散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

米軍空襲による惨状を描いた 詩 「戦場」~花森安治の創造力

2013年08月15日 | 現代史
2年前、花森安治の詩「戦場」を紹介した。
1945/3/10、2時間半にわたる東京大空襲、焼夷弾投下と機銃掃射による絨毯爆撃、死者8万8千名、負傷者11万3千名、広島、長崎の原爆を上回る被害だ。
 『〈戦場〉はいつでも海の向うにあった~戦後マイホーム思想の原点』
 
今日8/15は「終戦の日」、しかし、これは日本がポツダム宣言を受け入れると、天皇が国民へ知らせた日だ。降服文書に調印したのは9/2(即日発効)だ。更にサンフランシスコ講和条約は1951/9/8締結、1952/4/28発効だ。

全国戦没者追悼式が行われ、空襲による死者は、戦没者の中に入るが、戦場での戦死者ではなく、英霊とは呼ばれない。また、広島・長崎の様に、原爆の被曝者として慰霊されるわけでもない。中途半端な位置に置かれている。

非戦闘員を大量殺害することは、捕虜を殺害することと共に戦闘の場を外した殺人であり、許されざる蛮行だ。その場を〈戦場〉ではなく、〈焼け跡〉であり、〈戦死者〉ではなく〈罹災者〉と表現し、一篇の詩に仕立てたのは、花森の創造力のなせる技だ。

将に〈みなごろしの爆撃〉なのだ。日本の安全保障の中核にあった“海”が技術の発達により、無意味化され、島国は即戦場に変わること、その戦場の悲惨さを日常性の中で描き、庶民レベルでの戦後平和思想を見事に表現している。

以下、前半の一連の部分を引用する。

  「戦 場」
〈戦場〉は いつでも 海の向うにあった
海の向うの ずっととおい 手のとどかないところにあった
学校で習った 地図をひろげてみても 心のなかの〈戦場〉は
いつでも それよりもっととおくの 海の向うにあった

ここは 〈戦場〉ではなかった
ここでは みんな 〈じぶんの家〉で暮していた
すこしの豆粕と大豆と どんぐりの粉を食べ 垢だらけのモンペを着て
夜が明けると 血眼になって働きまわり 日が暮れると そのまま眠った
ここは 〈戦場〉ではなかった

海の向うの 心のなかの〈戦場〉では 泥水と 疲労と 炎天と 飢餓と 死と
そのなかを 砲弾が 銃弾が 爆弾が つんざき 唸り 炸裂していた

〈戦場〉と ここの間に 海があった
兵隊たちは 死ななければ その〈海〉をこえて
ここへは 帰ってこられなかった

いま その〈海〉をひきさいて 数百数千の爆撃機が
ここの上空に 殺到している
夜が明けた ここは どこか わからない
見わたすかぎり 瓦礫がつづき ところどころ
余燼が 白く煙を上げて くすぶっている
異様な 吐き気のする臭いが 立ちこめている
うだるような風が ゆるく 吹いていた

しかし ここは 〈戦場〉ではなかった
この風景は 単なる〈焼け跡〉にすぎなかった
ここで死んでいる人たちを だれも 〈戦死者〉とは呼ばなかった
この気だるい風景のなかを動いている人たちは
正式には 単に〈罹災者〉であった それだけであった

はだしである 負われている子もふくめて
この6人が 6人とも はだしであり
6人が6人とも こどもである
おそらく 兄妹であろう 父親は 出征中だろうか
母親は 逃げおくれたのだろうか
持てるだけの物を持ち 6人が寄りそって
一言もいわないで だまって 焼けた舗道を 歩いてゆく
どこからきて どこへゆくのか
だれも知らないし だれも知ろうとしない

しかし ここは〈戦場〉ではない ありふれた〈焼け跡〉の
ありふれた風景の 一つにすぎないのである
あの音を どれだけ 聞いたろう
どれだけ聞いても 聞くたびに 背筋が きいんとなった

6秒吹鳴 3秒休止 6秒吹鳴 3秒休止
それの10回くりかえし 空襲警報発令

あの夜にかぎって 空襲警報が鳴らなかった
敵が第一弾を投下して 7分も経って 空襲警報が鳴ったとき
東京の下町は もう まわりが ぐるっと 燃え上がっていた

まず まわりを焼いて 脱出口をふさいで
それから その中を 碁盤目に 一つずつ 焼いていった
1平方メートル当り すくなくとも3発以上 という焼夷弾
〈みなごろしの爆撃〉

      

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