【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「アフタースクール」:太平三丁目バス停付近の会話

2008-05-28 | ★都02系統(大塚駅~錦糸町駅)

近頃、錦糸町近辺の学生は、放課後、ここオリナスあたりでたむろするようよ。
“オリナス”って、“織り成す”から来ている名前なんだってな。
放課後、織り成すとくれば、「アフタースクール」ね。
おとなたちが放課後に織り成す、二転三転のストーリー。
だまされちゃいけないと思ってポップコーンも食べずに観ていたけど、心地よくだまされちゃったわ。
ああいう展開になるって、わかる観客なんかいないよ。散りばめられたヒントから真実を探していく推理ドラマとは根本的に違うからな。どうにでも受け取れるような撮り方で、監督があとから、はい、私はこういうつもりで撮りました、って後出しで種明かしをする映画だ。トリックがあるわけでも何でもない。
それでも、ここまで心地よく裏切ってくれれば、十分じゃない。なんか、不満でもあるの?
いや、監督と観客のだましあいみたいな映画は嫌いじゃないし、内田けんじ監督の前作「運命じゃない人」なんて、パズルのピースのはめ方がみごとだった。
今回はあの路線からさらにグレードアップして、俳優も大泉洋、佐々木蔵之介、堺雅人という、芸達者なメンバー。どこか善良そうで、どこか怪しげな連中ばかりで、最後までどういうヤツなのか、よくわからないんだけど、最後の最後になって、なーるほど、という仕組みが新鮮で、内田けんじ監督、いよいよ冴えている。
でも、彼の才能は「運命じゃない人」で実証済みなんだよ。
でも、男たちののやりとりはやたらおかしいし、こんがらがった話がほどけていく快感は、相当なものよ。
それも「運命じゃない人」は、すべてほどけきった充実感があったけど、「アフタースクール」は、どうもほどけきった感じがしない。
例えば?
裏で糸を引く最大の大物が、どういう悪さをしていたのか、思わせぶりでよくわからない。あの赤ちゃんが誰のものかもわからない。大泉洋は、授業がない日だったのか。結局、権力にしっぽを振る人間の話だったのか。考え始めると、夜も眠れない。
いつも昼寝してるくせに。
関係ないだろ。
とにかく、そんな細かいことはどうでもいいじゃない。男のくせに、見かけによらず、神経質なのね。
そうさ。人はみかけによらないのさ。人はみかけによらないっていうのが、この映画の真髄なんだから。
でも、山本圭とか運転手のおじさんとか、脇役に至るまで、ヘンな人と思っていた人たちの行動にちゃんとした理由があったなんて、手品の種明かしを見ているみたいで、痛快じゃない。
結局、常盤貴子に男たちが踊らされていただけだという見方もできる。
“同級生”っていうのがポイントよね。「友だちだからって、全部知ってるのかよ」ということばを、映画全体を通して観客に突きつけたともいえる。
誰が何を考えているかなんて、そんな簡単にはわからないんだよ、ってことだ。
それでも、人と人には利害を超えたつながりがあるんだよ、っていうこともね。
なにか、そういうテーマというか、言いたいことが出てきたのが、「運命じゃない人」とのいちばんの違いかもしれないな。「運命じゃない人」は、あっけらかんと終わっちゃったけど、「アフタースクール」は余韻みたいなものが残ったことは認めるよ。
ようやく認めたわね、この傑作のすばらしさを。
駄作だとは、いちども言ってないさ。日本映画には珍しいカテゴリーの映画であることはたしかだ。
私が気になるのは、あの常盤貴子が堺雅人に贈った靴だけよ。
どうして?
ひょっとしてオリナスで買ったのかと思って。
どうして?
ここには、常盤貴子がよく来るらしいから。
ほんとか?
うっそぴょーん。
クソッ、だまされた。


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