【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「コクリコ坂から」

2011-07-17 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

1960年代の横浜の港町を舞台にした、高校生の淡い恋の物語。詩情豊かなアニメーションの佳作。
本気でそう思ってる?
なに、そのトゲのある言い方。惨憺たる「ゲド戦記」の宮崎吾朗監督の映画だからって、最初から虫めがねで観てたんじゃないでしょうね。
それを言うなら“色めがね”だろう。
そうとも言うわね。
でも、そういう言い方なら、「コクリコ坂から」には、その“色”が足りないんだよ。
そりゃ、ノスタルジックな時代の映画なんだから、いまどき映画のように派手な極彩色の色使いってわけにはいかないでしょう。
そういう意味の“色”じゃなくて、肉付けというか、細やかさというか、言ってしまえばつくりが雑なんだ。
そんなこと、ないでしょ。昭和の風景を実に緻密に再現していたわよ。
絵的にはな。でも、その中で繰り広げられるドラマは、そうとう雑だぜ。
男の子と女の子の間に出生の秘密があって、その秘密は結構安易に謎解きがされちゃって、学校では明治時代からある生徒のたまり場が取り壊されるピンチになっていたのに、これも結構あっけなく解決されちゃって、展開としては平板だなあ、っていう印象もあるけど、だからって目くじら立てなくたっていいんじゃない。
この映画には男女の高校生の生い立ちを巡る話と、学校の建物が取り壊されるっていう話の二つの話があるんだけど、この二つが有機的に結びついてこない。
いいじゃない、別々のまま進んでいったって。
別々の話としたって相当、雑だ。男女の出生を巡る話は、親たちにデリカシーがかけているとしかいいようがないところがあって、大事な秘密を本人の了解も得ずに喋っちゃうし、「あのころにはそういうことがよくあったのよ」なんて平気で言うなんて。学校の建物の話だって、校長や先生たちは全然出てこないでいきなり理事長が登場して万事解決。理事長には理事長の考えがあって取り壊しを決定しただろうに、その辺の大人の事情は全部ネグって、高校生の心情にほだされて、はい、はい、話を撤回しますみたいな、妙に子どもだましな展開になってる。
でも、風景描写は丁寧だし、いいじゃない。
風景描写は丁寧かもしれないけど、人物の描き方は実に雑だ。高校生が自分たちの秘密を知ったときの反応の仕方の稚拙さ。電停で女の子が自分の気持ちを告白するまでの情感の盛り上げ方の工夫のなさ。それを受けた男の子の反応の描写の芸のなさ。あまりにストレートで、切なさとか心の揺れとかをちょっとした仕草や他の描写に託すっていうところがないから、表現にまったく深みが出ない。
たしかに盛り上がる場面っていうのはあまりなかったかもしれないわね。
学校を飛び出して船へ急ぐときの描写の淡白さ。
あそこはもう少し、時間のないドキドキ感とか間に合わないんじゃないかっていうイライラ感が出てもよかったかもしれないわね。
父親の宮崎駿なら、もっとスリルとサスペンスあふれる描写にしていたはずだ。映画はMOTION PICTUREなんだから、こういう動きのある部分をもっと押さないでどうする・・・なんてことを、ジブリ映画で感じるなんて情けない。
そういえば、二人が船に飛び乗るところも、偶然男の子が女の子を胸に受け止める展開になるんだけど、そこでの戸惑いとか恥ずかしさとか、そういう感情の機微は吹っ飛ばされてたわね。
お、いいこと言うねえ。ひとことでいうと、映画としての“機微”が足りなんだな。港を描くならかもめの一羽でも話にからませてこいよ、「上を向いて歩こう」なら坂本九じゃなくて登場人物の誰かが口ずさむ場面もつくれよ、みたいなささやかだけれど、映画を豊かにするには大切な部分。
まあ、テレビの震災応援CMで感動的だったのは、坂本九の歌だったからじゃなく、それを俳優たちが口ずさんだところだったからね。
一事が万事。あまりに映画的コクに欠けるんで思わず、観ているうちにコックリしちゃったよ。
あなたにとっては、コックリ坂だったわけだ。