病気の「おかげ」で今がある

回復に時間のかかる精神障害 絶望したくなる時も… でも今仲間と悩み・喜びを共有できる こんな生活も悪くないか…

「君たちはどう生きるか」

2018-06-23 | マイ ライブラリー

 

 どこの書店でもベストセラーだということです。岩槻の文教堂にもズラリと並んでいます。発売から大分たってしまいましたが、やはりこのブログにも書いておかなければならないと思うようになりました。それはあの出来事が起きたからです。

わたしがこの本で感じたのはたとえばこんなところでした。(マンガと原作と両方を読みました。ページ番号は原作の方です)

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健康で、からだになんの故障も感じなければ、僕たちは、心臓とか胃とか腸とか、いろいろな内臓がからだの中にあって、平生大事な役割を務めていてくれるのに、それをほとんど忘れて暮らしている。
ところが、からだに故障ができて動悸がはげしくなるとか、おなかが痛み出すとかすると、はじめて僕たちは、自分の内臓のことを考え、からだに故障のできたことを知る。・・・・・苦痛のおかげなのだ。・・・・・もし、からだに故障ができているのに、なんにも苦痛がないとしたら、僕たちはそのことに気づかないで、場合によっては、命をも失ってしまうかもしれない。

同じように、心に感じる苦しみやつらさは人間が人間として正常な状態にいないことから生じて、そのことを僕たちに知らせてくれるものなのだ。その苦痛のおかげで、人間が本来どういうものであるべきかということを、しっかりと心に捕えることができる。(p267~268)

そういう苦しみの中でも、一番深く僕たちの心に突き入り一番つらい涙をしぼり出すものは、・・・・・ 自分がとりかえしのつかない過ちを犯してしまったという意識だ。自分の行動を振りかえってみて、損得からではなく、道義の心から「しまった」と考えるほどつらいことは、おそらくほかにはないだろうと思う。
そうだ、自分自身そう認めることはほんとうにつらい。だからたいていの人は、なんとか言い訳を考えて、自分でそう認めまいとする。
しかし、自分が過っていた場合それを認め、そのために苦しむということは、それこそ、天地の間で、ただ人間だけができることなんだよ。(p271)

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ほとんど五月いっぱい、テレビなどのマスコミで連日報道されていた日大アメフト部の「危険タックル」の問題。あの「危険タックル」を犯してしまった日大の選手は、自分のやってしまった事の重大さに泣いてしまったと言います。そしてあの謝罪会見をテレビの前でみずからおこなったのです。

その会見では、あのタックルに至った具体的で詳細な経緯とともに、いかに監督の指示とはいえ自分で判断せずにそのまま従ってしまったことへの反省が切々と述べられています。反省と謝罪はこのように行うべきというお手本だと思います。

最後の部分をそのまま引用したいと思います。(読売新聞5月23日より)

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本件は、たとえ監督やコーチに指示されたとしても、私自身が「やらない」という判断をできずに、指示に従って反則行為をしてしまったことが原因であり、その結果、相手選手に卑劣な行為でけがを負わせてしまったことについて、退場になった後から今まで、思い悩み、反省してきました。そして事実を明らかにすることが、償いの第一歩だとして決意して、この陳述書を書きました。
相手選手、そのご家族、関西学院大学アメリカンフットボール部はもちろん、私の行為によって大きなご迷惑をお掛けした関係者の皆様に、改めて深くおわび申しあげます。

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学生本人がこのように心の痛みを見つめ、相手と、相手方の関係者に謝罪した一方、指示をした監督やコーチははっきりと自分の非を認めず、相手方に対してきちんと謝罪しているようには見えません。「たいていの人は、なんとか言い訳を考えて、自分でそう認めまいとする」(p271)。 この本が80年前に言っていることがそのまま当たってしまっているようです。

また、先日の毎日新聞には、森・加計の問題と日大の問題は相似形、という記事がありました。

どうも上の者(権力を持っている者)は自分のことは棚に上げて、下の者にはいさぎよくせよと言うケースが多いようです。

この本がベストセラーを続けている理由は、思い当たる人が非常に多いからでしょうか。