ひとこと・ふたこと・時どき多言(たこと)

〈ゴマメのばーば〉の、日々訪れる想い・あれこれ

〈もう若くは無いんだから〉と、言い聞かせ、

2022-11-30 06:45:10 | 日記
昨日は、来年用の日記帳を買うべく、書店(デパート内にある)に出かけたのですが、買えませんでした。
まず、最寄りのバス停のバス時刻を間違えて家を出発。
結果、600メートルほど先の別のバス乗り場まで走り、別な路線バスに乗りました。
書店のあるデパートまで行くのには遠回りのコースです。
ここで、30分程の時間的ロスが生じ、ちょっと立ち寄った駅ビルの食料品売り場での買い物に時間がかかり・・・
次々と不都合が生じ、日記帳を買う時間が無くなってしまったのです。
疲れだけ背負い込んで家に戻りました。

今朝は、疲労感と言うより倦怠感に襲われています。
第5回目のワクチンを受けてから2週間が経過していますから、副作用ということでもなさそうです。
とにかく、焦って走ったりしたのがまずかったのでしょう。

今日は、あまり食欲もありません。
ムリは禁物。
こうした怠惰な自分に、〈もう若くは無いんだから〉と言い聞かせ、
コーヒーをゆっくり飲んだり、
コタツに寝そべっていたり、
連れ合いに、小言を言ったり、
テレビでは衆院予算委員会の中継が放送されていましたが、何だか観るには気分が乗りません。
全国的に荒れ模様になるらしいので、静かに過ごすことにしました。
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《そこに穴があいているがゆえに・・・》

2022-11-29 06:44:24 | 日記
「恩師」という言葉にピッタリの恩師・F先生が亡くなられ、告別式に参式してから4年が経ちます。
最近続いて訃報が入ったりしたものですから、先に逝かれた方々のことを思い出すことが多くなりました。
告別式の席で僧侶が読み上げた『白骨の御文』。
文章は知っているつもりでいた「御文」でしたが、読み上げられ、音声化した「言葉」を聴いて改めて名文だと感じたものでした。
《・・・されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。
    一生すぎやすし。
    いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや・・・》

と。

そろそろ、来年用の日記帳を買って来なければ、と思っています。
「三年用」の日記帳を使い始めたのは、1996年1月1日からです。
前年の年末(当時58歳)に副鼻腔に悪性腫瘍ができて手術をし、30日に退院しました。
さて、これからどれくらいの「生」が与えられるのかしら、との不安もあって、3年用の日記を買うことにためらいを覚えはしましたが、メモ代わりにもなることと思い買い求め、本年が終了しますと9冊の日記帳が書棚の端に並ぶことになります。
冒頭、1996年1月1日の欄には、
  生還。
  今与えられているものに感謝をして生きて行こう。

とだけ記されています。

3年前に「肺腺ガン」との診断を受けましたが、今のところ特段の症状もなく暮らしています。
そんなわけで、
〈今年も生かされているんだ〉
の、思いを強く抱いています。
でも、〈生かされている〉にしては、齢ばかり重ねているだけで、ふがいない自分を生きています。
ただ、
《 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。
何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。》
     (フィリピの信徒への手紙 4章から)

とのみ言葉に支えられて生きてきました。

《齢が重なり、病にむしばまれることで「ふがいなさ」を増す自分自身。
      それだからこそ見えてくる世界がある・・・・・・》

(‶ふがいない自分‶と生きる 渡辺和子 NHK『こころの時代』金の星社刊より)
と、渡辺和子シスターは語られました。
最近は物忘れも多くなり、脳細胞にもほころびや、穴ぼこがあいていることを自覚せざるを得ない私です。
渡辺和子シスターは、
《そこに穴があいているがゆえに、見えることがあるのです。》
とも、おっしゃっています。
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「地にも平和を」と祈りつつ。

2022-11-28 06:45:08 | 日記
日曜日でしたので、先週に倣って、一人での主日礼拝を自室で行いました。
牧師先生から送られて来ました「週報」記載の順序に従い讃美歌を歌い、「牧師説教要旨」を熟読させて頂きました。
本日の礼拝は、このたび、私たちの教会が近隣に在ったH教会と合併となりましたので、その記念礼拝です。
「合併」と言うのは、単に二つの教会が諸種の事情によって一つにまとめられる、という事ではなく、合流することによって新たな道を一つになって歩んで行くこと、と牧師先生からの説教がありました。
とても納得の行くお話でした。
個人的な生活の在り方であっても、災害に遭遇したり、思わぬ変化に直面させられたりした時は、その「変化」を新たな指針として生かして用いなければいけないのだと思います。

少し強い風が吹いた一日でしたが夕方には収まりました。
夕空に飛行機雲が、一筋 ふた筋溶け出して広がっています。
細いお月さまも出ていて、穏やかな夕暮れです。
今年の暦も残り少なくなって来ました。

風が通り過ぎました。
ふと、旧約聖書「詩編」の言葉が心を過りました。
  『人間は肉にすぎず
     過ぎて再び帰らない風であることを』


教会暦では、本日からアドベント(待降節)に入ります。
私も、主の降誕を待ち望みたいと思います。
「地にも平和を」と祈りつつ。

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《乾いたパンの一片しかなくとも 平安があれば・・・》

2022-11-27 06:40:20 | 日記
時々の日差しはありましたが、昨日に比べますと、いい天気とは言えない一日でした。
庭の落ち葉の片づけをしていますと、今年の秋も行き、冬がそこまで来ていることを覚えます。
ウクライナの方たちが、この冬をどう乗り切るものか気にかかります。
支援する各国の思惑も様々で、ドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』に記されているフレーズを
思い起こしたりしています。
 《人間にとって、良心の自由にまさる魅惑的なものはないが、
  しかしこれほど苦しいものもまたない》
 《パンを与えてみよ、人間はすぐにひざまずく》
        (亀山郁夫訳 光文社古典新訳文庫)


パンは必要です。
人は、食べなくては生きていけません。
でも、私は思います。
 《乾いたパンの一片しかなくとも 平安があれば
  いけにえの肉で家を満たして争うよりよい。》と。
       (旧約聖書「箴言」17章から)


そして、私の好きな作家、カレル・チャペックの著書「園芸家12か月」の中の
〈11月の園芸家〉の「ことば」を希望と共に思い起こした午後でした。

《わたしたちが現在と呼ぶ古い作り土の中に、
どんなにたくさんの太った白い芽がぐんぐん伸びているか、
どんなにたくさんの種がこっそり芽を吹き、
どんなにたくさんの古い挿木苗が、
いつかはかがやかしい生命に燃え上がる一つの芽となって、生きているか、
もしもわたしたちがそれを見ることができたとしたら、
秘められた将来の繁栄をわたしたちのなかにながめることができたとしたら、
おそらくわたしたちは言うだろう。
―――おれたちのさびしさや、おれたちのうたがいなんてものは、
まったくナンセンスだ。
いちばん肝心なのは生きた人間であるということ、
つまり育つ人間であるということだ、と。》
              (小松太郎 訳)

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『起きて半畳』『寝て一畳』ですから。

2022-11-26 06:41:03 | 日記
「立冬」は、とうに過ぎていますから「秋晴れ」との表現は適切とは言えません。
でも、今日は誰がなんて言ったって「秋晴れ」としか言いようのない空が広がっていました。
風も、ほとんど無し。
明るく暖かな日差しが朝から部屋の中に入ってきています。
「ようこそ ありがとう」
と、挨拶をしました。
幼い頃は、母親に倣って、日の出に掌を合わせたりもしましたが、日射しに挨拶するのは初めてです。

灯油の値段も上がり、東北電力は、32%ほどの値上げ(来年4月から)を申請しました。
今年の冬は、暖房費が嵩むことは確かですが、寒さを我慢することはできません。
ムダを極力無くする努力をして今冬は乗り切ろう、と決意しています。
もう何十年前にしたポーズ、右手の拳を軽く握り『ガンバロウ!』と同じ様に。

早朝、孫から沢山の動画が送られて来ました。
去る23日に開かれた福島県浜通り地区の、『2022・ツール・ド ならは』の写真と動画です。
応援に同行した孫の家族たちも宿泊した「Jビレッジ」での、ひ孫のUちゃん達の様子や、走っているパパを応援している動画と写真です。
健康に恵まれ、こうした事を楽しめる孫たち一家の姿は、何ものにも代えがたい喜びを与えてくれます。
ありがとう。

そんなわけで、今日の私は至ってハイテンション。
何でも出来そうな気がして・・・
黒田三郎さんの「紙風船」の詩などを思いだしています。

  「紙風船」
           黒田三郎
  落ちてきたら
  今度は
  もっと高く
  もっともっと高く
  何度でも打ち上げよう

  美しい
  願いごとのように


ふと、
〈「何度でも・・・」の手持ち時間は、私にどのくらい残っているのだろうか〉
そんな気分が、ハイな気分に水を差す様に心に侵入してきました。

でもねぇ、何はともあれ今日はいい天気です。
痛いところも無く、今日食べる物に事欠いているわけでもありません。
『起きて半畳』
『寝て一畳』です。
天下は取ったことありませんが、
『天下取っても二合半』ですから。
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