みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#53 基礎教理 一度救われた人は絶対に滅びない

2024年03月17日 | 基礎教理

Q.

僕も教会にいきだして、「あれ、ウェーバーが言ってたことって実は違うんじゃない?」っていう思いがだんだん強くなりまして。

やはり彼もヒューマニズムの影響から逃れられなかったかもしれません。また予定説もカルヴァン主義者じゃない人から見ると理不尽で恐ろしいものにみえるのでしょうか。

それとウェーバーがカルヴァン主義の5特質の一つである聖徒の堅忍を知っていたなら救われるかどうかわからないなんていわなかったのかと思います。

少なくとも彼は実際に複数のカルヴァン主義者に会って話を聞いて自分の仮説が正しいかどうか検証すべきじゃなかったのではないかと。また、おっしゃるとおり証拠文献をもっとあげるべきだったと思います。

ウェーバーがいう救われるかどうかわからないから清い生活にいそしんで救いの確証をえるという説に当てはまるのはむしろメソジスト系の人たちじゃないかと思います。

彼らは聖徒の堅忍を否定しますし、信じたら聖霊の働きにより清い生活ができると考えているので。そうなると逆に清い生活をしないと信じているといえないし、救われてないぞ!ってならないかなと。僕はアルミニウス主義じゃなくカルヴァン主義だから彼らの思考を正確に理解することができませんが。

後、アメリカ人がおおざっぱでだらしないってイメージは僕も持っていました。だからちょっと意外です。そういえば以前スポルジョンの説教集を読んだときに彼が「よき業を聞きたいならアルミニウス主義の教会に、よき業をしたいならカルヴァン主義の教会に行きなさい。」

のようなことを言っていたのを思い出しました。

A.


(1)
聖徒の堅忍の教理(ひとたび救いに選ばれた人は絶対に滅びず、最後まで信仰を失わない)を知らないと、カルヴァン主義の予定説とは、何か恐ろしい運命説のように見えてきても当然です。

カルヴァン主義に対してノンクリスチャンが誤解するのは、聖霊を受けていないために、霊的な部分が理解できず、それゆえに誤解が生じているからでしょう。

「予定論」と聞くと、「神を勝手気ままな独裁者にしている!」と決め付けます。よく考えてみれば、「もし歴史に起こることすべてをあらかじめ決定されていなければ、神は被造物によって影響を受ける相対者になってしまう。」と分かるはずです。

神は絶対他者であり、他の一切の者から影響を受けず、すべてのことを絶えず完全に能動的に行うのですから、「誰が救われて、誰が滅びるかをあらかじめ決定しない」ということは あ・り・え・な・い。

それゆえ、予定説以外を主張するキリスト教は、実は、神を信じていないのです。たとえ信じていたとしても、その神とは、「人間を大きくしたもの」に過ぎません。予期せぬことに当惑し、驚き、嘆く、なんてのは、ギリシャ神話や日本の神話と同じ「作り物の神」です。

聖徒の堅忍の教理は、この神の絶対性から当然導き出されます。

神が歴史内のすべてをあらかじめ決定しておられるならば、当然のことながら、その人の最後の状態まで決定しているということになります。

ひとたび救いだした人を、神は最後まで徹底して面倒を見る。

「あ~!おまえ、こんな罪を犯したなあ!じゃあ、地獄!」というようなことを言われない。

パウロは、自分が堕落すればするほど、神の恵みはますます深くなり、その堕落した自分を救ってくださる、と述べている。だからといって、堕落してもよい、ということではないが、と。

「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」 (ローマ5・20-6・2)

ある意味において、一度救いに入った人が堕落して罪を犯してどうしようもなくなっても、神はそこでその人を切り離したり、見捨てたりすることはなく、そのどうしようもない深い穴の奥底にまで入ってきてくださり、救い出してくださる。

これが聖徒の堅忍です。

「じゃあ、クリスチャンでも堕落したり異端になって死んでしまう人がいるがどういうことか?」という疑問が起こるでしょう。

それは、最初から、「あまりよく考えもしないで」(1コリント15・2)信仰に入ったか、それとも、何か別の意図(たとえば、キリスト教が好きとか、教えに共感して、クリスチャンだと見栄えがする、学校の入学資格を満たせるなど)があって本当の回心をしていなかったから、ということでしょう。

ホンモノのクリスチャンかそうでないかを見分けることは不可能です。なぜならば、今彼(または彼女)が不熱心であっても、神は必ず救いに予定された人を成長させてくださり、罪から解放し、高い状態に導いてくださるからです。

堕落したり、異端の教えに嵌ったりしても、それだから、滅びる、絶対に救われない、と断言はできません。

救われている人は、最後にキリストのもとに必ず帰ってきます。放蕩息子の例えのように。

それゆえ、軽々しく人をクリスチャンかノンクリスチャンか決め付けないようにしたいものです。

但し、明らかに赦されない罪を犯して、それを頑固にも悔い改めていないことが明らかな人については、「誰がクリスチャンか決められないのだから、結論できない」ということはできません。教会は、あくまでも、その証明された行ないや教えによって、「現時点で」判断を下し、戒規を発動し、それらの人々を除名にする責任があります。

除名にされた後で、彼らが悔い改めて帰ってくれば、教会は彼らを喜んで迎えなければなりません。放蕩息子に走りよって迎えたあの父親のように。

選ばれている人は、必ず教会に帰ります。

なぜならば、「救いの主導権は、もっぱら神にのみ属するから」です。

私がユダヤ民族が回復すると信じているのは、この聖徒の堅忍の教理を信じているからです。

(2)
アルミニウス主義は、「救いは人間の選択にも依存している」と考える半ペラギウス主義ですから、人間の心持次第で、最終的に滅びることがありえると考えます。

ですから、アルミニウス主義者の牧師は、講壇から「あなたがたは自分が救われると思っているかもしれませんが、分かりませんよ。」と言います。

本当に回心をして、救われた人が、滅びることは絶対にない、という信仰がないために、アルミニウス主義者は、「人間的手段に固執します」。

たとえば、伝道大会などでは、「さくら」さえ使います。

「『キリストを信じた人は前に出てきてください』と決心を募るときに、誰か前に率先して講壇の前に出て行く人がいれば、躊躇している人の背中を押すことになるから、君、最初に出ていってくれ」と。

また、「招きの音楽には、信仰を促すような曲を」とか、そういった「人間的な」手段で、クリスチャンを「作ろう」とします。

私が以前所属していた教会は半分アルミニアンでした。フラー神学校卒業の牧師は「心理学的方法」を利用して、人を回心させようとしていました。

彼は、「皆さん。クリスチャンは模範にならねばなりません。どんなに面白くないことがあっても、教会を出て、その路地の角を曲がるときには、顔を整え『ニコッ』としてください。」と言いました。

このような方法で伝道し、それによって生まれたクリスチャンは、人造クリスチャンであり、やがて、教会にこなくなり、最後には信仰を捨ててしまいます。

回心は、あくまでも「超自然的」な現象です。聖霊によらずには、人間はキリストのもとに来ることはできません。

最初はチャランポランなクリスチャンでも、本当に「生まれ変わり」を体験しているならば、必ずキリストに真心から真摯に従うようになります。

しかし、人間的な方法でクリスチャンになった人は、その内側が本当の意味において神と和解していないので、最後にはキリストを捨てます。

私は、人間の内面を変えるのは、すべて聖霊の御業だと考えています。ですから、他人の内面についてとやかく言う責任も権利も自分にはないと考えています。

たとえば、あるチャランポランなクリスチャンがいても、訓戒は必要でしょうが、それによって彼を変えられるなどとは考えません。

もし、他人を変えることができると考えるならば、それは傲慢です。

神が必要な時に、その人を悔い改めに導いて、正しい道に導いてくださる、と信じます。

 

 

 

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