江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

コサック探検隊

2018年01月25日 | 歴史・文化

 ロシアは、ネルチンス条約によってアムール川への進出を断念したあとは、カムチャッカから南西に転じて、千島列島(クリル諸島)を南下して、日本に接近しました。

 ロシアの東進の目的は、毛皮でした。カムチャッカ半島は、クロテンの宝庫であり、千島諸島はラッコの繁殖地でした。ラッコは、クロテン以上に上質な毛皮が穫れるとして珍重されていました。

1711年、コサックの探検隊は、カムチャッカ半島を南下し、ロパトカ岬に到り、小船でシュムチュ(占守島)に上陸しました。翌々年、第二島プルムシル(幌筵島)に上陸した同隊は、エトロフ島から交易に来ていたクリル人(千島アイヌ)からの情報をもとに、第一島のシュムチュから第15島のマトマイ(松前島=北海道本島)までの島々の詳細な情報を本国に報告しました。
 それは、ウルップ島やエトロフ島のクリル人がクナシリ島から木綿や絹織物、鍋、刀、漆器などを入手し、シュムチュ島やプルムシル島、さらにカムチャッカにまで交易に訪れ、ラッコ、キツネ、鷲の羽と交換している実態を伝えるものでした。

 ロシアは、1750年から千島諸島でのヤサーク徴収を開始し、1768年にはウルップ島、エトロフ島でも徴収が行われました。1770-1771年には、ロシア人の強圧的なヤサーク徴収や暴力行為におこったクナシリ島とラショワ島のアイヌが、ウルップ島とマカンル島に滞在していたロシア人数十人を殺害するという事件が起きました。その後、ロシア人はエトロフ島のアイヌに友好的に接するようになり、ヤサーク徴収もなくなったようです。

 北東アジア一帯に進出することになったロシアは、物資の補給路と捕れた毛皮の販路を求めて、カムチャッカ半島から千島、あるいはオホーツク海から樺太を経て、北海道、本州、中国への道を探っていました。そのため、元文4(1739)年には、ベーリング第二次探検隊のうちシュパンベルクが仙台や安房沖に到来、1741年には、シュパンベルクの配下の一船が樺太東海岸に接近し、測量などを行っています。

 安永7(1778)年、ヤクーツクの商人ラストチキンの派遣した一行がアイヌの通訳を伴ってノッカマプ(根室)に上陸し、通商を求めるという事態が発生しました。同地に滞在中の松前藩吏は、翌年に回答すると約束したため、ロシア人は一旦帰国しましたが、翌年松前藩はアッケシにおけるロシア人との交渉で、国法をたてにこれを拒絶しました。
 これが、鎖国を祖法とした幕府をゆるがす、ロシア人来航の第一陣となりました。


註:江別市総務部「新江別市史」81-82頁.

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