幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「困難を乗り超えて生きる」サヘル・ローズ氏 (東京いのちの電話公開講演会)

2024-02-05 13:45:28 | 生き方/考え方
東京いのちの電話公開講演会 2023年度厚生労働省自殺防止対策事業オープンセミナー(2024年2月4日)  
注 個人のメモであり個人の理解ですので正確でない箇所もあるかと思います。

「困難を乗り超えて生きる」サヘル・ローズ

 ペルシャ出身のサヘル・ローズです。
 伝えたいことは、「自分を飾らない」こと。
私は弱い。強いと思ったことはない。
弱さから強さが生まれるが、強さからは弱さは生まれない。

 言葉の暴力で傷つき、知らないうちに自分が傷つけたことも、そうして生きてきた。
自殺をしようと思ったこともある。
でも、今伝えたいことがあるから生きている。

 今38歳、(会場から「そんな歳に見えない」)、ありがとうございます。
一人だったら、私は生きて来られなかった。
自分が弱っている時は一人でないと気付かなかった。でも、私へのまなざしがあったから生きて来られたかと。

 私が生まれた頃、イランとイラクが戦争をしていた。それが悲しい現実。
親を戦争で亡くした。自分の身分を証明するものがない。
4歳の記憶が、孤児院にいたのを覚えている。私の誕生日を証明してくれるものがない。

 7歳の時に養子縁組。その日が私の誕生日になっている。
それは母フローラのおかげ。
18歳の時に、養母が養子縁組をしてくれた。
当時イランでは養子縁組するために3つの条件が必要だった。
①結婚している
②お金が一定額以上ある
③子どもが産めない
 養母に逢った時、私は養母に「お母さんになって」と言ったらしい。
フローラは手術をして子どもを産めないようにした。
それは違法な手術だった。
医師から、自宅でならと言われ、麻酔もなしに手術だった。非常に痛かったと。
子どもの頃、母のお腹にすごい傷痕があったのを覚えている。
フローラは親から反対され、言われた。
「あの子を引き取るのは“あなた”でないといけないのか」と。

 日本の学校で、生まれた頃の何か記念のものを持ってくるように言われたことがあり、同級生の中には”へその緒“を持ってきた子もいた。こんなものを残しているんだと。多くは赤ちゃんの頃の写真を持ってきた。でも私には写真がなかった。
12歳まで、それがとても不思議だった。なぜ私にはないのか。

 養父から虐待を受け、母はこのままではいけないと思い、家を出て野宿をした。
野宿は2週間になった。地域の人が見つけてくれた。そして地域の人が支えてくれた。スーパーの食コーナーの試食が私にとっての主食だった。いつもくるのに嫌がらなかった。逆に食べられるものを紙袋に入れて持たせてくれた。地域の人が見てくれていた。
まなざし、埼玉の人の優しさ、温かいおせっかい。
イランの孤児院の時にはそのまなざしはなかった。

 母は清掃の仕事を始めた。TVもゲーム機もなかった。何にもない部屋で母の帰りを待っていた。
お米は冷めたご飯を母と一緒に食べた。だから今でも冷めたご飯が好き。
母のまなざしがあった。

 SNSで人と心で繋がることが乏しくなってきた。
一人ひとりが持ってた世界が孤立に。
自分の孤独、闇を否定しないで欲しい。
TVなどでも自分のことを「闇っ子」と言っていたら、「言わないで」と言われた。
お互いに受け皿にならないと。そのためには“言葉をかける”ことが大切。

 母は私を大学に行かせたかった。
周りと比較してしまった。
自分への価値観、自己否定感を社会が下げさせている。

①自分を認めて欲しい。自分を愛して欲しい。
自分を蔑む傷口からは何も生まれない。
そのままの自分を愛して欲しい。
100人いたら、私のことを好きな人は一人。
「そんな人だとは思わなかった」
「幻滅した」などと言われ、自分を減点していく。
社会がお互いが最初は0点で、減点方式ではなく加点で見て欲しい。
私の話が全員に伝わるとは思わない。

②自分の弱さを大切にしたい。
それが自分のツール。
誰かに迷惑をかけるかなと思う。
迷惑をかけてよい。
自分が窒息する前に出して欲しい。 
中学三年間孤独。
カウンセラーに「頑張ろう!」と言われ息が詰まった。

③頑張らなくて良い。
立ち止まって良い。
休んでよい。
ただ、生きていくために働かないといけない。
大人になると責任を負わされる。でも、
「あなたが守りたい人がいるなら、止まる勇気を持って欲しい」 
「苦しい」と言葉に出す。「助けてくれ」と言う。そうすれば誰かが見つける。
辞書も人が創ったもの。だからそれを100%正しいと思わなくて良い。
同じ音色を出すことで、人とつながることがある。
相手が「苦しい」と言ってくれた時、話し合える。
私の言葉を100%受けとめないでください。1%でよい。

 私は聞き流せないタイプ。
グループラインがとてもトラウマになる。
トラウマの特効薬はない。

 中学3年生の時、自殺しようとした。
母の通訳代わりをしていた。
どんどん学業も遅れていった。
小学6年生から「20歳です」と言って働いていた。
メイクして誤魔化していた。見た目はバレなくても、中身は子ども。
千葉のそごうでアルバイトしていた。
子どもなのでオモチャ売り場に興味があり、何で大人がオモチャをと。

 頑張るスイッチが入っていたので、母に弱音を吐けなかった。
勉強机もない。冷蔵庫もない。食べ物もなかった。
ジャニーズのシールも買うお金がない。手に入らないものが多く、友だちの会話に入っていけない。
母が「学校どうだった?」と時々尋ねる。
私は母に心配かけたくなかったので、「楽しかった。**ちゃんと遊んだ」と返していた。
**ちゃんは架空の人物。
成績は悪くてオール1だった。母には1が一番良いと伝えていた。

 弁護士になりたかった。
母が清掃で働いていた会社はペルシャじゅうたんの会社だった。
騙されて、借金をしてしまった。信頼していた人の保証人になったが、その人は逃げてしまった。
千代田区の裁判所で母の通訳をした。悪い人が逃げた。裁判官は「母が騙されていた」ことを理解してくれて、和解を提案してくれた。
返せる金額だけを。長い年月かけて、私の働いたのも借金の返済に充てた。
弁護士はなぜ悪い人の味方をするのか?
弁護士になって悪い人にきちんと罰を与えたいと思った。
私は裁判に負けたら、その相手を刺して殺そうと思った。

 中学3年生の時、自殺したいと思って、早退して家に帰った。
自殺して母が一人になることは考えていなかった。
というかそこまで考えられなかった。
私が死ねば、相手は私が死んだことで苦しめることができると思った。
母は仕事でいつもいないはずなのに母がいた。
母は枕に顔を押しつけて泣いていた。
母はそれまで弱音を吐かなかった。
母は150cmくらい。我が家には枕一つ、ふとん一つしかなかった。
いつも抱き合って寝ていた。
母は後一週間500円しかなくても、500円もあるよと言っている人だった。
ぼろぼろの服も、「まだ使えるから」という人だった。

 私は母に「どうしたの?」と尋ねた。
母は「疲れちゃった」と言った。
いつもキラキラしてる母が弱音を吐いた。
そのことが嬉しかった。
この人も「人間だ」と思った。
私も「疲れた」と言っていいんだと思えた。
「死にたくて、早退して帰って来た」と言えた。
そうしたら、母が「死んでよいよ」と言ってくれた。
止められたら、今ここで死ななくても別の日に別の場所で自殺していたと思う。
死にたい気持ちを受けとめてくれたと思えた。
母が「あなたが自殺するのを見ていたいから、そして私も一緒に死なせて」と言った。
そして本気で死のうと抱きしめてくれた。

私は家族のことがわからない。
欠けていることが多い。私は欠けている。
だからダメだと思っていた。
今ならそれはそれでよいと思える。
欠けているのが当たり前。
母を立体的に感じることができた。
穴の開いている服を着ている母を抱きしめた時、母の身体は骨と皮だけになっていた。
「こんなに母は小さかったんだっけ」
苦しい言葉飲み込んで働いていた母はボロボロだった。
生みの親を憎んだ。今でも憎む。その思いがいまだにグルグル回っている。
それ以上に、ずーっと見守ってくれた母。
私が犯罪を犯しても受けとめてくれる母。
私は「母のために生きよう」とそのとき思った。

 人は自分のためだけでなく、誰かのためになっている。
どんなに困難と問題を抱えていても、眼の前に人がいるから生きられている。
生きようと思っても生きられない。
お金が出てくる世界で、生命が奪われている。

①自分を愛する。
 簡単ではないことはわかっている。わかっていても自分のことが嫌いになる。
自分が嫌いなところは、ひょっとしたら、誰かにとって良いことかもしれない。
自分の色を失くさないで欲しい。
社会は自分の考えをだすことが少ない。
出すと周りの空気が変わる。

 児童養護施設や介護施設をボランティアで訪問するようにしていることが多い。
そういうところでは共鳴できることが多い。
いつもの空間から一歩離れて違う空間に行って欲しい。
自分探しの旅はしないで欲しい。
それは今の自分を否定することになる。
別の価値観を持っている人と出会う。
私はそういうところに行くようにしている。
 
②誰かの相談に聴く側に 
 でもそうしていると溜まっていく。全てを抱え込まないで欲しい。
自分のメモリーカードがいっぱいになったら、止める。
それは逃げることにならない。
身を引くことも考えて

 会話と対話
対話が少ない。
相手の顔色が変わったりと衝突が生まれる。
違って当たり前。

 映画を作っている。4年かけて。
キャストは8人。皆児童養護施設出身者。
でも一人はもういない。
もう丸一年になる。自殺した。
彼の話を聴いていた。
彼は自分の子どもに同じことをさせたくいないと言っていた。
施設の子どもとレッテルを貼られる。
でも、生まれた環境と親を憎んだことがないと。
5人は親に殺されかけたことがある。
それでも親を愛している。
親が老後、困ったら面倒をみたいと。

 私は彼の自殺を止められなかったことがずーっと罪悪感になっている。
彼は死ぬ一週間目にお話ししたいと私に連絡が送って来た。
その時映画の完成前でもありとても忙しかったので、「もう少ししたら会おうね」と返していた。
もし、会っていたら、彼の心を軽くしてあげられていた。
どんなに体験していても、過ちを繰り返してしまう。
仲間からの連絡はSOSだと思う。
もっと支援する側が、苦しんでいる人が頑張るのではなく、もっとおせっかいできる社会にしたい。

 エレベーターで声かけても返って来ない。
変えられない痛みがあるのは財産だと。
それを失くすと社会が悪くなる。
自殺した彼の娘は8歳。
父がどうして亡くなったかはまだ知らない。
遺された側は、自分から命を絶たれると、何かできたのではないかと、心がえぐられたままになる。
重い話でごめんなさい。

 この時の経験を友人に言ったら、母と似ていた。
その人は施設を出た人が集まれる場所がないので、その場所を提供している。
時々、夜中に「死んでやる」と電話がかかってくる。
直ぐに自転車で駆け付けていた。
今は「いいよ」「止めないよ」「この電話切るよ」
「でも明日生きていたら必ず電話頂戴ね。待っているから」と伝える。
3日後にかかって来たこともある。
ずーっと心配している。
最後の選択をする人には、「帰る場所」がない。
生まれた命は宝物。
それがどれだけ大切か。
抱きしめる。この優しさの輪が広がって、いつか平和も広げて行きたい。
そうしないと世界が良くなっていかない。
かかってくる電話に出なかった。

母は弟を亡くした。弟が先に亡くなったことを母は毎日泣いている。
ずーっと数か月泣いている。
「もう泣かないで。いつまで泣いているの」と母に言ってしまった。
母が「泣かせて」と。
母への禁句が「元気」「誕生日」の言葉。
弟と3日違いが母の誕生日。

 母の知り合いにご飯をおすそ分けしたりしていた。
その人は生活保護。
母が落ち込んでいた時、その人との関係が母をさらに苦しめると思って、しばらく連絡してこないでとお願いした。
そして1か月後くらいに、母が「しげたさん来ないね」と。その人の名前はしげたさん。
母が料理を作ったので、しげさんのところに持って言ってと。
持っていき、ドアノブに料理の入った袋をぶら下げて、ピンポンを2回押すのが私たちとしげたさんの合図になっていた。
その後にまた料理を届けたら、前の袋がそのまま。
そこで不安になって管理人さんに尋ねた。
「しげたさんは亡くなったよ。しばらく発見されなかった」
私は本当にバカだった。
しげたさんの唯一の話し合い手は私たちだけだった。
それを私が止めた。
母がまた料理を作った。
そして「しげたさんに持って行って」と言った。
私は困ったが、覚悟を決めて母にしげたさんが亡くなっていることを伝えた。
そうしたら母が「知っていたよ」と。

 この話をしているのは、どんなに気を使っても、どんなに周りを見ていても、自分が会話のない人を見て何もしないのは、どんな人間も罪びと。私も罪びと。
それをずーっと背負うこと。受けとめて、感情を持ってる。
涙は、誰も苦しい、心を出して、泣いてください。
泣けるのは、生きようとしているから。籠の中の自分を見て欲しい。
自分を一番見ているのは、インナーチャイルド。
あなたの溝を聴くのもあなた。
一人じゃない。
心の声に耳を傾けて欲しい。

 自分の中に余白が生まれると、声をかけることができる。
気にかけている人がいる。
思いやる。浮かんできた人に声をかける。
文明の発達、たとえばSNS、人とつながるために使って欲しい。

 国家と国民を一緒に見ないで欲しい。
その国民が望む戦争はない。
お互いが信じることのためにやっている。
それは戦争をしない。
戦争にはリセットボタンがない。
始まると戦争は止められない。
相手の立場に立たない人が多い。
その意識(相手の立場を考える)が低くなってきた。
流れてくるものをそのまま受け止めると加担したことになってしまう。
自分が見ているものを押しつけると苦しくなる。
自分が存在するだけで、大切な平和のピース(ジグソーパズルの一個)になる。

感想
 辛い話をされるとき、サヘル・ローズさんは涙声で話されていました。
辛い話をすることが、生きることを伝えるためには必要だと思ってだと思います。

 生きているだけで誰かの支えになっている。
生きているだけで十分だと、信じることなのでしょう。

 サヘル・ローズさんのことは知っていました。
東京いのちの電話で講演会があるのを知り、ぜひ聞きたいと思い直ぐに申し込みました。

 この講演、多くの人に聴いて欲しいと思いました。
メモしてブログにUpするのは、少しでも、サヘル・ローズさん(砂漠に咲くバラの意味)のメッセージを聴いて欲しいと思うからです。

 母と子が野宿した周辺のさいたまの人が優しくて良かったです。
その優しい人に自分がなれるかです。

 東京いのちの電話での講演でした。
埼玉いのちの電話でも、来てくれるように思いました。
そして埼玉の人の温かいおせっかいの話をもっとしていただけるのではないかと思いました。

 ユダヤの人、トルコの人、台湾の人に親日家が多いのはその国の人に優しくした先人の日本人がいたからです。

 サヘル・ローズさんのYouTubeとX(元ツイッター)に登録しました。

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