北海道女子短期大学(現北翔大学)開学時、この地区には酪農学園の他、昭和23(1948)年12月開校の道立野幌高校がありました。
道立野幌高校は、道立では唯一の季節定時制(昼間)農業高校で、農村の勤労青年に労働を通じて教養と知識を習得させ、将来の農業経営者を養成しようというものでした。その後、昭和50(1975)年3月、定時制課程農業科を閉科、全日制普通高校へと生まれ変わりました。昭和53(1978)年12月、現在の杜の台団地の北側に新築・移転するまで、文教地区の一画で異彩を放ち続けていました。
昭和43(1968)年、この原始林を背にしたなだらかな丘陵地に二つの大学が相次いで開学しました。
それは、札幌商科大学(現札幌学院大学)と札幌香蘭女子短期大学です。
札幌商科大学の前身は、昭和21(1946)年、札幌市に開設した札幌文科専門学院です。昭和25(1950)年には札幌短期大学となり、昭和42(1967)年2月、大学設置認可を受け、四年制大学の開学にこぎつけました。
当初は、商学部商学科の単科大学でした。その後、商学部経済学科、人文学部人間科学科、英語英米文学科、商学部第二部、法学部を開設、札幌学院大学に名称を改め、今日に至っています。
一方、札幌香蘭女子短期大学は、現在の札幌学院大学第二グランドの用地に、英文科の単科大学として開学しました。全国で3番目の音声分析装置や54人分のLL(語学応答録音装置)、英文タイプライターを備えた語学研究所を完備し、ゆくゆくは貿易・仏文・国文の各科を併設する計画でした。しかし、「開学のための準備不足と経営の不手際」(昭和48年4月付け北海道新聞)のため、たちまち経営難に陥り、昭和48(1973)年9月廃学となりました。しかも校舎跡地が数度転売され、酒造メーカー等の手を経て、住友不動産株式会社の手に渡るという思いがけない方向へと展開していきました。
この跡地問題は、縦貫道建設に伴う三愛女子高校の移転問題などとも絡み、長く尾を引いていきました。
文教地区の環境を全うするためとはいえ、香蘭が手放した時点で4億円だった土地が、9億円近くにもなり、結果的に市が地価高騰に一役買った事が批判を浴びました。結局、明和学園札幌商科大学が、跡地及び校舎を買収したいと旨表明することにより、解決の方向へと向かいました。
昭和55(1980)年1月、土地建物合わせて8億円で売却することで合意し、処分に7年も費やし、市制上のお荷物といわれた跡地処分問題がようやく結着したのでした。
このほか、時を同じくして日本時計学校(昭和42年12月江別進出、同47年4月江別から撤退)や北海道測量専門学校(現札幌理工学院)や財団法人北海道農業協同組合学校などが進出してきました。
これらは、この地が文教地区としての条件を備えていたことの表れであり、行政努力の結果でもありました。
やがて、大学や研究機関と地域社会の結びつきが重視され、学生が居住することだけでなく、大学は市民生活と濃密な関係を築いていきました。
(参考)当ブログ2009年3月30日(月)「全国唯一酪農学科開設ー酪農学園大学」
当ブログ2009年3月23日(月)「文教地区の形成」
当ブログ2009年3月16日(月)「文京台の誕生!」
註:江別市総務部「新江別市史」577-578頁.
写真:札幌商科大学(現札幌学院大学)
北海道江別市役所「江別市史」431頁掲載写真を撮影掲載いたしております。
道立野幌高校は、道立では唯一の季節定時制(昼間)農業高校で、農村の勤労青年に労働を通じて教養と知識を習得させ、将来の農業経営者を養成しようというものでした。その後、昭和50(1975)年3月、定時制課程農業科を閉科、全日制普通高校へと生まれ変わりました。昭和53(1978)年12月、現在の杜の台団地の北側に新築・移転するまで、文教地区の一画で異彩を放ち続けていました。
昭和43(1968)年、この原始林を背にしたなだらかな丘陵地に二つの大学が相次いで開学しました。
それは、札幌商科大学(現札幌学院大学)と札幌香蘭女子短期大学です。
札幌商科大学の前身は、昭和21(1946)年、札幌市に開設した札幌文科専門学院です。昭和25(1950)年には札幌短期大学となり、昭和42(1967)年2月、大学設置認可を受け、四年制大学の開学にこぎつけました。
当初は、商学部商学科の単科大学でした。その後、商学部経済学科、人文学部人間科学科、英語英米文学科、商学部第二部、法学部を開設、札幌学院大学に名称を改め、今日に至っています。
一方、札幌香蘭女子短期大学は、現在の札幌学院大学第二グランドの用地に、英文科の単科大学として開学しました。全国で3番目の音声分析装置や54人分のLL(語学応答録音装置)、英文タイプライターを備えた語学研究所を完備し、ゆくゆくは貿易・仏文・国文の各科を併設する計画でした。しかし、「開学のための準備不足と経営の不手際」(昭和48年4月付け北海道新聞)のため、たちまち経営難に陥り、昭和48(1973)年9月廃学となりました。しかも校舎跡地が数度転売され、酒造メーカー等の手を経て、住友不動産株式会社の手に渡るという思いがけない方向へと展開していきました。
この跡地問題は、縦貫道建設に伴う三愛女子高校の移転問題などとも絡み、長く尾を引いていきました。
文教地区の環境を全うするためとはいえ、香蘭が手放した時点で4億円だった土地が、9億円近くにもなり、結果的に市が地価高騰に一役買った事が批判を浴びました。結局、明和学園札幌商科大学が、跡地及び校舎を買収したいと旨表明することにより、解決の方向へと向かいました。
昭和55(1980)年1月、土地建物合わせて8億円で売却することで合意し、処分に7年も費やし、市制上のお荷物といわれた跡地処分問題がようやく結着したのでした。
このほか、時を同じくして日本時計学校(昭和42年12月江別進出、同47年4月江別から撤退)や北海道測量専門学校(現札幌理工学院)や財団法人北海道農業協同組合学校などが進出してきました。
これらは、この地が文教地区としての条件を備えていたことの表れであり、行政努力の結果でもありました。
やがて、大学や研究機関と地域社会の結びつきが重視され、学生が居住することだけでなく、大学は市民生活と濃密な関係を築いていきました。
(参考)当ブログ2009年3月30日(月)「全国唯一酪農学科開設ー酪農学園大学」
当ブログ2009年3月23日(月)「文教地区の形成」
当ブログ2009年3月16日(月)「文京台の誕生!」
註:江別市総務部「新江別市史」577-578頁.
写真:札幌商科大学(現札幌学院大学)
北海道江別市役所「江別市史」431頁掲載写真を撮影掲載いたしております。