苦労なんて、自分から進んでしたくないと、だれだって思う。だけど、生きている限り苦労は切り離せない。いつでもついてまわる。自分の影のように・・・・・。
「人生とは苦労することである」とか、「人生とは悩むことである」と明言する人もいる。
う~む。
苦労なんてせずに、自分の気の向くままに過ごせればなんといいことか。食べたいものを食べ、見たいものを見て、したいことをして過ごせれば、人生バラ色だろうと思う。
だけど、実際そういう生活ができる人って、どれだけいるのだろう。よほどの大金持ち? そんな人、1%もいないのでは?
実は、苦労というものをあまりしないで日々暮らしている(ように見える)人たちがいる。
働かなくてもお金は毎月6~7万から12~3万円、自分の口座に振り込まれる。それをとくに計画的にでもなく、あればあるだけ下ろして使ってしまう人がいる。自由に使うことができる。なくなったらなくなったで我慢するか家族にせびる。
病気になったら無料で医者にかかれる。税金もない。
一見うらやましい生活のように見える。だけど本人たちはあまり人生をエンジョイしているようでもない。いや、むしろ、入ってくるお金を入ってくるまま、気の向くままに使い、日々を過ごしている・・・・・ただそれだけのようにも見える。そこにあるのは何だろう?
仕事をしていない人たち、仕事ができない人たち。でも、できそうな人はいる。でも、なんで仕事をしないんだろう。
もちろん今のご時世、そう簡単に仕事が見つかるはずもない。ましてや障害をもっているとなると門戸がグンと狭まる。
それは決定的なことだ。でも全く可能性がないわけではない。
彼らは仕事を求めないのだ。そこには何か決定的なものが欠けているように思える。
何だろう。
「仕事がしたい」という強い思い・・・それが感じられない・・・のかな。
あきらめてしまっている? 生きる意欲を削がれてしまっている?
(とりあえず日々暮らしていけるお金が入ってくれば)
「仕事がしたい」と声を上げる意欲を削がれてしまっている?
(だったらそこがわれわれの支援のポイントになるのでは?)
仕事ができるようになると何が変わる?
まずなんと言っても生活の糧(お金)が得られる。要するに自分でお金が稼げるということ。経済的に独立できる(それに近づける)。「一人前」という評価がつく。自信がつき、プライドをもつこともできる。
お金がもらえるということは、「ありがとう」を感じ取れること。人から、自分の存在を認められたということ。「あなたには存在する意味(価値)がありますよ」という実感が得られること。
一人前、大人、仲間、として認められた実感・・・・・これは何とも言いようのない充実感、生きるエネルギーの源泉だろう。
だから人は働いてきた。働くことに疑問を持たず・・・みんな働いているから、と。
仕事をしていると様々な「苦労」がある。大小様々な苦労を一つひとつクリアしていく。そうして人は成長する。そう、苦労が人を育てるのだ。消費行動(欲望の充足)だけでは人は成長しない。お金を稼ぐためにする苦労が必要なのだ。
一日2時間でも3時間でもという条件付きでも、働こうと思えば働けるのに働かない人は、苦労することを取り上げられてしまった人、と言えるかもしれない。
彼らをそうさせてしまったのは、福祉という制度に原因があるようにわたしは最近感じることがある。そして、もしかすると、その制度に安閑と乗っているとしたら、そこで飯を食っているわたし(たち)にも責任がありはしないだろうか。
セーフティネットとしての福祉制度そのものは絶対に必要だ。人間、生きていくうちには何が起きるかわからない。運悪く回復に長時間かかる病気になってしまうことだってある。そのことで本人には何の責任もないのだ。
そういうときには、運よくそういう病気にかからなかった私たちが支援する(福祉制度)が欠かせない。これはそういう病気にかからなかった人たちの義務であろう。
だけど急性期を過ぎ回復期を迎えてから、いつまでもいつまでも、何年も何年もそういう制度の中で過ごすことは、人間の成長という意味からも不自然のように思う。
声を上げることの困難な精神障害者。そのニーズをどうとらえていくのか、われわれ支援者にとって日々の実践にかかっている。