「いんらん巨乳母娘」(1993/製作・配給:新東宝映画/監督:深町章/脚本:周知安/企画:田中岩男/撮影:稲吉雅志/照明:伊和手健/編集:酒井正次/助監督:原田兼一郎/監督助手:榎本敏郎/撮影助手:片山浩/スチール:津田一郎/録音:銀座サウンド/現像:東映化学/出演:しのざきさとみ・杉原みさお・凪?瑞?希・荒木太郎・山本竜二・池島ゆたか)。フォントが潰れ、三番手の頭二文字が判読不能。
津田スタ外景にタイトル開巻、起床した杉原みさおの何気にウノローグ―宇能鴻一郎調モノローグ―が「私野沢悦子、短大に通ふ女子大生なんです」。短大に通つてゐるのを女子大生と呼んでいゝものか、早速疑問が脊髄で折り返しつつ、大手の就職内定も貰つた悦子(杉原)は“私のこの巨乳のやうに”、“夢もはち切れんばかりなんです”とこの世の春を謳歌する。ある意味、杉原みさおにして初めて形にし得る豪語ではある、臆面もなく。一方狭いダイニングキッチンでは悦子の母で、今にもエアロビでも踊りだしさうなラスタな色合ひの明子(しのざき)が、朝つぱらから競艇新聞に首つたけ。未婚で悦子を産んだ明子はかつては水商売、目下は博才で一人娘を育て上げ、てゐたものの。昨今は負けが込み、借金も重ねてゐる模様だつた。暗転した先は東京の繁華街、悦子と連れ立つ彼氏の轟渉(荒木)は、小説家を志望し大学を中退したフリーター。いや、あるいはだから、別に中退する必要ないから。それは兎も角、サイズからおかしな、丹前みたいに見えるへべれけなジャンパー―但し値段的には高さう、無駄に―の下に黒T。中途半端な太さの白い綿パンに挙句止めを刺すが如く、頭にはモルタルボードみの軽くあるベレーを載せた荒木太郎の壮絶なファッションの破壊力が凄まじすぎて、もう映画の中身なんててんで頭に入つて来ない。ピンクにつき衣装などといふ高邁な概念は―制服なりコスプレを除けば―基本的に存在せず、俳優部の私服である筈ならば、果たしてこの時、荒木太郎は何を血迷ふて斯くも素頓狂な扮装をしてみようと思つたのか。
配役残り、ホテル代をケチッた悦子が轟を野沢家に連れ込んでゐたところ、明子が連れ込む山本竜二は、案の定負けた明子が競艇場にて五万を借り、た形に身を任せる男。「今日はツイてなかつた」と別に反省はしてゐない明子に対し、「穴狙ひすぎてんだよ」と観音様を指差した上で、自身のヤマリュー!を誇示し「俺みたいに硬く行かなきやよ」。山竜が、もしくは山竜の癖に手堅い文句を吐くと、何か余計鮮烈に聞こえる。池島ゆたかは遂に津田スタまで乗り込んで来る、明子に家を担保に金を貸してゐる本格的な借金取り・佐伯、と来ると下の名前は恭司にさうゐない。名義が判然としないではその他活動の形跡も追ひやうがない、謎の三番手に関しては後述する。
自社物件なのに何をトチ狂つたか、新東宝ビデオのVHSジャケが星?瑞?希を伊藤舞とか大嘘表記してゐるのに、みすみすex.DMMの出演者タグも釣られる怠惰が情けない深町章1993年第二作。もう少し、ピンクに真面目に接して欲しい。因みに多分瑞希は瑞希で合つてゐるやうな気がする某瑞希と伊藤舞が、似てゐる訳でも全くない。見紛つた訳ですらない伊藤舞の名前は、全体何処から湧いて来たのか。
ギャンブル狂の母親と、気が気でない娘の他愛なくさへない物語。手放しでスマートな劇中最大の妙手は、事実上野沢家をブン捕つた佐伯は母娘を―元々悦子の居室である―二階の一室に追ひやり、津田スタで囲はうと連れて来た愛人・ナツミが、後述するとしたナゾミズキ(推定)。尺の折返しも優に跨いだ、遅きに失する危機もぼちぼち覚えかねないタイミングでの、三番手を清々しいほどの円滑さで話の流れに取り込む、何気に練り込まれた論理性には深く感心させられた。反面、残念ながらその辺りが関の山。負ければ悦子ともども佐伯の愛人となる条件で、家を取り返すべく明子が挑んだ最期もとい“最後の博打”が、佐伯と明子の差し馬で行ふ麻雀の半荘勝負。母が卓を囲む姿を見て何時しか覚えた悦子は兎も角、ナツミは麻雀が出来ない中、劇画原作募集に応募しようと麻雀の勉強を始めてゐた、轟がのこのこ現れる、明子から出禁を喰らつてゐるのに。文字通り面子が揃つた瞬間の、王道展開ぶりは確かに煌めいてゐた、のだけれど。結局―のうのうとバレてのけるが―轟の起死回生、といふか要は紛れ中りの国士無双を佐伯がうつかり被弾。漁夫の利で明子が勝利を収める史上空前に自堕落なハッピー・エンドには、開いた口が塞がらないのも通り越し、欠伸はおろか溜息も出ない。随分昔から一貫して太つてゐる池島ゆたかは仕方ないにせよ、何故か杉原みさおと山本竜二までもが、常日頃より明らかにダッブダブ。乳が太ければ腹も少々太いとて構はない、とする倒錯した美意識に、当サイトは断じて与すものか。詰まるところはそんな二人が象徴的な、締まりを欠いた一作である。
神の宿らない細部を思ひだした、純然たる些末ぢやねえか。元々賭け事は嫌ひな轟が、悦子に麻雀指南を乞はうとして「ホテル行つて教へて呉れないかなあ」。力任せに底を引つこ抜く没論理が、濡れ場の導入といふ一種宿命的な要請に粛々と奉仕する、寧ろ清らかな名ならぬ迷台詞には声が出た。
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