江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

クナシリ・メナシの戦い

2018年01月26日 | 歴史・文化

 農村では、人口が減少し、耕地の荒廃が進み、重い年貢や小作料の収奪に苦しむ農民たちによる百姓一揆が激化しました。

 天明3(1783)年から7年にかけての大凶作による飢餓は、それに一層の拍車をかけ、多くの農民が都市に流入しました。その結果、年貢収入は激減し、幕府財政は極度に窮迫しました。
 都市でも米価が騰貴し、打ち壊しが頻発しました。加えて、田沼意次・意知父子による重商主義政策の時代末期には賄賂による役人の出世が横行し、幕政に対する不信感を増長しました。

 田沼が失脚した翌年(天明7年)、老中となった松平定信は、幕藩制の危機を打開するための改革に着手しました。これが、寛政の改革です。
 改革の着目は、天明の飢餓により荒廃した農村を復興すること、物価を安定させ都市の社会秩序を回復すること、大名・旗本への統制を強化し、幕府の権威を回復することなどでした。しかし、倹約令による景気の極端な抑制策や奢侈品の禁止、風俗矯正を意図した徹底的な教戒政治は、「白河の清きに魚も住みかねて元の濁りの田沼恋しき」と、庶民の強い反発を呼ぶことにもなりました。

 クナシリ・メナシ地方のアイヌが蜂起したのは、こうした寛政の改革が緒についた寛政元(1789)年5月のことでした。
 飛騨屋が請け負っていたクナシリ場所のアイヌたちが虐待や賃金の不払い、アイヌ女性への唇めなどに怒り、場所支払人や番人、出稼ぎの漁民たちを襲撃しました。アイヌの怒りは、対岸のメナシ地方(現・根室管内)にも広がり、そこの同胞と合流して飛騨屋の施設を襲い、両地方で合わせて71人の和人を殺害しました。

 松前藩は鎮圧軍を送り、幕府の指示を受けた津軽・南部両藩も援軍体制を整えました。折からロシアの南下が伝えられ、アイヌがロシアと結びつくことへの危惧もあって事態は緊迫しました。しかし、クナシリのイトコイ、アッケシのツキノイら惣乙名は、松前藩へ恭順の意を示し、蜂起したアイヌを説得し投降させたため松前藩との武力衝突には至りませんでした。

 寛政元年6月、松前藩は、アイヌが訴えた飛騨屋の非道を認めたものの、蜂起の首謀者37人を処刑して事態を収束させました。そして、この戦いがアイヌにとって最後の大蜂起となりました。
 松前藩は、同年8月、アイヌの蜂起の責任は、場所請負人の飛騨屋にあるとして、久兵衛の請負場所五カ所(クナシリ・キイタップ・アッケシ・クスリ・ソウヤ)の全てを没収しました。この没収された請負場所は、もともと松前藩の借金の引き当てとして飛騨屋が手に入れたものであり、飛騨屋は怒り、幕府に対し控訴状を提出しました。
 しかし、ない袖は振れず、形ばかりの涙金の弁済で手を打つしかありませんでした。

 松前藩は、以後先の五カ所の請負場所を藩主直領とし、阿部屋村山伝兵衛はその差配方を命じられましたが、実質的には場所請負と変わりませんでした。



註:江別市総務部「新江別市史」83-84頁.
写真:飛騨屋久兵衛石狩山伐木図(北海道大学付属図書館所蔵)
 同上書77頁を複写掲載いたしております。

 

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