的つぶやき

午後のコーヒーも飲んだし、休憩もとった。次にやることの合間に何かやっておくことは・・・と思い巡らしたら、灯油が残り少ない。ではちょっと近くのスタンドへ行ってくるか、と気軽に出かけた。

休日の道路は空いてていいなぁ、と思いながらスタンドを見ると、灯油専用のスタンド(車2台同時に駐められる)は後ろに待っている車があって、その後だと路上ではみ出して待つことになる。待っていても時間的には大したことはないが、道路にはみ出して待つということにちょっと抵抗があった。

そこで思ったのがVIVAホームの灯油売り場。専用のレジがあって、すぐそばで担当者が給油してくれる。ここから距離はあるが一本道。比較的新しくできた道で鉄道の踏切はなくunder-path で楽々通過。考えているヒマはないね。ソク、その道に入る。

スムーズに走って旧16号近くで少し信号待ちの列。それも一回待ちで通過。岩槻城址公園の脇あたりから信号待ちの列が長くなる。でも16号バイパスさえ通過すればあとはおまかせで給油できるのだ。

VIVA近くなると帰りのクルマの列が切れ目なく続く。そして灯油専用の駐車場へ。待っているクルマは2~3台。会計レジに近づくと、あれ?シャッターが降りている。灯油缶を両手に下げて給油所のおじさんのところへ持っていく。「レジ、終わっちゃったから奥のレジで払って来て」と言われる。灯油専用レジは16時までだと。終わったばかりか。

店舗のレジまでは100メートルもあろうか。小走りに行く。そして、え? 何人並んでいるの? 7~8人もいる。しかもなかなか進まない。私の前の前の人は買ったものの値段がわからないらしく、レジの人と一緒になにやら分厚いカタログのようなもので調べている。え~! ジョーダンじゃない。何分かかるんだ! あれこれ取りとめのないことを考えながらしばし待つ。それしかない。

2つあるレジの片方が空いて、やっと番が来る。支払いを済ませて半分走って給油所へ戻る。おじさんが、今の時間は混むからね、みたいなことを言っている。休日の夕方ってそういうものなのか。

さて、灯油駐車場を出るところで長い車列。VIVAホームからの帰りのクルマだ。親切な人が「どうぞ入って」と手で合図してくれる。「ありがとう」と手を上げ、列に入ってからはライトでサンキューの合図。車列はここから国道16号までピタッとつながって動かない。3百メートルくらいか? でも信号3回か4回で確実に通過できる。計算できるから気持ちも落ち着く。

そこからはスローではあるものの、自宅まで渋滞なく帰ったのだった。3時半前に家を出て、戻ったのが5時少し前だった。(こんな日でなければ家を出てから戻るまで20~30分だったのに)

家を出る時は太陽がまぶしくて、帰り道を心配するほどあったが、今はもうすっかり沈んで、家に近づく頃は前照灯を点けるほどだった。わたしは夜の運転はしないはず。

教訓。休日の夕方はクルマで出かけない!

 

 

スクワット (すべて5回終えたところで小休止してます)

11/17(水)~ 11/23(火) ⦿⦿⦿⦿⦿⦿⦿ 

11/24(水)~11/30(火) ⦿⦿⦿☓⦿⦿☓ (☓ 出勤日 及び 歩き過ぎ7000歩)

12/ 1(水)~ 12/ 7(火) ⦿⦿⦿⦿😥⦿⦿ (忘れ)

 

 

 

 

 

 


すごい本との出会い(3)

2021-12-03 | 個人的つぶやき

間が空いてしまいました。民主主義について続けたいと思います。

サンデー毎日12/12号に、『「世代」の昭和史』という連載で、保阪正康氏(ノンフィクション作家・評論家)が書かれている中に、目に止まった部分が多くありました。今回のタイトルは「反省なき転向者たち・軍国主義から民主主義へ」という見出しです。目に止まった部分、部分を抜き出してみます。

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私の世代(戦後民主主義教育を受けた純粋世代。私は昭和21年4月に小学校入学した。当時は国民学校と言った)は、極めて直截な形で戦後民主主義教育を受けた。その何カ月か前までの皇民教育は全面的に否定されて、新しい教育体系の下で成長するように義務付けられた。まさに「太平洋戦争史」と「真相はこうだ」を骨格とした教育であったのだ。

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あえて名付けるならば、「軍事」と「非軍事」の入れ替わりの時期に成長した世代ということができるようにも思う。(わたし・小林も同世代です)

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昭和20(1945)年に入ると、軍事指導者は本土決戦の名の下にあまりにも常軌を逸した戦略、戦術を国民に要求した。竹槍は言うに及ばず、包丁、スコップ、ナイフなど何でも使ってアメリカ兵を殺傷せよ、と・・・アメリカ軍の精鋭部隊が最新の兵器で上陸してくるというのに、・・・

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知識の領域でも価値観の変化が起こったわけだが、これについても見ておく必要がある。戦争を鼓吹していた人物が、一日で言を変える。「さあ今日から民主主義の時代です。昨日までのことは忘れましょう。人の命は何よりも大切なのです」と言い出したに違いない。・・・・・平気で言説を変えた人たち、それが戦後民主主義の脆弱さに繋がったと私は見ている。

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昭和20年代の日本の民主主義が要領の良さと狡猾な人格をトップランナーに据えたためにつまりは真の民主主義に達することはできなかったと、そろそろ総括してもいい時期ではないか。

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とりあえずとくに目を引いた部分を抜き出してみました。なぜこういうことが私の目を引いたのだろうと考えてみます。いまのところ一言で言いきれるほど考えはまとまっていません(当然)が、こうかな、ああかなとそのプロセスを書いていきたいと思います、