思わずの苦笑い、となりました。
昨日のブログに、「退屈な日常」などと記した私です。
全てではありませんが、ホンネであることも確かです。
今日は、日曜日でしたので先週に倣って一人での家庭礼拝を致しました。
いつもの様に、牧師先生から送信される「週報」に依って聖書の箇所を拝読し、讃美歌も歌います。
そして、やっぱり送られて来る「牧師説教要旨」を、しっかり読ませて頂きます。
本日の「要旨」には星野富弘さんの、詩が載せられておりました。
『日々草』
星野富弘
今日も一つ 悲しいことがあった
今日もまた一つ うれしいことがあった
笑ったり 泣いたり 望んだり あきらめたり
にくんだり 愛したり
そしてこれらの一つ一つを
柔らかく包んでくれた
数えきれないほど沢山の
平凡なことがあった
(花の詩画集 “鈴の鳴る道”より)
日常の平凡なことが、「できる」ということは恵みのはず。
痛かった足が治って、普通の歩行ができて日常的な事がらが楽に出来た時などは、「日常は退屈」などとはクチにしませんでした。
動けることが嬉しくて、感謝したはずでした。
それなのに、ちょっと忙しくなって自分の時間が無くなったりしようものなら、まるで大損でもしたように騒ぎ過ぎるのは如何なものかと。
反省、そして苦笑いの反省です。
このところの気温の変化に体がついていけません。
不調とまでは言えませんが快調とは言えない体の具合です。
ぼんやりと、満開になっている庭にツツジを眺めて過ごしながら、星野富弘さんの次の詩も思い起こしました。
風は 見えない
だけど 木に吹けば
緑の風になり
花に吹けば
花の風になる
今 私を
過ぎていった
風は
どんな風に
なったのだろう
(詩画集「風の詩」より)
昨日のブログに、「退屈な日常」などと記した私です。
全てではありませんが、ホンネであることも確かです。
今日は、日曜日でしたので先週に倣って一人での家庭礼拝を致しました。
いつもの様に、牧師先生から送信される「週報」に依って聖書の箇所を拝読し、讃美歌も歌います。
そして、やっぱり送られて来る「牧師説教要旨」を、しっかり読ませて頂きます。
本日の「要旨」には星野富弘さんの、詩が載せられておりました。
『日々草』
星野富弘
今日も一つ 悲しいことがあった
今日もまた一つ うれしいことがあった
笑ったり 泣いたり 望んだり あきらめたり
にくんだり 愛したり
そしてこれらの一つ一つを
柔らかく包んでくれた
数えきれないほど沢山の
平凡なことがあった
(花の詩画集 “鈴の鳴る道”より)
日常の平凡なことが、「できる」ということは恵みのはず。
痛かった足が治って、普通の歩行ができて日常的な事がらが楽に出来た時などは、「日常は退屈」などとはクチにしませんでした。
動けることが嬉しくて、感謝したはずでした。
それなのに、ちょっと忙しくなって自分の時間が無くなったりしようものなら、まるで大損でもしたように騒ぎ過ぎるのは如何なものかと。
反省、そして苦笑いの反省です。
このところの気温の変化に体がついていけません。
不調とまでは言えませんが快調とは言えない体の具合です。
ぼんやりと、満開になっている庭にツツジを眺めて過ごしながら、星野富弘さんの次の詩も思い起こしました。
風は 見えない
だけど 木に吹けば
緑の風になり
花に吹けば
花の風になる
今 私を
過ぎていった
風は
どんな風に
なったのだろう
(詩画集「風の詩」より)