江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

サンタン交易

2018年01月24日 | 歴史・文化

 清朝の樺太進出は、日本との遭遇を招き、これがサンタン交易です。

 サンタン(山丹)とは、アムール川下流域に住む住民の名称の一つであり、今日のウリチ(オルチャ)に繋がる人々とされています。
そのサンタン人を含むアムール川下流域と樺太の住民が、中国や日本を相手に絹と毛皮を中心に取引していたことをサンタン交易と称します。

 サンタン交易は、清朝の辺民統治のたがが緩み始めることで、交易民の自由度が増してくる18世紀後半から19世紀初頭までが絶頂期で、その後幕末まで続けられました。

 日本側の樺太調査は、松前藩が17世紀の初期から着手しています。
蝦夷地北端のソウヤに商場を設け、直接からふとの住民と交易を始めたのは貞享年間(1684-1688)といわれていますが、元禄期以後しばらく途絶え、宝暦年間(1751-1764)から再開されました。

寛政2(1790)年からは、樺太南端の白主に藩独自の交易場を設けて、サンタン人らと交易を始めるようになりました。
 樺太での交易は、当初ソウヤ場所を差配していた松前商人の請負でしたが、寛政12(1800)年からは白主場所が藩直営となり、大阪の商人柴屋長太夫が請負いました。

 サンタン交易では、さまざまな品物が取引され、アムール川と樺太を経由して日本と中国を往来しました。
中国から日本に入ってきた目玉製品は、蝦夷錦と呼ばれる絹織物の反物と、山丹服あるいは十徳と呼ばれた蝦夷錦の衣装です。その他に青玉と呼ばれたガラス玉があります。日本から中国向けの産物としては、アイヌが捕獲したクロテン・キツネ・カワウソ・ラッコの毛皮などでした。

 蝦夷錦や山丹服は、幕府への献上品として使われた他、商品として北前船で運ばれ全国に流通しました。他方、蝦夷錦を樺太に運んでくるサンタンやニヴフ、またアイヌの間でも蝦夷錦の官服は晴れ着であり、ステータスシンボルでした。
蝦夷地産のクロテン(エゾクロテン)は、色合いが悪く樺太産の四分の一くらいの価値でしたが、カワウソは樺太産クロテン5枚分くらいの価値で取引されました。
 さらに、日本からアムール・樺太向けには陶器・漆器・鉄鍋・ヤスリ・チョウナ・米・酒・麹などが、アムール・樺太から日本向けには鷲鷹の尾羽や海産物が運ばれました。


註 :江別市総務部「新江別市史」80頁ー81頁.
写真:サンタン交易の舞台
   同上書81頁掲載 図2-6を複写・掲載いたしております。

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