ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の人々

2024-02-21 21:24:29 | 水戸

薗部(そのべ)重裕
 岩根の代々続いた庄屋の家で、さらに庄屋の中から任命された周辺15村を取り扱う山横目(やまよこめ)にもなったそうです。かつて薗部家に徳川光圀が鷹狩りの際に立ち寄り、邸を雀躍亭(じゃくやくてい)と名づけたそうです。後の重裕時代に、藤田東湖も訪れて、詩などを残したそうです。斉昭蟄居の時には雪冤(せつえん 無実を明らかにすること)運動に身を投じたりし、元治甲子の乱(天狗党の乱)では、村外へ数年間身を隠していたそうです。水戸藩時代には藩校・時雍館(じようかん)の設置や、植林事業などに尽力したそうです。維新後は、8カ村を扱う戸長(今の町村長)になったそうです。写真は、現在、水戸史飯富市民センター(飯富町4449-8)に置かれている、かつて雀躍亭にあった、水戸藩4代宗堯(むねたか)の腰かけ石だそうです。

 

高野市太郎
 島田町に生まれ、日露戦争に従軍して帰国した後、植林報国、国土緑化を祈願し、約40年間にわたって、地元の香取神社のみならず、全国の著名な寺社、学校、役場等98ヶ所に10万本の献木をおこなったそうです。昭和34年の国土緑化運動10周年に、その功績が表彰されたそうです。顕彰碑(写真)が香取神社前にある島田町集落センター(島田町2040)敷地内に建てられています。

 

高倉隆文
 昭和20年の戦災で死亡した、旧・奈良屋町に疎開してきていた3家族14人を供養した親子地蔵が現地に建立されたそうですが、その地に建物を建てることになり、円通寺の住職・高倉が同情して寺に引き取って安置したそうです。(今は泉神社(宮町3-1-15)境内に戻ってきているようです) 昭和41年開通の千波大橋は、高倉が地元代議士に強く働きかけしたことなどによって実現したそうです。また、自身で詩集を出したりする文化人でもあったそうです。写真は円通寺本堂です。

 

大塚子之吉(ねのきち)
 柵町で料亭、結婚式場を経営していたそうです。ある時、梶山季之を西山荘に案内したときに、風呂も台所もないが仕出し屋から食事をとったのか聞かれたそうです。それがきっかけで、徳川光圀の食について調べだして、「日乗上人日記」、「舜水朱氏談綺(しゅんすいしゅしだんき)」、「食菜録」などの歴史史料をもとに、光圀の食事を復元させたそうです。それが現在水戸で体験することができる黄門料理の源だそうです。護国神社にあるフクロウの灯籠は大塚の住まいにあったものだそうです。写真は以前、常陸太田市郷土資料館で見た「日乗上人日記」です。

 

永井道明
 下市(しもいち)蔵前に生まれ、東京高等師範学校を卒業し、姫路中学校長を務めたりしたそうです。第二次大戦中は、国民体操・大日本体操などの作成に努力し、日本の学校体操の父と呼ばれたそうです。昭和38年に文部省から海外体育事情調査を命ぜられ、ボストン、ストックホルムなどで、主としてスウェーデン体操を研修したそうです。

 

コメント
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