屯田物語

 フォレスターとα6000が旅の仲間
 オンネトーの秋、青い空と紅葉が湖面に映えて美しい!

仁和寺のお坊さんかと・・

2010年05月31日 | 


禅智内供の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。
長さは五六寸あって、上唇の上から顎の下まで下がっている。形は元も先も同じように太い。云わば、細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下がっているのである。・・・

  芥川龍之介 「鼻」


禅智内供は仁和寺のお坊さんとばかり思っていた。
しかし、あらためて「鼻」を読み返してみると、池の尾の寺とあるだけで、
仁和寺とは書いていなかった。
今昔物語でお馴染みのお寺なので、勝手にそう思いこんでいたのかもしれない。



仁和寺は、真言宗御室派総本山の寺院である。山号を大内山と称する。
本尊は阿弥陀如来、開基は宇多天皇である。「古都京都の文化財」として、
世界遺産に登録されている



竜安寺から仁和寺に向かう途中のそれらしきお店でかきあげ蕎麦を食べたが、
器と盛り付けは京都らしくても、中身は値段に見合わなくお粗末であった。

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龍安寺 石庭で宇宙をみる

2010年05月30日 | 


龍安寺の石庭

応仁の乱の東軍総帥でもあった細川勝元が宝徳2年(1450年)に創建した禅寺である。
なぜか外国人(欧米人かも)のお坊さんが何人かいたが、
山水画の如き石庭の魅力に惹かれて修行されているのかもしれない。



石庭は、「水を感じさせるために水を抜く」という日本人独特の感性でつくりあげた「枯山水」の庭であるといわれている。
わたしも、この縁側にしばらく座っていたが、
まだまだ白砂を水に感じる境地にはならなかった。
もうすぐ古希を迎えるというに煩悩がおおすぎるということか・・

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広隆寺の弥勒菩薩

2010年05月29日 | 




広隆寺の弥勒菩薩

創建は推古天皇11年(603)、聖徳太子から弥勒菩薩をもらい受けた秦河勝が建立したとされている。
蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変の42年前である。

 泣き弥勒の如く少女手を合わせ

今回で三度目である。
最初は高校の修学旅行のとき、あまりに優美でやさしげなお姿に声もなかった。
そして11年まえ、大腸癌で入院していた妹が肝臓に転移して容態が悪化したとき、ここにきて祈っていたことがあった。

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西教寺をゆく

2010年05月28日 | 


比叡山をおりて、坂本の町を歩く・・

ここは西教寺、琵琶湖が一望できる。
天台系仏教の一派である天台真盛宗の総本山である

比叡山焼き討ちのあと、信長は光秀に滋賀を与えた。
西教寺の復興には光秀の援助があって、供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存している。
境内には光秀の供養塔がたっていた。



浮御堂・・
遅い時間なので参拝はできなかったが、琵琶湖はまさに海の波である。

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比叡山で不滅の法灯をみつめる 

2010年05月27日 | 


昨日の内視鏡検査では「再発の所見なし」という診断でほっとしたが全快したわけではない。
そのかわり、ダイナブックTXが強制終了~再起動という異常な動作を繰り返したためメーカーに修理を依頼したところ、基板に不具合が見つかり、そっくり交換してこちらは全快!

高校時代の修学旅行では、
東京~京都~奈良を10日間かけてまわったが、
京都で強く印象に残ったといえば、広隆寺の弥勒菩薩、延暦寺の根本中堂、金閣寺、清水寺かな。

あれから50年、きょうは比叡山坂本からケーブルカーにのって延暦寺を訪ねた。
風もなく琵琶湖の波静かである。



根本中堂で不滅の法灯をみつめる・・
最澄のともした灯火は1200年間一度も消えることなく輝いていた。
しかし、信長の比叡山焼き討ちのとき法灯はどうなったのかと疑問に思っていたが、
再建時に立石寺から分灯を受けたそうである。
なるほど、それで納得である。



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飛鳥大仏は日本最古の仏像とか

2010年05月26日 | 


飛鳥寺をたずねたときは雨が少し強くなって、
それでも本尊の「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来をお参りできてよかった。
日本最古の仏像ということで、鼻が高く大陸的なお顔をしていると思った。
飛鳥寺は蘇我氏の氏寺で開基は蘇我馬子ということである。

お寺のかたが慶応義塾女子高校のグループにガイドされていたので、
わたしたちもそれに便乗していろいろと伺ってきた。

聖徳太子もこの本堂でお参りしていたそうで、
もしかして、わたしと同じ位置にお座りになっていたかもしれない。



飛鳥寺から万葉記念会館へ・・
額田王の人形劇をみてきた。

 あかねさす紫野行き標野行き野守りは見ずや君が袖振る

額田王が不倫相手の大海人皇子にあてた歌、といっても彼は元夫だからね。
天智天皇との男女の絡みが相当複雑である。
壬申の乱の原因の一つは三角関係というひともいるが、それはどうかわからない。

万葉記念館では平山郁夫展が開催されていた。
壮大な絵巻物の如く、あまたの作品に接することができて思いがけない幸運であった。

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飛鳥板蓋宮跡を訪ねて

2010年05月25日 | 


折角、飛鳥の里に来たのだから、
蘇我入鹿が中大兄皇子、中臣鎌子らによって暗殺された飛鳥板蓋宮跡にゆきたいと思っていた。
いわゆる乙巳の変である。
わたしにとって、古代史のなかで大化の改新~壬申の乱までがとにかく面白い。
大海人皇子・中大兄皇子・持統天皇・額田王などなど、超有名人がたくさん登場するからね。

蘇我一族滅亡の原因はなにか・・

蘇我入鹿は国際人であった。
入鹿は東アジアの情勢を考えて唐・新羅と国交を結ぼうとしたが、
あくまで百済との関係を重視する中大兄皇子に殺されてしまうのである。

いわば、入鹿は革新派で中大兄皇子は守旧派であったということだ。

白村江の戦いに敗れたあと、
唐・新羅の連合軍が余勢をかって日本に攻め入ったとしたら、
わが国の古代史はおおきくかわったかもしれない。



蘇我入鹿の首塚・・
蘇我蝦夷・入鹿は甘橿丘に居を構え、そこから都を見下していたそうだ。
向こうに見えるのが甘橿丘である。

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飛鳥の里 岡寺へ

2010年05月24日 | 


母と母の母、そして母の姉が眠る岡寺にお参りしてきた。

岡寺は天武天皇の皇子で27歳で早世した草壁皇子の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされるが、
孝謙天皇の寵愛をうけた道鏡が創建したという説もあるようだ。



永代供養碑から飛鳥の里を眺める、
額田王はこの丘に登って、歌を詠んでいたのかもしれないね。
ここならわたしも葬られてもいいかなあ。


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蝦夷鹿がいるってほんと!

2010年05月21日 | 札幌の風景


大沢口の茶房「みき」で休むことにした。



野鳥の写真が店内いっぱいに展示されてあって、
しかもカウンターにも・・常連のカメラマンの作品ということであった。
珈琲が旨い!

「蝦夷鹿を目撃したひとがいるそうですよ」 とマスター・・
「えっ、ほんとですか」

野幌森林公園に鹿がいると思わなかった。
いまでも半信半疑である。
ここではキタキツネやタヌキもみたことないが、野生化したアライグマが棲息しているらしい。


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見上げてごらん クマゲラかも

2010年05月20日 | 札幌の風景


樹上でコンコンと音が聞こえる。
アカゲラかクマゲラかと期待して、
首を振り振りあちこち見回してたがわからない。
向こうから人がきたので、探すのをあきらめた。
上手く見つけたら教えてあげようと思ったけどね・・
ほんと、野鳥をみつけるのはわれながら下手なものである。

エゾエンゴサクと水芭蕉とオオバナノエンレイソウが一緒に咲いていた。

水芭蕉の葉はさほど大きくなってないね。
これも低音の影響なんだろうが、春の歩みがおそくて、
心配になってきたこのころである。

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