■■ノンフィクション・伝記
■ヘンリー・メイヒュー『ロンドン路地裏の生活誌―ヴィクトリア時代』(上・下)
当時の社会派ジャーナリストの雄ヘンリー・メイヒューが取材した職業別風俗誌。
これはたいへんに面白い。もう一度読みたくなってきた。
ヴィクトリア朝の小説をよむときは、いつもこれを読んでおいて本当によかったと思っている。一日中河に腰までつかって底をさらう仕事(河ひばり)とか、下水管の中をあるきまわってめぼしいものを探す仕事とか、『五輪の薔薇』を読んだとき参考になった。
当時、なんと犬のフンを拾って売る仕事があったんですよ!皮なめし屋が買い取るんだって。お金持ちの家の犬の糞のほうが品質が高いとか。なんと土やワラなどでニセのふんをつくる人もいたそうな。
資源のリサイクルについてもいろいろ考えさせられます。
翻訳では上下二巻組だが、原作は7巻(17巻?)にもなる大著だそうだ。
そのうち全訳がでないかなあ。
ところで、18,9世紀ロンドンに関する本は結構読んだけれど、数年前実際に訪れてみると、なんだか暑くて東京みたいに混雑していて、食べものはおいしくないのに物価はものすごく高くて、いい印象は持てませんでした。建物などは残されているのだから、注意深さが足りなかったのかな。江戸ファンは現代東京にもっと幻滅するでしょうね。
□クリスティン・ヒューズ『十九世紀イギリスの日常生活』(読んだかも)
□アネット・ホープ『ロンドン 食の歴史物語―中世から現代までの英国料理』
□新田潤美『階級にとりつかれた人びと―英国ミドル・クラスの生活と意見』
□新田潤美『不機嫌なメアリー・ポピンズ―イギリス小説と映画から読む「階級」』
□安達まみ『“食”で読むイギリス小説―欲望の変容』
□久守和子『“衣裳”で読むイギリス小説―装いの変容』
□益子政史『ロンドン悪の系譜―スコットランド・ヤード 』
■アナベル・ファージョン『エリナー・ファージョン伝―夜は明けそめた』
■エリナー・ファージョン『ファージョン自伝―わたしの子供時代』
両方の伝記を読んで、昔から愛読していた作者のことをはじめて知った。
ヴィクトリア朝の中・上流家庭では子供を学校に入れず、家庭教師に勉強をみさせた。そのせいか兄弟の絆が非常に強かった。
ファージョン自身は随分おくてで、どうやって子供をつくるのか30代にさしかかる頃まで知らなかった。
生涯自分の子供を持たなかった。
父、母、弟(戦死)、兄、夫を看取っている。
晩年(夫が健在のころから)ある若い作家を(自分の子供のように?)愛し励まして、一時期同居していた。(それとも恋人だったのかな?)
■エリナー・ファージョン『想い出のエドワード・トマス―最後の4年間』
彼女が20代の頃、心から愛した詩人が戦死するまでの4年間の想い出。
□アイリーン・コルウェル『エリナー・ファージョン―その人と作品』
■アン・クラーク・アモール『オスカー・ワイルドの妻―コンスタンス・メアリー・ワイルドの生涯』
ワイルドとアルフレッド・ダグラス卿に隠れてあまり日の当たらない存在だったワイルド夫人。しかし彼女は晩年の精神的、肉体的苦痛(ヘルニアでほとんど車椅子生活だったとか)によく耐えて子供たちを守ったのだ。常人には出来ない。
それにしてもワイルドは、「王女と侏儒」という童話で残酷な愛を見事に描いているにもかかわらず、自分はアルフレッド・ダグラス卿にその侏儒のように酷い扱いをうけている。何故。
■マイク・ダッシュ『難破船バタヴィア号の惨劇』
オランダ東インド会社の商船バタヴィア号がオーストラリア沖で難破した。生き残り340名のリーダーになった人物が今で言うサイコパスで、自分では手を下さないものの暴力的な人物を操って、150名になるまでに次々に殺し続ける、という信じられない実話を出来る限り淡々と、資料をもとに書きつづっている。
アマゾンのブックレビューではこの客観性がつまらない、という評もあったが、私は事実の羅列だけでも十分驚いた。本当に起こったこととは信じられない。心理描写などないから何度も数ページ遡って、行動原理・因果関係を読み取ろうと努力してみた(でも理解不能)。
そんじょそこらのサイコ・ホラーよりも怖い。おすすめ。
■村上春樹『シドニー!』
村上春樹のシドニーオリンピック報告。
村上春樹氏が走る人だとは知っていたがオリンピックと関連づけて考えたことはなかった。案の定、こんな機会(雑誌Numberの依頼)でもなければオリンピックなんていう壮大な無駄と退屈の現場に足を運ぶことはない、と言い切っている。
しかし、この本が退屈かと言われると、なんだかオリンピックの熱気をはらんで、つい一気に読ませる(夜更かししてしまいましたよ)。
この作家の旅行記・エッセイは個人主義的なところが好きだ。
オリンピックみたいな社会的事件だと、○○はこうすべきだ、こうあるべきではなかった、なんて熱く語る人間が増えてくるけれど、そういう人たちのことを、「××という社会状況に対して自分自身が深く傷つけられたと感じてしまう人々」と呼ぶ。
「義憤」という感情に敏感な個人主義者。
この作者の『遠い太鼓』は何度も読み返してきたし今後も読むだろうが、これはおそらく読み直さないだろう。けれど読んでよかった作品でもある。
■ヘンリー・メイヒュー『ロンドン路地裏の生活誌―ヴィクトリア時代』(上・下)
当時の社会派ジャーナリストの雄ヘンリー・メイヒューが取材した職業別風俗誌。
これはたいへんに面白い。もう一度読みたくなってきた。
ヴィクトリア朝の小説をよむときは、いつもこれを読んでおいて本当によかったと思っている。一日中河に腰までつかって底をさらう仕事(河ひばり)とか、下水管の中をあるきまわってめぼしいものを探す仕事とか、『五輪の薔薇』を読んだとき参考になった。
当時、なんと犬のフンを拾って売る仕事があったんですよ!皮なめし屋が買い取るんだって。お金持ちの家の犬の糞のほうが品質が高いとか。なんと土やワラなどでニセのふんをつくる人もいたそうな。
資源のリサイクルについてもいろいろ考えさせられます。
翻訳では上下二巻組だが、原作は7巻(17巻?)にもなる大著だそうだ。
そのうち全訳がでないかなあ。
ところで、18,9世紀ロンドンに関する本は結構読んだけれど、数年前実際に訪れてみると、なんだか暑くて東京みたいに混雑していて、食べものはおいしくないのに物価はものすごく高くて、いい印象は持てませんでした。建物などは残されているのだから、注意深さが足りなかったのかな。江戸ファンは現代東京にもっと幻滅するでしょうね。
□クリスティン・ヒューズ『十九世紀イギリスの日常生活』(読んだかも)
□アネット・ホープ『ロンドン 食の歴史物語―中世から現代までの英国料理』
□新田潤美『階級にとりつかれた人びと―英国ミドル・クラスの生活と意見』
□新田潤美『不機嫌なメアリー・ポピンズ―イギリス小説と映画から読む「階級」』
□安達まみ『“食”で読むイギリス小説―欲望の変容』
□久守和子『“衣裳”で読むイギリス小説―装いの変容』
□益子政史『ロンドン悪の系譜―スコットランド・ヤード 』
■アナベル・ファージョン『エリナー・ファージョン伝―夜は明けそめた』
■エリナー・ファージョン『ファージョン自伝―わたしの子供時代』
両方の伝記を読んで、昔から愛読していた作者のことをはじめて知った。
ヴィクトリア朝の中・上流家庭では子供を学校に入れず、家庭教師に勉強をみさせた。そのせいか兄弟の絆が非常に強かった。
ファージョン自身は随分おくてで、どうやって子供をつくるのか30代にさしかかる頃まで知らなかった。
生涯自分の子供を持たなかった。
父、母、弟(戦死)、兄、夫を看取っている。
晩年(夫が健在のころから)ある若い作家を(自分の子供のように?)愛し励まして、一時期同居していた。(それとも恋人だったのかな?)
■エリナー・ファージョン『想い出のエドワード・トマス―最後の4年間』
彼女が20代の頃、心から愛した詩人が戦死するまでの4年間の想い出。
□アイリーン・コルウェル『エリナー・ファージョン―その人と作品』
■アン・クラーク・アモール『オスカー・ワイルドの妻―コンスタンス・メアリー・ワイルドの生涯』
ワイルドとアルフレッド・ダグラス卿に隠れてあまり日の当たらない存在だったワイルド夫人。しかし彼女は晩年の精神的、肉体的苦痛(ヘルニアでほとんど車椅子生活だったとか)によく耐えて子供たちを守ったのだ。常人には出来ない。
それにしてもワイルドは、「王女と侏儒」という童話で残酷な愛を見事に描いているにもかかわらず、自分はアルフレッド・ダグラス卿にその侏儒のように酷い扱いをうけている。何故。
■マイク・ダッシュ『難破船バタヴィア号の惨劇』
オランダ東インド会社の商船バタヴィア号がオーストラリア沖で難破した。生き残り340名のリーダーになった人物が今で言うサイコパスで、自分では手を下さないものの暴力的な人物を操って、150名になるまでに次々に殺し続ける、という信じられない実話を出来る限り淡々と、資料をもとに書きつづっている。
アマゾンのブックレビューではこの客観性がつまらない、という評もあったが、私は事実の羅列だけでも十分驚いた。本当に起こったこととは信じられない。心理描写などないから何度も数ページ遡って、行動原理・因果関係を読み取ろうと努力してみた(でも理解不能)。
そんじょそこらのサイコ・ホラーよりも怖い。おすすめ。
■村上春樹『シドニー!』
村上春樹のシドニーオリンピック報告。
村上春樹氏が走る人だとは知っていたがオリンピックと関連づけて考えたことはなかった。案の定、こんな機会(雑誌Numberの依頼)でもなければオリンピックなんていう壮大な無駄と退屈の現場に足を運ぶことはない、と言い切っている。
しかし、この本が退屈かと言われると、なんだかオリンピックの熱気をはらんで、つい一気に読ませる(夜更かししてしまいましたよ)。
この作家の旅行記・エッセイは個人主義的なところが好きだ。
オリンピックみたいな社会的事件だと、○○はこうすべきだ、こうあるべきではなかった、なんて熱く語る人間が増えてくるけれど、そういう人たちのことを、「××という社会状況に対して自分自身が深く傷つけられたと感じてしまう人々」と呼ぶ。
「義憤」という感情に敏感な個人主義者。
この作者の『遠い太鼓』は何度も読み返してきたし今後も読むだろうが、これはおそらく読み直さないだろう。けれど読んでよかった作品でもある。
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