病気の「おかげ」で今がある

回復に時間のかかる精神障害 絶望したくなる時も… でも今仲間と悩み・喜びを共有できる こんな生活も悪くないか…

燃えるプリント(4/19更新)

2011-04-17 | 「ひな」の日々

と言っても、プリントに火がついて燃えてしまうというのではありません。わたしが週一回、自宅で開いている塾の生徒Aさんの学習のことです。

Aさんは算数と国語を学習していますが、お母さんの話では、たとえば朝学校に行く前に算数を学習し、国語の時間がない場合は帰宅直後にすぐ国語の学習にとりかかるのだそうです。その様子はまるで燃えている感じとか。

すごいなと思います。でも、どうしてそんなに燃えることができるのでしょうか。始めたばかりならば目新しさに惹かれて…と言うこともできますが、もう8ヵ月ほどになるのです。

どんどん学習が進み、自分の学年を越えて、まだ学校で習ってないことを学習しているという優越感から?・・・・・・いえ、まだ自分の学年より下を学習中です。

では、なぜ?

わたしが思うには、たぶん、自分(の今)というか、自分の状態を見つめることができて、それを肯定的にとらえられる(受け入れることができている)からではないかと。

自分の今の学力に合った箇所を、自分のペースで学習できて、その結果難しそうに思えた課題でも何度も挑戦することで乗り越えるという経験を、何度も何度も繰り返しています。たとえ自分の学年より下の学習をしていても、それが自分の実力だからと認めて(受け入れて)コツコツと、淡々と、毎日続けることができているのでしょう。

そこではやらされている学習ではなく、義務でやっている学習でもなく、自分から進んでやる学習になっていると言えます。

これはもう自立した学習と言えるのではないでしょうか。そんなとき人は燃えるのではないか、そしてそれは塾における学習という枠を越えて、人生一般に言えることではないか、と思いました。

人と競うのでなく、自分より低学年の内容をやっていて卑屈になることもなく、ただ、ここが自分の実力だからと認め、そういう自分でいいと受け入れ、日々コツコツと学習を続ける・・・その態度は自立以外の何ものでもない、そう思います。


精神障害をもつ人たちの中には、ともすると、自分の病気(障害)をあまり見たくない、認めたくない、考えたくない、という人が見受けられますが、でも、そこからは次のステージが見えてこない。だから、そういう人にとってはまず、見たくない自分でも、認めたくない自分でも、受け入れたくない自分でも、あえてそのまま認める、そういう自分でいいと受け入れる、自分の課題に気づく、課題を常に意識して生活する・・・それが自立ではないかと思ったのでした。





お花見に行きました(4/17更新)

2011-04-16 | 「ひな」の日々



4/11(月)、岩槻城址公園にお花見に行きました。この春は、東日本大震災があったり、作業所にとっては移行の課題があったり、不順な気候の問題もあったりと、お花見の予定はなかなか組めず、近場でいいよネという了解がメンバー・スタッフ間でありました。

この日は作業の一つとしての「公園清掃」(岩槻文化公園)の当日でもありました。メンバー7名とスタッフ1名(わたし)が午前9時30分から清掃作業に向かい、他のメンバー5名とスタッフ2名は作業所でお昼の弁当作り。昼前に城址公園で落ち合うことにしました。

‘自粛’ムードもある中、「第35回岩槻城址公園桜まつり」も中止となっていましたが、‘静かに桜を愛でる’ことには意味があると判断して実行しました。

岩槻城址公園はさすがに桜の名所だけあり、平日とはいえ11時半ごろには駐車場はほぼ満車に近い状態。それでも運良く駐めることができ、第一関門通過。待ち合わせ場所の「八つ橋」(赤塗りでよく目立つ)に向かいます。

ところが橋は地震の影響でひび割れがあるとのことで通行禁止! 池のまわりをぐるっと遠回りしました。人出は少な目。シートを敷く場所選びに苦労することはありませんでした。



あたりは一面桜の木に取り巻かれ、目の前の池(菖蒲池)を隔てて満開の桜、桜、桜!


数年前もここでお花見をしましたが、そのときはスタッフを入れても9人か10人でした。それが今回は15人!
待望のお弁当を広げます。多めに作ったとのことですが、この雰囲気の中ではどんどんみんなの胃袋の中に入っていきます。


「団子」を堪能したら、本来の「花」を見るために動かなければ・・・。城址公園には見事な桜の銘木があります。


歩こう、歩こう。


桜のトンネルも。


どうです、この枝振り!


まだ岩槻城址公園をご覧になっていない方、来年はぜひお出でください。決して失望しませんから。


ナイターをやっている

2011-04-13 | 「ひな」の日々

「ナイターは(当分)やらない」と聞いた。でも、きのう帰宅したらナイターをやっていた。わたしの受け取り方が間違っていたのかもしれない。プロ野球の開幕を10日間以上遅らせて、節電に協力するためしばらくはデイゲームに変更する、というふうにわたしは受け取っていた。

わたしの受け取り方が間違っていたのだろう。「東京電力管内とかドーム球場では」当面ナイターは行わない、ということかもしれない。


痛みを伴う義援金を

2011-04-12 | 「ひな」の日々
4/13更新

新聞に、もと日本財団理事長の曽野綾子さんのコラムが載っていました。その中で、「痛みを伴う義援金」というフレーズに目が止まりました。(一部引用します)

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国家が何とかしてくれると考えるのは違う。めいめいが自分で考え、行動する癖をつけることだ。それは他人の痛みを部分的に負うことでもある。被災地の支援も国家に頼るのでなく、「痛い」と感じるくらい自らお金を出すことだ・・・・(引用終わり)
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毎月の生活費のなかから、1000円や2000円なくなっても生活に大きな痛手があるとは思いません。でも10万円なくなったら非常に困る。支払いが滞り、請求書(督促状)が舞い込み、あわてるでしょう。

では5万円がなかったら、やはり困る、明らかに困る、痛い。
1万円では? 5000円では?・・・・

わたしにとって「痛みを伴う金額」はいくらだろう、と考えています。