江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

御救交易

2018年01月29日 | 歴史・文化

  松平定信は、蝦夷地については非開発論の立場でした。
  しかし、クナシリ・メナシの戦いが場所請負人の過酷な場所経営に対する反発から起きたことから、幕府は寛政3、4年(1791-1792年)にかけて、アイヌの信頼を回復するために御救(おすくい)交易という名の蝦夷地交易を行いました。
これは、天明5、6年の御試交易を引き継いだもので、寛政3年には、アッケシ・キイタップ・クナシリで、同4年にはソウヤ・石狩で調査・交易が行われました。

 ソウヤにおける調査・交易の内容については、串原正峯の『蝦諺俗話(いげんぞくわ)』に詳しく描かれています。
ソウヤでの任務を終えた一行は、石狩からシコツ(千歳)越えで帰路に着く途中、「トマヽタエ」に止宿しました。
これが、江別を通過した事実を直接伝える記事としては最初のものです。


 ソウヤより松前<帰郷の節、イシカリ川より夷船にて東蝦夷地シコツという所へ出たり。
イシカリ出舟して其夜はトママタエという所に止宿し、(此川筋止宿は皆夷小屋に泊まるなり)二日目イベチとふ所へ着船。
三日目シコツえ出たり。夫より山越をしてピピといふ所より又船に乗る。此所よりは夷の丸木船にてユウブツといふ所へ着船せしなり。イシカリヨリ川路山越とも三十六里餘なり。
今年イシカリ川にて鮭漁御用交易ありしか、予は宗谷に詰居たる故、秋鮭漁はみざりしが、右川路通行の節、シコツ川鮭多く、船中より川中見るに、背を揃えたる所、夥しさたとへん様なし。
夷ともヤスにて突漁するなり。


 イシカリにおける御救交易については、「今年イシカリ川にて鮭漁御用交易ありしか」と記しているのみで、詳しいことは分かりませんが、シコツ川(千歳川)の鮭の豊富な様子、アイヌのヤス漁などが記述されています。


註:江別市総務部「新江別市史」84-85頁.


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