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江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

明治製糖株式会社採種園

2020年01月31日 | 歴史・文化

 大正15年(1926年)12月25日、大正天皇が亡くなり、摂政裕仁新王が践祚、元号は昭和に改められました。

 翌2年、江別の産業(農業)界に強い影響を与える二つの企業が進出しました。
一つは、石狩・樽川から町村農場の移転が決定しました。
同農場の進出が、その後の江別の酪農振興に大きな影響を与えたました。
さらに一つは、同年4月、野幌の樹林地(1番通、11丁目。現・大麻<おおあさ>新町)に、明治製糖株式会社の野幌採種園と乾燥工場が解説されました。

 以下、同工場江別進出の背景に触れておきましょう。
 大正末期、道内の甜菜栽培状況は、作付け面積約1万町歩、産糖高2万トンに過ぎず、道庁や業界では地元での採種事業の実現に奔放していました。
 種子は従来より全景輸入に頼っていました。
当然、量の確保が不安定であり、しばしば価格の高騰に悩まされていました。
また、輸入種子の欠陥から大きな被害を受けた事例もあり、種子の国産化が刻下の急務でした。
 そうした折、吉原江別町長、湯谷野幌兵村農業振興会長らが中心となり、誘致活動を展開、ようやく実現に漕ぎ着けました。

 吉原や湯谷の狙いは、野幌に明治製糖株式会社が進出することにより、甜菜(種子用・2年生)作付け農家の安定的経営の確立、加えて作付け農家の増加による地域経済の活性化にありました。

 明治製糖株式会社の進出以降、伊達屋敷や旧製糖会社地(西野幌)などを中心に、甜菜(種子用)栽培が盛んになりました(『野幌部落史』)。
翌3年には、道庁や会社の指導のもと、甜菜耕作改良組合が組織され、計画的な生産出荷へ向けての体制整備が進みました。
これら種子用甜菜は明治製糖株式会社を通し、ビート大根(1年生)の産地である北見、十勝方面などに送られました。


註 :江別市総務部「新江別市史」332-333頁.
写真:明治製糖株式会社野幌採種所と付属工場/顔写真:河辺克主任技師
 同上書332頁掲載写真5-7を複写し、江別創造舎ブログおよび江別創造舎facebookに掲載致しております。


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畑作の王様・燕麦

2020年01月30日 | 歴史・文化

 亜麻と同様、燕麦も軍需とは密接な関係にあります。

 明治41年(1908年)、札幌に糧秣廠が置かれた以降、燕麦の作付は拡大の一途を辿りました。
 「就中(ナカンヅク)、燕麦ハ作付反別1,092丁1反歩ニ及ヒ 之レヲ前年ニ比シ実ニ260町余ノ増加」(「江別村事務概況」明治43年)を見せました。と同時に、糧秣廠(りょうまつしょう)納入をめぐるトラブルは泥沼化し、解決の道は容易に見出せませんでした。

 糧秣廠への納入数量確保に苦慮する北海道燕麦共同販売会の危機感も頂点に達しました。
大正5年(1916年)9月、糧秣廠に対し「燕麦購買価格値上ノ義ニ付願」を提出しました。
これが、受け入れられないと知るや、代表団の派遣など中央交渉に踏み切りました。

 結果、糧秣廠は一歩も二歩も譲らなければ、安定的な燕麦の確保はむつかしい局面であることを認めざるを得ませんでした。
 燕麦購買方針を見直し、大正7年度は時価による買い上げました。
9年度は購買価格に生産費1割以内の利益を加えました。
11年度には、燕連に対し、供出の督励と品種改良に取り組むことを条件に、1俵につき2銭の奨励金を交付しました。
そして、さらに、14年度からは市価追従主義を取り入れることになりました。
なお、当時陸軍の馬糧の割合は、おおよそ燕麦50%、大麦10%、満洲コーリャン20%でした。

 江別においても、この時代の畑作の王様は燕麦です。
大正12年現在で言うと、作付面積、生産価格とも燕麦が群を抜いています。
第2位は小豆ですが、燕麦は小豆の作付面積の7.3倍、価格は3.7倍と圧倒しています。
地域別では、①野幌・殖民社、②三原、③篠津兵村、④野幌兵村、⑤幌向太、の順です。
これは先の亜麻と、ほぼ同じけいこうといって良いでしょう。

 12年2月、燕連は道農会で開催の共進会に燕麦を陳列して一般公開、約2000俵を汽車展覧会と称し、黒松内を出発し、倶知安、岩見沢など各駅をまわり停車展覧を行いました。
14年4月には江別駅においても開催されました。
 翌15年3月、道会議堂を会場に軍用燕麦納入奨励功労者34人に対し表彰を行いました。
江別では渡辺楽治(野幌・殖民社)、名越又八(篠津兵村)が表彰されました。



註 :江別市総務部「新江別市市」331-332頁.
写真:ツイシカリ番屋之園「再航蝦夷日誌」
 同上書97頁掲載図2-8を複写・掲載いたしております。

 

 

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東洋製線(株)江別工場

2020年01月29日 | 歴史・文化

 大正9年(1920年)、石狩川右岸、ちょうど富士製糸株式会社江別工場の対岸で東洋製線株式会社江別工場が操業を開始しました。
 
 亜麻は、第一次世界大戦後もしばらく好況が続き、この頃から反動期に入りました。
しかし、大戦後のヨーロッパ諸国からの需要は衰えませんでした。
ここから欧州製麻界の回復は相当遅れる、との観測が広がりました。
そのため、国内市況の鈍化にも関わらず、設備投資が続きました。
端的に言えば、全道の製線工場数は、大正元年の14から同10年には59に急増していました。
製線工場とは、亜麻から繊維部を取り出し、織物の原料として製麻工場に送り出すところです。
すなわち、近郷近在の農村から集めた亜麻茎を一定期間浸水池に浸します。7日から20日間ほど浸水させ、醗酵したものを乾燥(乾茎)します。これを粉茎器で破砕くし、木質部をのぞいて繊維とします。
 東洋製線株式会社江別工場も、そうした工場の一つでした。
場所は、石狩川大橋を渡って右手です。
地元篠津、美原をはじめ近くの村工場周辺に数十もできて、若い娘たちが甲斐甲斐しく働いていたものです。
当別、新篠津をはじめ、江別、野幌、対雁、幌向等からの亜麻運搬馬車が往還して居た」(『篠津屯田兵村史』)。
 何せ、当時は売り手市場です。会社から抜亜麻人夫が派遣され、馬車がやってきて亜麻山をかき集めていく、そうした例も少なくありません。
その後、「東洋製線工場に採取亜麻代金貰いに行く。いろいろ請求して割増し、馬衣1枚、ポスター貰ってすぐ戻ってきた」(大正14年8月25日『脇豊勝日記』)。
 
 なんと鼻息の荒いことでしょう。
売り手市場であることが、よくわかります。やはり、うまい話がいつまでも続くわけはありません。
やがて、亜麻景気の終焉を迎えます。
足早やにやってきた不況と企業整備の嵐の中、昭和2年(1927年)、東洋製線は北海道亜麻工業株式会社に吸収のやむなきに至りました。



註 :江別市総務部「新江別市史」330-331頁.
写真:杞柳生産と細工の対雁副業組合
 同上書235頁掲載写真4-19を複写し、江別創造舎ブログ及び江別創造舎facebookに掲載致しております。

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亜麻街道の光景

2020年01月28日 | 歴史・文化

 亜麻の盛衰は、戦争と共にありました。
特に、日露戦争ごの軍拡期からの欧州大戦期に大きな伸展を見せました。
そして、不況を挟み、その後の下降が三度上昇へと向かうのは、昭和6年(1931年)以降、いわゆる15年戦争の共連れ(軍需)としてでした。

 江別での作付け面積を見ると、明治、大正期を通して大正7年(1918年)の759町が最高です。
そして、大戦後は9年の532町以降2〜300町歩へと急減しました。

 大正13年の江別事務概況によれば、それでも亜麻は作付け面積で燕麦、小豆、そばについで4位、価格でも燕麦、小豆、米に継ぎ、以前主力農産物であるに変わりありませんでした。
作付け面積を地域別にみると、野幌・植民社が一番多い。
以下、篠津兵村、三原、野幌兵村、幌向太の順になっています。
 なお、大正末期、下当別(現・八幡)に90町歩の製麻会社の所有地がありました。
当別村界から石狩川に沿った一帯です。会社名は特定できないですが、亜麻全盛期を偲ばせるに十分な挿話として記しておきましょう。

 この頃の光景でしょう。
現在の国道275号は、亜麻街道の感がありました。
これは、明治40年に操業の帝国製麻株式会社工場へ、美原、篠津、当別方面から、ひきもきらず亜麻茎を満載した馬車の列が続いたことを指します。
「札幌の帝国製麻会社が盛況だった頃、現雁来橋付近は牧場下といった当別、札幌間を亜麻を積んだ馬車が何台も続き、帰りには味噌醤油の日用品を買って帰る」(『角山小学校沿革史』)。
「春から秋に、定期便のように、当別の荷馬車が一日置きに通りました(中略)。札沼線ができてからは通らなくなりました。」(同前)。

 なお、上記にて三原と記したのは、現在の石狩川右岸、美原地区では、帝国製麻の工場札幌進出と共に亜麻栽培が始まりました。時代は下るが、昭和8年から15年頃まで、この美原の街道筋で小商をしていた氷上シナヲによれば、大半の農家は帳付け年末払いでした。
ただし、亜麻払いと言い、亜麻を出荷した夏の終わり頃、ツケを支払う農家もありました。


註 :江別市総務部「新江別市市」329-330頁.
写真:杞柳生産と細工の対雁副業組合
 同上書235頁掲載写真4-19を複写s、江別創造舎ブログ及び江別創造舎facebookに掲載致しております。

 

 

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トンデンファームガーデンセール開催中!のご案内!

2020年01月26日 | イベント

 このたび、トンデンファームガーデンセール開催中!のご案内をいたします!

 昨日(1/25)より2日間!
 トンデンファームガーデンセール開催中!

 炭焼きソーセージ
 ごくうまビーフカレー 等
 会場内にて美味しさ味わえるブースの他、
 袋入りウインナーや石狩川ベーコンスライス等
 お馴染みの美味しさが揃っています

 また、敷地内レストラン松の実では中華バイキングを味わえます

 トンデンんファームガーデンセールの日程は、下記のとおりです。
1.期  間    2020年1月26日まで
2.会  場    夢工房トンデンファーム
           江別市元野幌968ー5


写真:夢工房トンデンファーム


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農村活況

2020年01月25日 | 歴史・文化

 第一次世界大戦は、北海道の農業に未曾有の好況をもたらしました。

 特に輸出農産物の豆類や馬鈴薯を中心にアメリカ市場、イギリス市場に進出豆景気、澱粉景気と言われました。
ちなみに、昔からヨーロッパの重要な食糧である菜豆、豌豆の道内輸出作付面積は、大正7年(1918年)で、明治末に比し970倍、馬鈴薯は240倍に増大しました。
もとより軍需である燕麦、亜麻などの作付面積は拡大、農村は活況に沸きました。

 北海道の開拓初期から豆類は、畑作の中核的位置を占めていました。
それは、比較的粗放栽培が可能であり、気候、土壌など風土に適していたからです。
その主要品は、大豆であり小豆でした。
加えて、世界大戦を期に菜豆や豌豆が急激に伸びていきました。
特に菜豆の輸出は目覚ましいものでした。
江別においても、この間の推移は、ほぼ歩幅を同じくするものでした。

 (中略)

 江別の農村も空前の好況に沸きました。
戦争の頃には青えんどうや小手亡を作った人は成金になりました。
野幌で成金になった人はいませんでしたが、1番に景気が良くなりました。
芝居(村芝居)をしたのは、その頃でした。自分も国庫債権を買わせて貰った」(『椛沢和吉老談』関矢マリ子取材草稿)。

 当然、この時期には新墾プラオなどの農機具が先を争うように導入されました。
しかし、いつでも順風というわけにはいきません。
大戦の終結と共に、戦後の恐慌と世界農業恐慌は農産物の下落を招きました。
反対に、日常必需品の物価は、大正3年を100とすると、同8年は261を示す騰貴をみせ、再び農村は困窮の寒波に包み込まれました。



註 :江別市総務部「新江別市史」328-329頁.



 

 

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模範酪農部落・野幌兵村

2020年01月24日 | 歴史・文化

 大正2年(1913年)の凶作を経て、それまで提唱されていた混同農業に大きく踏み出す船頭役を果たしたのが、野幌兵村農業振興会の取り組みでした。
以降10年、ここまでの道のりを鳥瞰すると、えべつの酪農界のめざましい伸展が見えてきます。

 「当時(註:大正5年)、牛乳ノ販路未ダ開ケス 生産セル牛乳ノ処置ニ苦シム状態ナリシモ 札幌市ニ煉乳工場ノ設立セラルルニ及ビ 野幌兵村農業振興会ハ益々養牛ノ奨励務メタルト 町理事者ニ於キ極力畜牛飼養奨励ヲナシ 一面煉乳工場ト折衝ノ上収乳所ノ設置等生産者ノ利便ヲ企画シ 毎年産得品評会ヲ開催シ改良ニ務メタルヲ以テ畜牛ハ急激ノ増加ヲナシ 1ヶ年牛乳生産価額18万余円ニ達スル盛況ニアリ」(「江別町事務概況」昭和3年)。

 四季をとおし、江別(北海道)の代表的な風物詩となった赤煉瓦サイロが、江別、野幌の兵村や江別太、野幌・殖民社などに姿を見せるのは、この時期でした。
サイロ以前は、納屋などにデントコーンを10日分、20日分と切り込んでおき、それを使いましたが、サイロの登場(初期は木製)により、冬期作業の省力化や多頭飼育が可能となります。
大正14年には道費補助の道も開かれ、酪農振興の大きな弾みとなりました。

 大正末期、江別、野幌兵村において、それぞれ電化がなされました。
電化は近代化そのもの、生活革命そのものでした。
ただ一言、各兵村共電化が酪農振興上不可欠であったことです。
「厩舎設備ノ如何ハ 畜産発達ノ消長ニ至大ナル関係ヲ有スル明カナル所ニシテ 旧来ノ洋燈、提灯等ハ作業能率ニ影響ヲ及ボシ 火災ノ危険ヲ伴フノ虞レアル」(「野幌兵村部会議決書」大正7年7月)。
それが電化により、近代化により、飼牛上の、ひいては酪農振興上の大きな狭路が解消されました。

 大正15年、野幌兵村は道庁から規範農として表彰されました。
農業実戸数142戸、畜牛頭数381頭、生産乳量4,817石、生産乳価格8万2千629円。
北海道のデンマークと称揚されたとおり、全村が酪農に取り組み、その地歩を築きました。
 第二期北海道拓殖計画の柱の一つは、酪農を農業発展の原動力の中心に据えようというものでした。施設補助を含め、酪農振興の施策を打ち出しました。

 こうした折、昭和2年(1927年)、町村農場(町村敬貴)が石狩・樽川から江別・対雁に移転しました。
町は、同農場の誘致に全力をあげました。
例えば、大正15年1月早苗別に開場の町殺場は、当初対雁に建設を計画しましたが、それを変更しての受け入れでした。
大局、町当局の判断は妥当でした。
町村農場の進出が、以降の江別の酪農振興はもとより、産業界全体へ及ぼした有無形の影響は計り知れないものがあります。


註 :江別市総務部「新江別市史」327頁 .
写真:野幌屯田兵第二中隊本部

 

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関東大震災と酪連の誕生

2020年01月22日 | 歴史・文化

 大正12年(1922年)9月の関東大震災が生産者農家を直撃をしました。

 関東大震災の緊急避難的措置として、政府は食糧や建築資材、その他復興資材に対し輸入関税を免じました。
そのため外国から安い乳製品が流れ込み、国内品は販路を狭められ、滞貨の激増に苦しめられました。
これは当然のこと生産者農家をも直撃しました。
乳価の引き下げ、生乳の受け入れ制限など、死活問題となりました。

 具体的に言うと、極東煉乳、森永製菓など国内煉乳工場は輸入品に押され、事業不振に陥りました。不振脱却策は、生産者にも向けられました。
乳価の引き下げ、さらには牛乳検定も厳しいものとなりました。
「大正13年に至って乳の値が下がり、会社の調べが厳重になってきた。景気の良いうちは寛大だったが、不景気になり、一方舶来の良質のものが入って来ると、真っ先に原料乳にあたって来るのは当然のことだった。今までの一等乳が二等になって(1升に4銭の差)、値も脂肪検定 なしに11年1等24銭もしたものが、11もしくは12銭は7銭にもなってしまった(「野幌部落史』五十嵐宗二・談)。

 結果、不合格乳(2等九)が増加、加えて会社から買い取る子牛育成用の脱脂乳は高くなるというおまけもつき、この処理問題は生産者農家を苦境に追いやりました。と、共に、各所で煉乳会社との衝突が目立ちました。

 大正14年4月2日、札幌・石狩支庁において、二等乳の処理問題につき第一回の畜牛家協議会が開催されました。苦境を打開するのは生産者自身の手によるしかありませんでした。
当会で出された対策は、組合による製酪(バター、クリームなど)事業を行うと言うものでした。
実行委員として宇都宮仙太郎他10名が選ばれ、数度の協議会を経て、同14年5月17日、いわゆる酪連(有限会社)北海道製酪販売組合(組合長・宇都宮仙太郎)の誕生をみました。

 専務理事は黒澤酉蔵、役員13人のひとりに江別の藤倉祝八(常務理事)も加わりました。
藤倉は第1回の競技会から実行委員として、酪連の設立に奔放しました。
そして、酪連設立後の14年6月、その江別支部とも言うえべき江別酪農組合を立ち上げました。
しかし、当該組合の歩みは苦渋に満ちたものとなりました。
産業組合精神のもと、云々の、その精神は否定すべくもありませんが、昔からの取引会社との情実、生産者集団の地域エゴ、それに目の前の利益に浮き立つなど、生産者農民の足並みは乱れに荒れました。
設立時の組合員120名から脱落が相次ぎ、やがて昭和8年(1933年)には解散やむなきに至りました。

 関東大震災に端を発した酪農界の危機的状況が、生産者農家の自己防衛組織である酪連を誕生させました。にもかかわらず、その酪連は困難な船出を余儀なくされました。
困難というのは他でもありません。
既存の大手煉乳会社との過激な競争、それに内部の生産者農家の足並みの乱れなど、酪連の助走はぬかるみを歩1歩と進むに似ていました。
それは、また、生産者農民の苦悩の投影に他ありません。


註 :江別市総務部「新江別市市」325-326頁.
写真:極東練乳株式会社野幌授乳所 開設者小田島清治と家族
 同上書324頁写真5ー5を複写・掲載致しております。

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北海道開拓の村ボランティア活動者募集のご案内!

2020年01月21日 | イベント

 このたび、北海道開拓の村ボランティア活動者募集のご案内をいたします!

 公式HPによると、
 北海道開拓の村は、ボランティア登録数約200名程です。
 登録されたボランティア活動者によって、
曜日ごと・グループ編成をして村内活動を展開しています。
ボランティア活動者は、ユニフォーム紺色半纏を着用して活動しています。

 北海道開拓の村ボランティア活動者募集については、下記のとおりです。
1.ボランティア要件
  ①18歳以上
  ②ボランティア体験講座受講
  ③基礎講座(入門講座)受講/2月3月開講
  ④①〜③を経て、新規活動機某申込み票提出
  ⑤北海道開拓の村ボランティアの入会/年会費¥1,000ー
  ⑥むらびと登録/ボランティア登録料無料
2.体験講座 *いずれ日程も午前9:30〜16:00
  2020年1月24日(金)・1月25日(土)
  2020年2月20日(木)・2月23日(日)
3.入門講座
  2020年2月28日(金)・3月7日(土)
   10:30〜12:30 開拓の村活動
   13:30〜15:30 生涯学習とボランティア活動
  2020年3月 4日(水)・3月 8日(日)
   10:30〜12:30 概略 北海道開拓史
   13:30〜15:30 博物館としての開拓の村
  2020年4月 3日(金)
   13:00〜13:30 救急対応講習
   13:30〜15:40 新規活動者対象交流会
4.問合・申込先
  北海道歴史文化財団 事業部
  札幌市厚別区厚別町小野幌50−1
   011ー898ー2692
   011ー898ー2694
    info@kaitaku.or.jp



写真:北海道開拓の村ボランティア活動者募集チラシ


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大学入試センター試験!

2020年01月19日 | 教育・学校

 このたび、大学入試センター試験のご案内をいたします!

 大学入試センター試験は、
 大学入試センターと各大学・国立・公立・私立各大学が連携し合って
 同日期日、同一試験問題にて実施する学力検査です。

 1.志願者数について
  独立行政法人大学入試センター発表<公式HPより引用>
  令和2年大学入試センター試験 
  ★志願者数 総数
   557, 699人<前年度比 19,131人減>
  ★内訳
   高等学校卒業見込者(現役生) 452,235人<前年度比 12,715人減>
   高等学校卒業者  (既卒者) 100,376人<前年度比  6,306人減>
   その他    (高卒認定等)   5,088人<前年度比    110人減>

 2.地理歴史「世界史B」<昨日初日(1/18)実施>
   第1問 問5正解訂正が情報配信されました。
   全員に得点2点が与えられる措置が取られます。
   詳細は、こちらからご覧ください。


 大学入試センター試験公式HPは、こちらからご覧ください。



写真:朝陽 <2020.1.18撮影>


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