屯田物語

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不思議の人・詩人大村正次先生 北海道行きの理由の推測。

2019年12月31日 | 大村正次
備前焼作家・国指定伝統工芸士の肩書をもった陶芸家「松井陶仙」(1928生)の工房を訪ねたことがある。
「備前焼」は釉薬は付けず、1200℃にもなる温度で一週間ほど登り窯で炊き続けるという過酷な作業を重ねることによって自然釉でゴマ・火襷(←クリック)などが見られるのだ。

大村正次にとっては北海道に関しての知識が豊富だったことが伺われる。その理由の数々を列記すると・・・
1,宝暦期(1751~64年)以降の蝦夷地の開発発展に伴い、海産物・魚肥や様々な産物を上方にもたらし、一方、蝦夷地には米穀や自給不能な商品を送り込んだ役割を担ったのが「北前船」であり、北陸地域から台頭してきたのが北前船の存在であった。上方と蝦夷地の地域間格差を利用して莫大な利益を上げた。越中の場合、魚肥移入を認めた上に、地船重視による領内廻船の奨励方針に藩が転換した文政期(1818~30年)以降に北前船が多数登場したとある(富山県の歴史・山川出版社より)。従って「正次」の耳にも北海道についての情報の伝聞が入っていたものと想像する。

2.前出の「嵯峨寿安」は大村屋とは姻戚関係にあり、正次も一族であることから墓守をしたとの言い伝えられていることから、時代のズレはあるものの(正次2才までの二年間がラップするものの、彼の幼児期にある為、実際にはかなりのズレではあるが…)寿安に纏わる話があり、寿安没後のあと、一族に具体的ニュースとして伝わっていたのかもしれないとするならば、正次にとっては好ましい情報になっていたのかもしれない。その話とは、寿安はロシアに渡るべく横浜に入港したロシア船が函館に向かったと聞くと函館に赴き、そこでロシア領事館に居たギリシャ正教修道司祭ニコライと運命的な出会いをしたとのこと、ロシア語と日本語を教え合う関係が3年間続いたという。後に彼の後押しもあり念願のロシアへ渡ったことからも、「函館」の地は夢を育んだ地とも言え、寿安の行動が仄聞として、正次の北海道が好ましい所として映っていたのかも知れない。

3.「正次」の脳裏に大きな割合を占めていたものは、やはり富山県からの北海道移住であったろう。明治15年(1882年)から昭和10年(1935年)までの54年間で、各地からの移住総戸数は約71万戸に及んだ。その内富山県からの移住戸数は約5万4千戸、総戸数の約7.6%を占めている。最盛期である明治30年(1897年)~40年(1907年)の十年間で約6万人が移住したという。移住の形態は、明治初期は個人移住が多く、明治25年(1892年)貸付予定地存置制度(貸してもらった土地を3年かけて開拓すればその土地を無償で貰える)が設定されると、屯田兵移住では無く、「団体移住」が多く、中には大谷派東本願寺の働きかけなども関係しているとされている(富山県の歴史・山川出版社より)。大村正次にとっては、成功例、失敗例など身近に伝え聞く話題であったろう。

4.戦前の教育(教員)制度がどう言ったものかは詳しくは分からぬが、教員免許と文検に合格して、一定の教科を教えられるとなれば、資格さえあれば日本全国横断的に教えられたものと思われる。そうでなければ正次も富山から北海道旭川へとは決断できなかったであろう。そのことを踏まえて推測してみる。

5.仮に旭川中学から「生物」の教師のオファーが直接あったのなら、話は簡単であるが、その場合も直接、間接、何れに依って就職したのかわからない。どのような経緯が隠されているのか知りたいところである。実際、旭川中学に奉職する際には、上記の情報を知り得た立場として大きな判断基準になったものと愚考する。

6.「大村正次先生」は、敗戦の直前二十年七月三十一日付けで、北海道庁立旭川中学嘱託教師として渡道する(道正 弘著 抒情詩人 大村正次より)とあるが、「富山大空襲」(3000人弱死者を出した)があったのは8月1日~2日に掛けてのこと、空襲の時は既に旭川に居たのであろうか。まさに危機一髪、家族疎開という意味では大正解、文字通り空襲を避けての北海道行きであれば幸運としか言いようがない。

摂津国の怪人
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點 景

2019年12月30日 | 春を呼ぶ朝

大村正次著「春を呼ぶ朝」
―稱名瀧―
 
 點 景

春めいた 庭に
冬の傘をひろげ
牝鶏が
小首を傾けてゐる。



點景とは、
風景画などで、画面を引き締めるために副次的に添えられた人や物。(goo辞書)
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不思議の人・詩人大村正次先生 その出身と家系

2019年12月29日 | 大村正次
大村正次の「春を呼ぶ朝」詩集題名は、最初「真珠」であったようだ。日本海詩人2-4号(昭和2年4月号)の発行予告は「真珠」となっているが、2-6号では「春を呼ぶ朝」にかわっていた。


壺制作:宝塚M夫人


 晩年の大村正次については、「シベリア横断の嵯峨寿安(注1)日本史綱の嵯峨正作(注2) 兄弟と大村屋とは姻戚関係にあり、…廃絶した嵯峨家のため、お盆になると嵯峨家のお墓またい(掃除)に懸命であったときく。」とある。(道正弘著 「日本海詩人」主宰者 抒情詩人大村正次)
「大村屋」とは如何なる家であったのか、調べた結果以下の通り推測する。

 大村屋とは、加賀藩における交通制度整備の折、(寛文二年、1662年)伝馬機能(参勤交代、領内要所間の交通のために人馬を供した。)を東岩瀬に集約、公用伝馬の継立を行う宿駅を置いた。安永年間(1772-81年)は大村屋半兵衛家、天保年間(1830-44年)以後は大村屋与右衛門・同真次郎家が知られるという。(富山県姓氏家系大辞典より抜粋。)交通手段が北陸線の全面開通(大正2年、1913年)により鉄道に取って代られるとしても、「大村屋」の一族と考えられるなら、繁栄振りも最後の頃になっていたのでは、と思うが、大正初期に師範学校への進学も経済的にもまだまだ十分可能であったかと思う。「正次」もその妻「キク」同様、恵まれた家庭環境に育ったものと言ってもよいものと思う。このことは、「当たらずとも遠からず」と思っているが、如何であろうか。

摂津国の怪人

(注1):嵯峨寿安(1840-98) 日本人として初めてシベリアを横断した人物、新川郡東岩瀬(富山市)の大村屋の出身。家は代々伝馬問屋を営み、父健寿は医者となり金沢で開業、安静四年江戸の村田蔵六(大村益次郎)の蘭学塾に入り、二代目塾頭となる。その後金沢壮猶館教授となり、明治二年加賀藩よりロシア留学を許され、翌三年横浜から函館を経て、ウラジオストックからシベリアを横断して、ぺテルブルクに赴いた。明治七年帰国。北海道開拓使を命じられる。後に失意のうちに岩瀬に帰り医者を開業するが、明治三十一年(1898年)広島で客死(富山県姓氏家系大辞典より)。大村正次二才時に亡くなったことになる。(後日改めて触れる予定だが、「正次」の北海道行きの理由の一因を成したとも考えられるので、記憶願い度し。)

(注2):嵯峨正作(1853-90)史学者であり東岩瀬村(富山市)の医師嵯峨健寿の四男。兄に寿安が
いる。明治25年上京、東京経済雑誌で「大日本人名辞書」の編纂にあたる。同二十一年独学の成果「日本史綱」を著す。菩提寺は東岩瀬の養源寺。(富山県姓氏家系大辞典より)

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秋晴の汽車

2019年12月28日 | 春を呼ぶ朝


十勝岳*1 の山頂まで、もう少しだ。頑張れ!
山から下りたら、温泉*2 とハンバーグが待ってるぞ!


大村正次著「春を呼ぶ朝」―故郷の電車―
 
 秋晴れの電車

晴れた秋の朝の
無邪気な旅行の喜びを乗せ
はずみつゝ
きほひつゝ
平野を突走る汽車
ふと澄み透る野の彼方
真白い煙をひいて進み來る汽車とも發見みだ
窓から手をあげ
窓から手をあげ
グアフ グアフ
歓びわめいた。



*1:北海道の中央部の上川管内の美瑛町・上富良野町、十勝管内の新得町にまたがる標高2,077 mの活火山。大雪山国立公園内の十勝岳連峰(十勝火山群)の主峰である。日本百名山及び花の百名山に選定されている。

*2:吹上温泉のこと。町営吹上温泉保養センター「白銀荘」は、近代的な設備を備え、男女合計8つの湯船を持ち、庭園風の大きな露天風呂もある。

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かぎろひ創刊65周年

2019年12月27日 | 西勝洋一


「かぎろひ」とは冬の早朝、陽が上がる1時間ほど前に山際が染まっていく自然現象のことである。「陽炎」とも書く。空が少ししらけてき、徐々に黄、橙、赤と変化していくさまは幻想的である。(ピクシブ百科事典)
「かぎろひ」 わかっているようでわからなかった言葉だが、仮名文字にして美しくやわらかな響きのなかに雅な”うたことば”を感じるのである。
65周年記念展は旭川文学資料館で開かれる。西勝洋一コーナーがあるそうだ。

西勝君から「かぎろひ」を頂いた。その中から西勝洋一・柊明日香・谷口三郎各氏の歌を紹介する。

 函館は坂多き街 まぼろしのごとく煙れるわれの故郷
 この坂を下りて再び帰らざりし出征の父の記憶はあらず
 かろうじて命を繋ぎおりしわが愛犬も亡し雪は降り積む
 梅花空木の花咲き満ちて風寒しまさかの時を逃げてゆく人ら
          西勝洋一
 
 堅牢な心もちしか向日葵は光に向かいふとぶとと伸ぶ
 群来という栄華を秘めし鉄路なり留萌増毛間廃線となる
          柊 明日香

 新緑の白樺の下に少女あれ たんぽぽを積みわれに届けよ
          谷口三郎
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「不思議の人・詩人大村正次先生」 正次と彼を支えた妻のこと。

2019年12月26日 | 大村正次

「縄文のビーナス立像」(模)と蘭の切り花を活けた「花瓶」は宝塚M夫人制作

「大村正次」は明治29年(1896年)富山県東岩瀬(現富山市)に父松次郎、母キヨの長男として生まれる。大正5年(1916年)富山師範学校を卒業、同年東岩瀬尋常小学校の訓導(くんどう・旧制度の教員の職名、全教科教えられた。)を以て社会へ一歩を踏み出し、6年間教壇に立つ。この間同僚で新庄村(東岩瀬の神通川を挟んだ西側対岸にある。)出身の金岡キクと職場結婚した。(道正弘著「日本海詩人」主宰者 抒情詩人 大村正次より抜粋)
妻キクについては、道正弘著に「名門出身」とあり、「金岡姓」としては北陸財界屈指の名門(元々は薬種商、初代又左衛門は明治30年に水力発電による富山電灯株式会社を興した。)であり、その一族に繋がる者と仮定した場合に、経済的にも恵まれていたのではないか、と想像した場合、明治後期~大正初期に女性ながら師範学校で学んだということも理解できる。(金岡家は富山県民会館分館として今も新庄町に残る。)
キクは「大原菊子」のペンネームで「日本海詩人」に詩を発表しており、収集した資料のなかに大村夫婦の詩が並べて掲載されていた。(12月15日「屯田物語」)

摂津国の怪人


 のみ・・の音  大原菊子

朝日の裏庭で
鑿をうつ音がする
何かしら働きたいと
はだして水を汲んでゐる。

朝の教室の
白いカーテンの
ちょっとの隙間をみつけて
朝日がのぞいてゐる。
みんな美しいお下げなので
どの眸もよろこびに輝いてゐる。

ゆふべないてゐた未亡人が
けさ、朝日のなかで
子を背負ひ乍ら
せっせとあらひものをしてゐた。
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日暮の汽車

2019年12月25日 | 春を呼ぶ朝


なんという鳥だろうか、あまり見たことがない鳥がベランダにとまっていた。
「日暮の汽車」は詩誌「日本海詩人」に発表された「或る日の發車」を以下のように加筆修正して詩集「春を呼ぶ朝」に掲載した。
くらしゝゝゝ を 生活くらし と修正した。
泣きながら のあとに また同じ を加筆した。

「詩を作るといふこと」 大村正次
私は一つの詩を完成するためにいつでも数十回位は原稿が書き替へられる。
今度こそ詩の實体をつかんだと思って清書する。何回も聲をあげて讀んでゐると悪いところが見えて來る。二三日して讀み返へすと又新たなる欠点に気付く。これで完成と思って一月もほつて置いて出して見ると全然気に入らなくなってゐる。わたしの詩は最後まで未完成だといふ気がして來る。


大村正次著「春を呼ぶ朝」
―故郷の電車―

  日暮の汽車

 さまざまの生活くらし此驛ここに下ろし
 さまざまの生活くらしを雄々しくも乗せ
 この日暮の汽車
 なにかかなしみたえず
 泣きながら また同じ
 己の軌道を辷って行った。
 灰色の野の巣へ辷って行った。
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秋・月の出

2019年12月24日 | 春を呼ぶ朝


大村正次著「春を呼ぶ朝」―故郷の電車―
  
 
 夜の
 しなやかな翅すり合せ
 チリチリ チロロ
 研ぎすまし 鳴く虫がゐる。

 その思ひをこめた韻律が
 宵闇の心を鴆め
 無精な僕を
 頁の中の秋の歌を
 そつと庭までしのばせる。

  月の出

 秋は
 しのびよる冷やかな石の陰
 見よそこには
 真黒頭のゑんまこほろぎが
 長い鬚をふりふり
 つぶらな眼を光らして
 青い月の出を待つてゐる。
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不思議の人・詩人大村正次先生

2019年12月23日 | 大村正次


ここに昭和初期、富山にあった「日本海詩人」という詩誌の一枚の表紙がある。主宰者は「大村正次」。彼は後年北海道旭川東高の生物教師となった人で、同校逍遥歌の作詞者でもあった。
敗戦を間近に控えた昭和20年7月富山での教師生活に区切りをつけ、家族疎開するとの理由で「渡道」したと語られているが、決して真実を語っているとは思われないものと解している。
確かにその直後、昭和20年8月1日~2日にかけて富山市内だけでも3000人の死者を出したとされる「富山大空襲」があったが、単に家族の身の安全を図る疎開のための移動なら、近隣でも十分なのでは、と考えると、北海道行きの理由としては、薄弱なものと思われてならない。
ここはやはり、隠された理由としては、昭和3年発行の「春を呼ぶ朝」刊行後の自身の虚脱感と、その後の同人仲間が詩集を発行し、彼の元から離脱していったことから嫌気をさして、詩作に限界を感じたのでは、と考えるのが妥当なように思えてならない。
そのことは、その後筆を折って永年詩作をしていないことからも伺われることでもあり、そして思いっきり遠くの地に行くという、「北海道行き」となったのでは?と思うのは考え過ぎであろうか。

摂津国の怪人


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山寺の秋

2019年12月22日 | 春を呼ぶ朝


大雪山―お鉢平

大村正次著「春を呼ぶ朝」―故郷の電車―
山寺の秋

晩秋おそあきの麓の寺は
みあげる山の斜面の
孤獨な風景の庭に住み。
痩せた姿をおとし
ひそり水をたゝえ
寂しく光る池に住み。
かなしくも
河骨を浮め
水底みなそこをこの世の鯉ら
頭をあはせいきづいてをり。
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