致道博物館で開催中の企画展、
庄内藩と飛島を観に行ってきました。
飛島には今からおよそ6000年前の縄文時代に人が住み始めました。
館岩には鎌倉時代から室町時代にかけて人工的に築かれた石塁があり、
戦闘に備えていた様子が窺えます。
最上家が庄内地域を統治していた江戸時代初期には、
イカを年貢として納めていました。
庄内藩の統治下にあった江戸時代、
勝浦村、浦(中)村、法木村の三か村の間では
たびたび漁業権を巡る境目争論が起こり、
庄内藩が裁定を行うこともありました。
酒井家が庄内藩主として入部するのが元和8年(1622)。
庄内藩は毎年3月から9月の間、島役人を二人派遣しました。
島役人の仕事は年貢や入港税の徴収、その他争議の解決です。
島の戸数は約150戸で1000人ほどの人が住んでいました。
田畑はほとんどないので、年貢としてスルメ50駄(10万枚)
を収めています。
江戸時代中期に西廻り航路が整備されると、
多くの北前船が行き来するようになります。
飛島は、酒田湊に立ち寄らずに北進・南進する船の中継地として、
また酒田湊に入港する船の避難港としても利用されました。
島には船問屋(船宿)も軒を連ねていました。
幕末には外国船が日本海にたびたび出没。
飛島は庄内藩の再前衛の地として警備兵が派遣されることもあり
見つけるたびに急ぎ船を出して吹浦に渡り、
酒田や鶴ヶ岡に報告をしました。
「飛島模様書」からみる飛島の暮らし
・田畑は少しあるが、高い山がないので雨水頼り
・飯米は酒田、加茂、本庄で買い入れる
・建物の普請は竹木や葺き茅がないので由利郡塩越で調達
・冬は鱈、八尺蛸、海苔、中でも鱈漁が第一
・春から夏はワカメ、アラメだがあまり採れない
・夏から秋はイカ漁が第一。スルメで年貢を納める
・船着き場がある勝浦には「問屋」という船宿が20軒ばかりある
・家には3夫婦も4夫婦も一緒に住み、弟は兄の下男のように家業を手伝う
・縁談は三か村で決めるが、再縁などは稀に遊佐、酒田、塩越からも来る
・他所に行くには船に5~7人ずつ乗り込んで往来
・盗賊はいないので家に鍵はかけない
・イカ漁の時期は7、8歳でもイカ釣りが出来るものは暮れ前より船に乗り漁に出る
・乳飲み子は「いずめ」に入れて連れていく
・よく釣れるときは一晩で一人700~1000匹も釣り上げる
・島には「乞食」「物貰い」はいない。日雇いの者もいない
・普請などは親類が互いに手伝う
・8、9月の船を出せるうちに、春夏の産物を遊佐・塩越辺りに売りに行き
米や小豆を買って冬の飯米の足しにする