散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

石原慎太郎、最後の我欲~『太陽の季節』の帰結としての権力欲~

2012年11月04日 | 政治理論
石原慎太郎氏は東京都知事時代の2011/3/14、震災への国民の対応について記者団に問われ、「津波をうまく利用して我欲をやっぱり一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」などと発言したことが報道されている。あとから、陳謝して取り消したそうだが。

政治家・石原知事であるから取り消したのだろうが、作家・石原慎太郎であれば取り消しなど、しなかったろうに…。作家から政治家への道に進んだ処に石原氏自身の我欲が表現されている。即ち、“権力欲”である。1955年に発表され、石原氏の名前を一挙に、社会に晒した作品『太陽の季節』をウィキでは次のように紹介している。『裕福な家庭に育った若者の無軌道な生き様を通して、感情を物質化する新世代を描く』『弟・裕次郎の噂話が題材という』『倫理性の点で、一般社会に賞賛と非難を巻き起こした作品』。

「感情を物質化」とは良くわからない表現であるが、感じたことを具体的に欲する、とでも解釈しておこう。要するに“我欲”である。それが本の中では、として表現されている。裕福な家庭に育った新世代の若者は、その後に続く戦後世代の象徴であり、先駆けでもある。

『ナンパした少女と肉体関係を結び、その後、付き纏われるのに嫌気がさし、兄に彼女を売りつける』。ここには、裕福さで物質欲を満たした孤独な若者が、次に肉欲を満たすと共に性を通して女に対する征服欲に目覚め、その負の表現として、金銭を介して少女を捨てたことが描かれている。これが我欲に関する作家・石原慎太郎の表現であれば、賞とそれを介した名誉欲だけに我欲が終わる作家に飽き足らず、本人の行動として政治へと向かうのは成行きとも言える。

『性と政治は、性衝動と権力欲という「要注意」の爆発物にかかわる点で、きわめてアナロジカルな関係に立つ』(永井陽之助「現代政治学入門」P7(有斐閣))。そこで、「英雄、色を好む」という言葉も頷ける。性欲と身近な権力欲(征服欲)を合わせて満たす対象になるのだ。更に、そこから生まれる世継ぎは、自らの権力の継承を意味し、その権力は永遠へ近づく。

今回の都知事辞任、新党結成のタイミングは、長男・石原伸晃が所属の自民党総裁選で敗れたことから選ばれた、と言われている。1989年の自民党総裁選に出馬したが、海部俊樹に敗れ、その後、1990年の衆院選挙で、石原伸晃が立候補し、親子揃っての議員ができあがった。それが、1995年の議員在職25年表彰において辞意を表明し、議員としての後継は長男に譲り、満を持して1995年の東京都知事に打って出た。成る程と思わせる経緯である。

都知事四選出馬も自民党幹事長としての石原伸晃からの出馬を要請があった。これも『我欲がいつまで続くのか?』との見方ができる。更に、その知事も途中放棄で新党結成に走った。橋下維新との接触は、政策の議論ではなく、は何が何でも国家権力へ近づこうという姿しか、見えてこない。結局、石原の最後の我欲は『太陽の季節』の帰結としての権力欲であり、橋下氏もまた、それに巻き込まれる存在なのか、試されている。

        

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。