小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

マネーの虎(小説)

2015-12-10 21:23:54 | 小説
マネーの虎

ある時の、「マネーの虎」である。
番組に出た社長たちは、今回は、堀之内九一郎、貞廣一鑑、加藤和也、高橋がなり、南原竜樹、の5人だった。
一人の女が入ってきて、社長たちと、向かい合った。

吉田栄作「いくらを希望しますか?」

女「はい。一千万円を、希望します」

吉田栄作「そのお金の使い道は?」

女「NY(ニューヨーク)スタイルのハウスウェアショップを開きたいと思っています」

女「実は、私は、1991から1999までの8年間、NYの金融業界で、ファイナンシャル・プランナーをしていました。その時、日本に無い分野があることに気がついたんです。それは、Bed&Bath&Beyond。といって、Beyondは、周辺の、という意味です」

高橋がなり「具体的には、どんな事なんですか?」

女「バスローブ。バスマット。ピロケース。などで。特に私は、タオル地を用いたリネン用品を売るハウスウェアショップを開店したいと思っています」

堀之内九一郎「あなたがやるようなものは、今の日本には無いのですか?」

女「確かに、海外のラルフローレンなどは、あります。しかし現状では、ニーズに合ったものはないというのが、現状です。特に私は、20代から30代の、丸の内近辺の、エグゼリーナと呼ばれるOLを対象にしたいと思っています。かつて、芦屋ジェンヌ。シロガネーゼ。セレブ。などが、流行の牽引になったように、エグゼリーナの間で広まれば、それが、主婦たちにも、飛び火して、広まってくれるのではないか、と思っています」

南原竜樹「ブランドは、決まっているんですか?」

女「ありません。日本のオリジナルでやります。ですから、プライベートブランドということになります」

堀之内九一郎「日本人は海外のブランド嗜好だから、買うのであって。はたして、売れるんでしょうかね?」

女「アメリカやフランスのタオルは、日本の気候に合わないんです。日本は、湿度が高いですし、乾きにくいですから」

高橋がなり「僕、一度、ゴルフショップ、やったことがあるんですよ。それは、かなり、いい所で、やって。でも、オリジナルでやってしまって、売れなくて。あの時、仕入れていれば、それなりに売れていたんではないか、と、今だに後悔しているんです。石川さんは、オリジナルでやる、難しさは、知っていますか?」

女「私は、四国のタオル・メーカーを見学したりして、生地。特性などを、勉強したつもりです」

南原竜樹「日本で作るとコストが高いですよね?」

女「日本のタオル・メーカーは、世界一の品質といっても過言ではないんです。去年、四国タオル工業組合が、バスカテゴリーで、NYテキスタイル賞をとりました。これは、グッドデザイン賞にも匹敵するものなんです」

貞廣一鑑「石川さん。あなたは、サファディーは、どう思いますか?」

女「サファデーは、英国のブランドで、ロマンチックで色が豊富です。しかし、NYは世界の中心で、皆、意識していると思うんです」

加藤和也「かなり、ハイソな人を対象にしているようですね」

南原竜樹「でも、それは、趣味の物ですよね。それに、高級パジャマとか、エステティックサロンとか、そういう方向に、女性が、お金を使う傾向は、間違いなく、右肩上がりになっていますよね」

南原竜樹「商品の大体の単価、を教えて下さい」

女「バスタオル一枚、2500円です」

南原竜樹「高いですね」

女「そんなに高くはないと思います。品質から言うと。ブランド物の高級タオルでは、一枚、6000円のもあります」

堀之内九一郎「サンプルとか、ないんですか?」

女「これは、まだ試作段階なんですけど・・・」

(と言って女、は、上着を脱いで、持参した、自作の、バスローブを着た。それは、バスローブに、大きなバスタオルのフードのついた物だった)

女「これは、バスローブに、バスタオルくらいの大きさのフードをつけてみたものです。こうすると、体を拭くという作業と、髪を乾かす作業が、一つで済みます。また、女の人は、濡れた髪のままで、ベッドに横になると、ベッドが濡れるのが嫌だという人が多くて、回りの女性たちに大変、好評でした」

高橋がなり「仕入れ原価は、いくらですか?」

女「2500円です。それを8000円で売りますから、30%です。」

南原竜樹「ちょっと、質問があります。あなたは、今、何をしているのですか?」

女「はい。今、この事業の準備をしています」

南原竜樹「では、ファイナンシャル・プランナーの時の、年収はいくらでしたか?」

女「はい。7万ドルです」

南原竜樹「NYで、一千万円ほどの年収があったんですね。素晴らしいですね。ちなみな、石川さんは、新聞は、何を読んでいますか?」

女「はい。日本経済新聞です」

南原竜樹「あなたは、非常に優れています。今まで出てきた志願者の中で、一番、能力があり、優秀だと思います。私は、高く評価します」

高橋がなり「アイテム一覧は、ありますか?」

(女は、店の売り上げの計画書を皆に渡した。社長たちは、みな、すぐに、それを見た)

堀之内九一郎「これを見ると、大変な利益の出る会社ですね。4期で、五億八千万円?。経常利益、三億?。これは、たいへん御無礼ですが、完全な絵空事だと思います。まあ、この計画の二割もいけば、いいところだと私は、思っています」

南原竜樹「会社を株式で、公開することは、考えていますか?」

女「はい」

堀之内九一郎「サラ金で、借りても、儲かるじゃないですか」

南原竜樹「それも、眼中に入れていると・・・」

女「はい」

南原竜樹「こういう計数計画がしっかり、出来ている。というのは、素晴らしいですね。ですから、これは完璧だと私は思います」

堀之内九一郎「ちょっと待って下さい。タオルを売って、こんなに、儲かるなら、私は、自分でやる」

南原竜樹「でも。彼女は、それで、儲かる仕組みを考えているのですから・・・」

堀之内九一郎「私は、今までに、250人くらい、創業させたことがあるんですよ。その中で、一番、失敗するタイプなんですよね。頭がいい。理屈が上手い。過去に給料が良かった。いい会社に勤めていた。計算が上手い。海外経験が長い。すべて、失敗する、要素なんですよ」

南原竜樹「それは、堀之内社長と、反対の人だから、じゃないですか?」

高橋がなり「石川さん。部下、持ったこと、ありますか?」

女「はい。ファイナンシャル・プランナーの時には、アシスタントはいました」

高橋がなり「たとえば、5人の部下、を持って、その成績の責任を、自分が取るような経験はありますか?」

女「そういうのは、ないです」

高橋がなり「この人が、部下のデキの悪い社員を教育できるか。といったら、自分が出来た、という場合、余計、難しい場合があるんですよ。あなたは、何事においても、全部、いい方ばかり、見ているんですよ。それを、雰囲気で感じるんですよ。この人、失敗するなって」

女「でも、数値の達成の方は、体張ってでも達成したいと思っています」

南原竜樹「高橋さん。論破されていますよ」

高橋がなり「いや、私。ぜんぜん論破されていないですよ。この人に何、言っても無駄だと思っているだけですよ」

貞廣一鑑「絶対、という言葉を使ったら、いけない、と云われていますが。僕、使いますよ。絶対、無理です。たとえば、一千万円、借りて事業が失敗したら、どうしますか・・・。死ねます?」

女「(小さな声で)は、はい」

貞廣一鑑「実は、私の伯父が、300万の借金で自殺したんですよ。ホントに机上の空論ですよ。商売なんて、1ポイント失敗したら、アウトですから」

南原竜樹「いや。彼女の悧巧さは、我々が思っている以上に、悧巧だと私は思っています」

堀之内九一郎「南原社長。彼女は、確かに悧巧だけれど。経営者としての悧巧さ、は無いですね」

高橋がなり「僕も、彼女は、マニュアルで覚えることは、上手いけど、未知の世界での能力は、どうかと思いますね」

堀之内九一郎「優秀なコンピューター、という感じがしますね」

高橋がなり「人をだまして、儲けたいという顔もしていない、ですし・・・」

女「確かに、頭でっかちで、現場を知らない、というのは、私の欠点だと思います。ですから、失敗するタイプにならないように、自分を変えていきたい、と思っています」

南原竜樹「こうやって、テレビに出たのは、テレビで宣伝して、番組を、うまく使おうと考えたからですか?」

女「(泣きだす)いえ。そんな気は全然、ありません。私。タオル・メーカーとか、金融機関で動くことを、考えていたほどですから・・・。本当はテレビには、出たくなかったんです」

高橋がなり「南原さん。資本を出して。って、ことは、要するに採用する、ということじゃないですか。じゃあ、南原さんが出資して、彼女にやらせてみたら、どうですか?」

南原竜樹「ええ。それは、本気で考えていますよ。事業に失敗した時、我が社に就職する気はないのか、と。優秀な人材は高い、お金を払って採用する。というのは、当たり前ですから。その採用のコストだと考えれば、十分、価値があると思っています」

高橋がなり「石川さん。もし、会社つくって、倒産させたとしたら。どうしますか。南原さんの会社の、ある部門で働いてくれって、言われたら、働きますか。それとも、あなたは、自分が経営者になることにこだわりますか?どっちですか」

女「(しばし迷ってから)就職することは、考えていません。もちろん、失敗しないように、努力しますが、仮に、失敗したとしても、私は、事業を、あきらめません。大袈裟な言い方かもしれませんが、私は、自分の人生の情熱を事業というものに、注ぎたいと思っています」

南原竜樹「でも、その答えも、素晴らしい。あなたは、私の力を借りなくても、乗り越えられる能力があると思います」

吉田栄作「では。社長たちの合計額が、あなたの希望金額に達しなかったので、今回は、ノーマネーでフィニッシュ・・・」
と言おうとした時。である。

高橋がなり、が、
「吉田さん。ちょっと待って下さい」
と言った。
「どうしたんですか?」
吉田栄作が聞き返した。
「ちょっと、考えが、変わりました。私が全額、出します」
と、高橋がなり、が言った。
皆は、目を白黒させて、高橋がなり、を、見た。
「高橋社長。一体、どうした気の変わりよう、なのですか?」
堀之内九一郎が聞いた。
もちろん、否定派の、貞廣一鑑、加藤和也、そして、唯一の肯定派の、南原竜樹も、驚きの目で、高橋がなり、を見た。
「こんな事業、絶対、失敗しますよ。それは、あなただって、認めていたではないですか?」
堀之内九一郎が、唾を飛ばしながら、勢い込んで言った。
女も、高橋がなり、の気の変わりように、目を白黒させて、動揺している。
「まあ。いいじゃないですか。ともかく、ちょっと、ある思う所があって。僕が、一千万円、全額、出します」
と、高橋がなり、が、皆をなだめるように言った。
司会の吉田栄作も、驚いて、しばし、戸惑った。
しかし、ともかく、契約が成立したので、司会の吉田栄作は、気を取り直して、
「では、あなたの、希望金額が達しましたので、契約成立です」
と言った。
女は、訳が分からない、といった顔つきで、ともかく、立ち上がって、高橋がなり、の前に行った。
「石川さん。頑張って下さい。どうか、事業を成功させて下さい」
と、高橋がなり、は、笑顔で、一千万円の札束を、女に手渡した。
女は、ともかく、
「あ、ありがとうございます。事業は、必ず、成功させます」
と、言って、一千万円の札束を、受け取って、高橋がなり、と、硬い握手をした。
皆は、高橋がなり、の気の変わりように、訳が分からないので、拍手は起こらなかった。
しかし、ともかく、女は、NYスタイルのハウスウェアショップの開店資金、一千万円を手にしたのである。
こうして、番組は終わった。
社長たちは、ゾロゾロと、帰っていった。

楽屋で、女は、高橋がなり、に、再度、礼を言った。
「高橋さん。ありがとうございます。でも、どうして、急に、出資してくれる気になったんですか?」
女が聞いた。
「まあ、いいじゃないですか。理由なんて。それより、石川さん。自信のほどは、どうですか?」
高橋がなり、が聞いた。
「もちろん。絶対の自信があります。必ず、成功させます」
女は、自信に満ちた口調で言った。
「そうですか。僕は、あなたの、その自信を買ったんです。では、出資した、一千万円は、返してくれるんですか?」
高橋がなり、が聞いた。
「ええ。もちろん、事業が軌道に乗ったら、売り上げの中から、貸していただいた、一千万円は、利息をつけて、お返しします」
と、女は、自信に満ちた口調で言った。
「いえ。利息は、要りません。その代り、貸した、一千万円は、返して頂きたい。では。一応、念のために、契約書にサインして頂けないでしょうか?」
そう言って、高橋がなり、は、紙を出した。
女は、自信満々だったので、
「わかりました」
と言って、紙切れに、
「私。石川かおり、は、高橋がなり様に一千万円、お借りいたしました。事業が、軌道に乗ったら、全額、お返しします」
と書いて、母印を押した。
「ありがとうございます。私も、あなたの事業を応援します」
高橋がなり、は、嬉しそうに女に言った。
そして、二人は、別れた。

女は、さっそく、翌日から、NYスタイルのハウスウェアショップの開店の準備にかかった。
銀座の一等地にある、ビルの一室を、不動産屋に頼んで、獲得した。
内装をNYスタイルにした。
試作段階だった、フードつきのバスローブも完成させた。
ネットでも、広告を出した。四国のタオル・メーカーに、頼んで、オリジナルの、フードつきのバスローブを大量に作ってもらった。
準備は、万端に整った。

そして、彼女は、店をオープンした。
自己資金と、高橋がなり、から貸してもらった、一千万円の資金を、すへて、店の費用に使ったので、もう、あともどりは、出来ない。
しかし、彼女は、絶対の自信があった。
彼女の計画では、一日、200人は、来店する予定だった。
そして、一日の売り上げは、300万円くらいに、なるはずだった。
確かに、オープンした日には、客の入りは良かった。
「いらっしゃいませー」
女は、愛想よく挨拶した。
客は、予想した通り、金持ちそうな女が多かった。
しかし、客は、店の中を、珍しそうに見るだけで、結局、何も買わずに出ていった。
(これは、新しい店が出来たから、興味本位で、銀座に来たついでに見ているだけだわ)
女は、それを知った。
女は、自分の作った、フードつきのバスローブは、一度、着てみれば、絶対、気に入って、買ってくれるという、絶対の自信があった。
それで、もっと、積極的に、商品をアピールするようにした。
客が来ると、「いらっしゃいませー」と、挨拶すると、同時に、すぐに、商品の説明をした。
女は、フードつきのバスローブを、自ら着て、
「こうやって、風呂から出た後に、着て、髪をふくと、ベッドに横になっても、ベッドが、濡れることは、ありません」
「ちょっと、値段は高いかもしれませんが、これは、吸湿性が良く、とても、快適です」
等々。
そして、客にも、頼んで着てもらった。
「どうですか?」
女が聞くと、客は、
「これって、ブランドは、どこですか?サファデー?それとも、ラルフローレン?」
と、聞き返してきた。
女は、返答に窮したが、自信を持って、
「ブランドはありません。でも、とても、着心地はいいです」
と、懸命に説得した。
しかし、客は、不機嫌な顔をして、
「ブランド物じゃないんじゃね」
とか、
「実用的には、いいかもしれないけれど、こんな、大きなフード、がついていたら、格好が悪いわ。彼氏も見ているし」
とか、
「無料で試して着てみるなら、いいけれど、8000円も出してまで、買う気にはならないわ」
とか、みな、否定的な返事ばかりで、買う客はいなかった。
女は、あせった。
(こんなはずでは、なかったはずなのに。なぜ売れないのかしら)
宣伝が足りないからだわ。
そう思って、女は、多くの、女性週刊誌に、大金を払って、広告を載せてもらった。
しかし、客はやって来ない。
やって来ても、買わない。
女は、あせった。
二ヶ月過ぎ、三ヶ月過ぎても、全く、売れなかった。
かろうじて、中学、高校の同級生や、親戚に知らせたら、友達や、親族のよしみで、買ってくれたが、一般の客は買ってくれなかった。
女は、あせった。
そして、ふと、あることを、思い出した。
それは、ファイナンシャル・プランナー時に、アシスタントの、筒井順子が、女が、作った、フードつきのバスローブを、「グッド・アイデア」と、満面の笑顔で、誉めてくれたことである。
その誉め言葉が嬉しくて、女は、NYスタイルのハウスウェアショップを日本で開店させようと、決断したのである。
それで、女は、アメリカの、筒井順子に電話してみた。
電話をすると、すぐに、元アシスタントだった、筒井順子が電話に出た。
「順子。あなた、私のフードつきのバスローブ、とっても良いって言ってくれたわよね」
「ええ」
「でも、売れないの。どうしてかしら?」
「石川さん。正直に言うわ。私。本心では、あれ。ダサいと思っていたの。でも、それを、言うと、あなたが傷つくから、本心は言えなくって。良いって言ったの」
「ええっ。そうなの?」
「ええ。まさか、本当に、あれで事業をするなんて、思ってもいなかったの。ごめんなさい」
そう言って、筒井順子が電話を切った。
女の頭は、真っ白になった。
アシスタントの褒め言葉は、本当だと、女は信じていたからである。
女は、がっくり、と、肩を落とした。
その時、女に、また、ふと一人の人物が頭に浮かんだ。
「マネーの虎」の番組の時、彼女を徹底的に、コケにした、堀之内九一郎、貞廣一鑑、加藤和也、高橋がなり、に対し、一人だけ、自分を認めてくれた、南原竜樹の存在である。
女は、藁にもすがる思いで、南原竜樹の意見を聞いてみようと、電話してみた。
そうしたら、南原竜樹は、こう言った。
「石川さん。僕は、あなたのNYでの、経歴を聞いて、あなたを敬愛するようになってしまったのです。僕には、あなたのような、素晴らしい経歴がないものですから。それで、皆が、あまりにも、あなたを、ひどく言うものだから、つい、せめて、僕一人くらい、あなたを、認めてあげたいと思ってしまったんです。本心を言うと、事業は、僕も成功するとは思っていませんでした」
女は、頭をハンマーで殴られたような気になった。
ここに至って、女は、やっと、自分の事業が失敗だったことに気がついた。
なんせ、三ヶ月、必死に、売り込みしても、買ってくれる客は一人もいなかったからである。
堀之内九一郎、や、貞廣一鑑の、「絵空事」だの「机上の空論」だのの言葉が、ただでさえ、焦っている彼女の頭をよぎっていった。
ついに、彼女は、店を閉じる決断をした。

彼女は、店を閉じた。
売れないことは、もう、確実なのだ。
ならば、銀座の一等地のビルなどという、目玉が飛び出るほどの、テナント料は、即刻、中止した方がいい。
しかも、資金を全て、使ってしまった上、多くの、女性週刊誌に、大金を払って、広告を載せてしまったのである。
彼女には、一文無しになり、銀行に、必死で、お願いして融資してもらった、多くの女性週刊誌への広告料の、債務だけが残った。

しかし、彼女に一つの疑問が残った。
なぜ、「マネーの虎」の、番組中では、否定的だった、高橋がなり、が、最後に、突然、態度を変え、出資したのか、ということである。
これは、どう考えても、わからなかった。

都内のマンションに住んでいた彼女は、埼玉県の、家賃3万円の、安アパートに引っ越した。
彼女は、高橋がなり、に、おびえていた。
大見栄をきって、自信満々なことを言ってしまったからだ。
そして、それが失敗してしまったからだ。
失意で無為の日が続いた。
彼女の、毎日の、食事は、コンビニで、値段の割に、カロリーのあるものになっていた。
一日の食費は、500円、以内に抑えた。
彼女は、高橋がなり、に、おそれると、同時に、彼に会ってみたいという気持ちも、起こってきた。
理由は、全くわからないが、高橋がなり、は、彼女に、一千万円、投資してくれたのである。
しかも、笑顔で、「頑張って下さい」と言って、握手まで、してくれたのである。

無為の日を続けていても仕方がない。
彼女は、勇気を出して、高橋がなり、に、電話してみた。
トルルルルッ。
「はい。高橋がなり、です」
高橋がなり、が電話に出た。
「あ、あの。い、石川です。マネーの虎で、NYスタイルのハウスウェアショップの開店資金、一千万円を、出資していただいた・・・」
女は、高橋がなり、が、どう出るか、わからず、おそるおそる聞いた。
「やあ。石川さんですか。久しぶりですね。店は繁盛していますか?」
高橋がなり、が聞いた。
「あ、あの。誠に申し訳なく、言いにくいのですが、事業は、失敗してしまいました」
彼女は、勇気を出して言った。
「ええ。それは、知っています。この前、銀座に行った時、あなたの店が閉店して、テナント募集、の広告が貼ってありましたから」
高橋がなり、の、口調は、落ち着いていた。
そのことに、彼女は、ちょっと安心した。
「今、何をしているんですか?」
高橋がなり、が聞いた。
「埼玉県の、安アパートに引っ越して、これから、どうしようかと、迷っています」
女が言った。
「そうですか。もし、よろしかったら、一度、お会いしませんか?」
高橋がなり、が、聞いた。
「は、はい」
「明日で、よろしいですか?」
「は、はい」
女は、これから、どうしようかと、毎日、悩んでいる日々なので、都合などなかった。
ともかく、早く会いたかった。
「では場所は、私の会社の事務所で構いませんか?」
「は、はい。では、明日、お伺い致します」
そう言って、彼女は電話を切った。

翌日になった。
彼女は、久しぶりに、スーツを着た。
そして、JR高崎線に乗って、東京へ出た。
そして、高橋がなり、の会社である、ソフト・オン・デマンドに行った。
ソフト・オン・デマンドは、東京都中野区本町に、あった。

女は、「社長と今日、お会いすることになっています」と言った。
それで、通された。
社員たちが、忙しく、立ち働いている。
女は、社長室に通された。
「やあ。石川さん。久しぶり」
高橋がなり、は、女を見ると、笑顔で挨拶した。
「も、申し訳ありません。高橋さま。期待を裏切ってしまって」
女は、土下座して、頭を深く下げて謝った。
「いえ。いいんです。事業は、カケですから」
がなり、の口調は、冷静だった。
高橋がなり、も、二回ほど、事業に失敗しているので、こういう場合も自分が、経験しているので、冷静なのだろう。
「実は、僕は、あなたの事業は、必ず失敗すると、確信していたんです」
と、高橋がなり、が言った。
「で、では。どうして、出資して下さったんですか?」
女は、びっくりして、聞き返した。
「まあ。いいじゃないですか。それより、貸したお金は、返して頂けるんでしょうか?」
高橋がなり、が、聞いた。
「申し訳ありません。私は、今、銀行の、取り立てに追われていて、逃げているような状況なのです。とてもじゃないですが、今、お支払いすることは、出来ません」
女は、冷や汗を流しながら言った。
「しかし、お金を返す約束は、したじゃないですか?」
高橋がなり、の口調が、少し、ビジネスライクに、冷たくなった。
「も、申し訳ありません。そう言われましても・・・」
女は、それ以上、何も言えなかった。
「じゃあ、ある、お金を稼ぐ方法が、あります。それは、あなたにしか、出来ません。どうですか。やりますか。もし、やる、というのなら、貸した、一千万円は、チャラにしてあげます。さらに、もしかすると、あなたも、かなりの収入を得られるかもしれません。僕は、それを、あなたに、ぜひ、お願いしたいんです」
高橋がなり、が、突然、そんなことを言い出した。
「一体、何なんでしょうか。その、私にしか出来ない、お金を稼ぐ方法というのは?」
女は、がなりの考えていることが、さっぱり、わからなかった。
「あなたは、僕のしているアダルトビデオ会社を、どう思いますか?」
高橋がなり、が、聞いた。
「それは、もちろん、アダルトビデオ会社も、立派な、事業だと、思います。詳しくは知りませんが、アダルトビデオ業界も、競争が激しくて、たいへんだ、ということは、聞いています」
女が答えた。
「そうなんですよ。我が社、ソフト・オン・デマンドも、今一つ、ヒット作が出なくて、経営が苦しい状態なんです」
高橋がなり、が、言った。
「そうなんですか」
「それで。単刀直入に言いますが。私の、お願いとは、あなたに、AV女優を演じてもらいたい、ということなんですよ。一作品で、構いません。どうですか。やって頂けるのなら、一千万円は、チャラにしてあげます。あなたのギャラも、はずみますよ」
と、高橋がなり、は、言った。
女は、さすがに顔を真っ赤にした。
「で、ても。私。女優なんて、したこと、一度もありませんし。それに、私。そんなに、綺麗でも、ないし・・・」
女は、突然の、がなり、の申し出に、動揺した。
もちろん、いきなり、そんなことを、言われれば、女なら、誰だって動揺する。
「ははは。AV女優なんて、みんな、たいして演技など、上手くありませんよ。それと、あなたは、謙遜しているけれど、とても、綺麗ですよ。それと、セリフも、覚える必要もありません。あなたが思っていることを、そのまま、言ったり、やったり、してくれれば、それで、いいのです。下手に、お芝居するより、地、でやった方が、素人っぽかったり、リアル感が出で、いい、ヒット作が出来ることも、多いのです。そこは、私は、この仕事のプロですから、そこらへんの事情は、よく知っています」
と、高橋がなり、は、余裕の口調で言った。
しばし、女は、ためらっていた。
人前で、裸になったことなど、一度も無く、そんなことは、とても恥ずかしくて、出来にくく、しかも、いきなり、そんなことを、言われて、女は、激しく、動揺し、困惑していた。
しかし、たった一作だけで、借りた、一千万円を、チャラにしてもらえるのなら、こんな簡単で、いい話はない。
しばし、迷ったあげく、女は、
「わかりました。やります」
と、顔を赤くして、答えた。
それしか、一千万円を返済する方法が無かった。からだ。
しかし、自分のような、素人で、しかも、顔も、普通ていどの女なのに、その一作が、ヒットするとは、とても思えなかった。
「ありがとうごさいます。では、早速、始めましょう。このビルの地下で、撮影します」
高橋がなり、は、そう言って、立ち上がった。
女も立ち上がった。
高橋がなり、のあとについて、女は、地下室に降りていった。

(2)

地下室は、電気が点いてなく、真っ暗だった。
高橋がなり、が、部屋の明かりのスイッチを、押すと、パッと、一気に、部屋は明るくなった。
「ああっ」
女は、思わず、悲鳴をあげた。
なぜなら、部屋には、椅子が、横一列に並んでおり、それに、堀之内九一郎、貞廣一鑑、加藤和也、が、座っていたからである。
「やあ。石川さん。久しぶり」
と、堀之内九一郎が、ニヒルな、そして、意地悪な顔つきで、挨拶した。
女は、戸惑った。
一体、どういうことなのか、さっぱり、わからなかったからである。
地下室には、カメラを持ったカメラマンもいて、撮影の用意は、整っている様子だった。
「高橋さん。これは、一体、どういうことなんですか?」
女が聞いた。
「ふふふ。私が電話したんですよ。あなたが、主役のAV作品を、作るから、出演しませんかって。皆、二つ返事で、出演を引き受けてくれたんです」
と、高橋がなり、が、説明した。
「ひどいわ。高橋さん。ただでさえ、みじめなのに、こんな、落ちぶれた女を、見せ物にしようなんて」
女は、高橋がなり、の袖を引っ張って言った。
「石川さん。あなたは、全然、わかっていませんね。単なる、ありきたりの、AV作品を、作っても、売れません。あなたが、マネーの虎、に出演した時から、もうすでに、ストーリーは、始まっているんです。この作品は、作り物ではなく、実話だからこそ、売れる、と私は確信したんです。もちろん、マネーの虎、の、映像も、作品の一部として使います」
と、高橋がなり、が言った。
「で、でも。あんまりですわ」
女は、今にも泣き出しそうだった。
「石川さん。僕は、ソフト・オン・デマンドで、成功するまで、会社を二つ、潰してしまいました。しかし、それが、いい勉強になったのです。人間は、一度、徹底的に、落ち切った方が、その後、強くなれるんです」
そう、高橋がなり、が説諭した。
「もう、作品のタイトルも、決まっているんです。「美人女社長。借金まみれ。地獄落ち」というタイトルです」
と、高橋がなり、が言った。
「ひ、ひどいわ」
女は、今にも泣き出しそうだった。
「さあ。石川さん。着ている物を、全部、脱いで下さい」
と、高橋がなり、が言った。
女は、佇立したまま、石膏のように、体か、ガチガチに固まってしまった。
無理もない。
かつて、「マネーの虎」で、自分の事業計画を、ボロボロに、言われた、社長たちが、目の前にいるのである。
しかし、彼女は、番組に出た時には、どんなに、貶されても、絶対、事業を成功させる自信をもっていた。
なにせ、念には念を入れて、徹底的に、調べ上げたからである。
それを、ボロボロに否定した、社長たちを、事業を成功させて、見返してやる、という気持ちが、負けず嫌いの彼女には、強くあったのである。
しかし、結果は、社長たちの言った通りの、大失敗におわったのである。
顔を合わせることさえ、恥ずかしいのに、社長たちの前で、裸になることなど、屈辱の極致だった。
そんな感情が、彼女の、頭を、グルグル駆け巡って、彼女は、立ち往生してしまったのである。
現に、今、脱がないまでも、社長たちに、見られていることに、死にたいほどの、屈辱と、みじめさ、を、彼女は、感じていた。
「さあ。石川さん。着ている物を、全部、脱いで下さい」
迷って、佇立している女に、高橋がなり、が、声をかけた。
しかし、彼女は、どうしても、服をぬぐことは出来なかった。
「石川さん。やっぱり、やりたくない、というのなら、それでもいいですよ。その代り、一千万円は、必ず、払って下さいよ」
高橋がなり、が言った。
彼女は、はっと、目を覚まされた思いがした。
社長たちの前で、裸になるのは、死にたいほど恥ずかしいが、一千万円を、返すには、それしか、方法が無いのだ。
「わ、わかりました」
そう言って、彼女は、灰色の、上下そろいの、スーツを脱ぎ出した。
ジャケットを脱ぎ、そして、スカートも、脱いだ。
そして、ブラウスも脱いだ。
彼女は、ブラジャーと、パンティーだけ、という格好になった。
しかし、それ以上は、どうしても、脱ぐことが出来なかった。
「ほー。石川さん。番組に出ていた時より、かなり、スレンダーになりましたね」
堀之内九一郎が、嫌味っぽい口調で言った。
それは、そうである。
店を閉めてから、彼女の食費は、一日、500円、以下におさえてきたのだから。
いやらしい目で、見られている、という実感が、瞬時に、刺すように彼女を襲い、彼女の顔は、羞恥心で、真っ赤になった。
彼女は、少しでも、体を隠そうと、胸と股間の辺りに、手を当てた。
一千万円を、返すためには、身につけている、ブラジャーと、パンティーも、脱がなくては、ならないとは、わかっているのだが、どうしても、それが出来なかった。
そもそも、社長たちは、大学も出ていない、成り上がり者ばかりだが、自分は、アメリカの大学を優秀な成績で出て、アメリカで、ファイナンシャル・プランナーとして、7万ドルの年収があった、エリートだというプライドが、彼女の心には、番組に出た時から、根強くあった。
自分ほど、頭が良く、能力のある人間はいない、と彼女は、自信をもっていた。
それなら、会社の一社員として、給料をもらっているより、自分が、事業者となって、もっと、自分の能力をフルに発揮して、大きな仕事をしたいと思うようになったのである。
そのプライドを、彼女は今でも、もっているのである。
佇立したままの彼女を見かねて、
「仕方がないですね。それじゃあ・・・」
と、高橋がなり、が言って、胸ポケットから、携帯電話を取り出した。
「もしもし。AV男優を、二人ほど、地下室に来させて」
と、高橋がなり、が言った。
すぐに、二人の、AV男優が、地下室にやって来た。
いかにも、スケベそうな顔つきである。
「彼女は、恥ずかしくて、どうしても、脱げないんだ。仕方がないから、お前達が、脱がせてやれ」
高橋がなり、が、そう、二人のAV男優に言った。
「へへへ。わかりました」
二人のAV男優は、舌舐めずりしながら、女に近づいて、獣のように、サッと、彼女に襲いかかった。
一人が、彼女の背後から、羽交い絞めにした。
そして、もう一人が、彼女の前に立って、女の、ブラジャーのフロント・ホックを外した。
ブラジャーに覆われていた、大きな乳房が弾け出た。
「や、やめてー」
彼女は、悲鳴をあげた。
しかし、前の男は、聞く耳など、持とうとする様子など、全く無く、女の、パンティーの、ゴム縁を、つかむと、サッと、パンティーを引き下げてしまった。
そして、パンティーを足から抜きとった。
これで、女は、一糸まとわぬ、丸裸にされてしまった。
二人のAV男優は、彼女の手首を、重ねて、縛ると、その縄尻を、天上の梁にひっかけた。
そして、その縄尻を、グイグイ引っ張っていった。
それにつれて、どんどん、女の手首は、頭の上に引っ張られていき、女は、梁から、吊るされる格好になった。
女の、全裸姿が丸見えとなった。
「ああー」
女は、激しい羞恥で、叫び声を上げた。
無理もない。
テレビでは、社長たちに、どんなに、コケにされても、事業を成功させる自信を持っていて、その自信の発言を貫き通したのに、その事業が、物の見事に失敗した上、に、その社長たちの前で、丸裸を晒しているのである。
女にとっては、いっそ、死んでしまいたいほどの、屈辱だった。
「どうですか。石川さん。今の気持ちは?」
高橋がなり、が聞いた。
「みじめです。恥ずかしいです。いっそ、死んでしまいたいほど」
女は、嗚咽しながら、言った。
「社長。これから、どうしますか?」
AV男優が聞いた。
「それじゃあ。まず、鞭打ってやれ。手加減は、いらないぞ。思い切りやれ」
高橋がなり、が言った。
「わかりました」
AV男優は、ニヤリと、笑って、彼女の、後ろに立ち、ムチを構えた。
そして、思い切り、ムチを振り下ろした。
ビシーン。
ムチが女の、ムッチリした、豊満な尻に命中した。
「ああー」
女は、苦しげな顔で、悲鳴をあげた。
全身が、プルプル震えている。
「もっと、続けろ」
高橋がなり、が冷たい口調で言った。
AV男優は、ニヤリと、笑って、女の、尻や、背中、太腿、などを、力の限り、続けざまに鞭打った。
ビシーン。
ビシーン。
ビシーン。
大きな炸裂音が、地下室に鳴り響いた。
「ああー。ひいー。痛いー」
女は、髪を振り乱し、泣きながら、叫び続けた。
体を激しく、くねらせながら。
女は、さかんに、モジモジと、足を交互に、踏んだ。
それは、耐えられない苦痛を受けている人が、無意識のうちに、とってしまう、やりきれなさ、から何とか逃げようとする、苦し紛れの、無意味な、動作だった。
その動作の激しさ、からして、女の、受けている苦痛の程度が、察された。
「よし。ちょっと、鞭打ちを、やめろ」
高橋がなり、が言った。
言われて、AV男優は、鞭打ちを止めた。
「石川さん。どうですか。今の気持ちは?」
高橋がなり、が聞いた。
「も、もう、許して下さい」
女は、美しい黒目がちの瞳から、涙をポロポロ流しながら言った。
もう、女には、元、ファイナンシャル・プランナー、のエリート社員のプライドなど、無かった。
ただただ、この、地獄の、鞭打ちの、苦痛から、解放されたい、という思いだけが、女の心を占めていた。
「よし。じゃあ。彼女も、立ちっぱなしで、疲れただろうから、縄を緩めてやれ」
そう、高橋がなり、が言った。
AV男優は、女を吊るしている、縄尻を緩めた。
ピンと張って、女を吊るしていた、縄が、緩んでいった。
それにともなって、女は、力尽きたように、クナクナと、地下室の床に座り込んだ。
座った位置で、女の、手首が、頭の上に残されている程度で、AV男優は、縄を固定した。
女は、シクシク泣きながら、横座りしている。
高橋がなり、は、女の手首の縛めを解いた。
女は自由になったが、もう抵抗しようとする気力は無かった。
「石川さん。あなたは、もう、全てのプライドを捨て切れたでしょう?」
高橋がなり、が聞いた。
「はい」
女は、シクシク泣きながら、言った。
「人間、落ちきる所まで、落ちきった方が、成長するんです。僕も、会社を二つ、潰したことが、たいへん貴重な経験となり、今の事業で成功したんです。堀之内九一郎さんも、30回も、事業に失敗して、ホームレスにまで、なったために、その経験のおかげで、今の事業で成功しているんです」
と、高橋がなり、が言った。
「はい」
と、女は素直に返事した。
「あなたは、もう、人間ではなく、メス犬になりなさい」
そう言って、高橋がなり、は、彼女の首に、犬の首輪を、つけた。
首輪には、ロープが、ついていた。
彼女は、精神も肉体も、力尽きていて、逃げようとも、抵抗しようとも、しなかった。
「さあ。あなたは、メス犬です。四つん這いになって、この部屋の中を、壁に沿って、這いなさい」
と、高橋がなり、が、言って、首輪についている、ロープをグイと、引っ張った。
女は、シクシク泣きながら、四つん這いになって、犬のように、地下室の中を、壁に沿って、のそり、のそり、と、這って歩き出した。
高橋がなり、は、ニヒルな笑いを、浮かべながら、丸裸で這って歩いている女の首輪についている、ロープを握りながら、女と共に、歩いた。
それは、まさしく、犬の散歩のように見えた。
しかし、それは、あまりにも、美しすぎた。
ムッチリ閉じ合わさった大きな尻は、歩くにつれ、左右に揺れた。
豊満な二つの、乳房は、熟れた果実のように、仲良く、並んで、実った果実の重さによって、下垂したまま、歩くにつれて、小さく揺れた。
美しい、長い黒髪は、自然に垂れて、髪の先は床に触れた。
地下室の、角に来た時。
「さあ。犬は、自分の、なわばり、の印をつけるために、散歩の時には、オシッコをします。あなたも、犬のように、片足を上げて、オシッコをしなさい」
そう、高橋がなり、が、命じた。
「は、はい」
女は、高橋に命じられたように、犬のように、四つん這いのまま、片足を上げた。
それは、この上ない、みじめな、姿だった。
しばしして。
シャー、と、女の陰部から、小水が、勢いよく放出された。
それは、まさに、犬の放尿の姿であった。
小水を、全部、出し切ると、女は、上げていた片足をもどして、四つん這いになり、また、高橋がなり、に、ロープをとられたまま、四つん這いで、壁に沿って、歩き出した。
地下室を一周すると、そこには、何かの物が入った、小皿が置いてあった。
「ふふふ。石川さん。これは、ドッグフードです。さあ、食べなさい」
高橋がなり、が、言った。
「は、はい」
女は、四つん這いのまま、シクシクと、泣きながら、皿に顔を入れて、ドッグフードの塊を、一粒づつ咥えて、食べた。
「石川さん。どうですか。今の気持ちは?」
高橋がなり、が、聞いた。
「み、みじめです。いっそ、死んでしまいたいほど」
女は、シクシク泣きながら、言った。
「では、社員たちのうちで、彼女に何か、したい人はいますか?」
高橋がなり、が聞いた。
「では、私が・・・」
そう言って、堀之内九一郎が、椅子から立ち上がって、ツカツカと女の前に来た。
「石川さん。やっぱり、私の言った通り、あなたの事業計画は、絵空事だったでしょう」
堀之内九一郎が、言った。
「はい。そうでした」
女は、素直に返事した。
「あなたは、せっかく、我々のような、事業の経験がある人間が、経験から、親身になって、アドバイスしたのに、あなたは、それに、全く聞く耳をもとうとしなかった。あなたは、性格が傲慢なのです。それが、事業が失敗した、原因の一つです。あなたが、聞く耳をもっていれば、こんなことには、ならなかったのですよ」
毎回、金は出さないが、やたら説教して、偉がってばかりいる、堀之内九一郎が、言った。
「はい。おっしゃる通りです」
女には、もう、プライドも、羞恥心も無くなっていた。
「では、私のアドバイスを聞かなかった罰として、私のマラをなめなさい」
そう言って、堀之内九一郎は、ズボンを降ろし、パンツも脱いだ。
そして、露出した、マラを、女の顔に突き出した。
「さあ。しゃぶりなさい」
言われて、女は、堀之内九一郎のマラを口に含んだ。
女は、もう、自暴自棄になっていて、激しい自己嫌悪から、一心に、堀之内九一郎のマラを、貪るように、しゃぶった。
だんだん、堀之内九一郎のマラが、怒張しだし、クチャクチャと音をたて始めた。
堀之内九一郎は、うっ、と、顔を歪め、
「ああー。出るー」
と叫んだ。
堀之内九一郎のマラの先から、精液が、ドクドクと放出された。
女は、それを、咽喉をゴクゴク鳴らしながら、全部、飲み込んだ。
「はあ。気持ちが良かった」
堀之内九一郎は、満足げに言った。
堀之内九一郎は、学歴も無く、30回も事業を起こして失敗し、ホームレスになったほどなので、彼女のような、インテリの、エリートには、激しい劣等感を持っているのである。

「貞廣さんは、彼女に何かしますか?」
高橋がなり、が聞いた。
貞廣一鑑は、手を振った。
「いえ。僕は、いいです。彼女も、本心から、自分の、非を認めていますから」
そう、貞廣一鑑は、言った。
「では、加藤和也さんは、彼女に何かしますか?」
高橋がなり、が聞いた。
「オレ。もう、イイっすよ。そんなに、発言していないし・・・オレ、そろそろ帰ります」
美空ひばりの息子で、ひばりプロダクションの社長の、加藤和也は、そう言って、椅子から、立ち上がろうとした。
「いや。加藤さん。あなたも、否定派だったじゃないですか。あの番組の時、否定した社長が、そろっている、ということが、大切なんですよ」
と、言って、高橋がなり、が、とどめた。
加藤和也は、
「そうですか」
と言って、椅子に腰を降ろした。

高橋がなり、は、自分の、腕時計を見た。
時計の針は、夜の9時を指していた。
地下室には、大きな、檻があった。
「彼女を檻に入れろ」
高橋がなり、が言った。
「はい。社長」
AV男優は、彼女の腕をつかんで、立ち上がらせた。
「さあ。歩け」
二人のAV男優は、彼女の、二の腕を、つかんで、檻の方へ、彼女を連れて行った。
「な、何をするのですか?」
女は、不安から聞いた。
「しれたことよ。お前を、檻の中に、入れて、飼うんだ」
AV男優が言った。
女は、真っ青になった。
「嫌―。やめてー。そんなことー」
女は、叫んだが、両側から、力のある男に、腕を、つかまれているので、抵抗することが出来なかった。
一人の男が、檻を開けると、もう一人の男が、ドンと女の背中を押して、女を檻の中に入れた。
「出して。お願い。ここから、出して」
女は、鉄柵を揺すって、訴えた。
しかし、二人のAV男優は、ニヤニヤ笑っているだけである。
「高橋さん。いつ、出してくれるんですか?」
女は、高橋がなり、に、視線を向けて、聞いた。
「ふふふ。さあ。それは、わかりません。まあ、あなたのアダルトビデオによって、一千万円の儲けが出るまでですね」
高橋がなり、は、薄ら笑いを浮かべて言った。
女は、いつ、この檻から、出してもらえるのか、わからない恐怖におののいた。
もしかすると、永久に、この檻の中に、入れられたままになるのではないか、という不安が、激しく、女を襲った。
「出して。お願い。ここから、出して」
女は、鉄柵を激しく、揺すって、訴えた。
「石川さん。あなたは、事業に失敗したら、死ねますか、と、私が、聞いたのに対して、あなたは、はい、と答えたじゃないですか。あれは、ウソだったんですか?」
と、貞廣一鑑が言った。
女は、答えられず、うわーん、うわーん、と泣き出した。
その時。
ガチャリと、地下室の戸が開いた。
「やあ」
と言って、豚骨ラーメン会社の、川原ひろし、が入ってきた。
「やあ。川原さん」
と、高橋がなり、が、挨拶した。
川原は、豚骨ラーメン、なんでんかんでん、の社長である。
しかし、南原竜樹は、彼を、ラーメン屋、と呼んで、バカにしていた。
南原は、川原を、事業者、社長とは、見なしていなかった、のである。
川原は、出前用の倹飩箱を持っていた。
川原は、檻の前に来ると、倹飩箱を開けた。
その中には、豚骨ラーメン、が、入っていた。
それは、温かそうな湯気を出していた。
「さあ。腹が減ったでしょう。うまい豚骨ラーメンですよ。食べなさい」
そう言って、川原やすし、は、豚骨ラーメン、を、檻の中に入れた。
女は、どういう意図なのか、わからなくて、高橋がなり、を見た。
もしかすると、豚骨ラーメン、の中に、青酸カリが入っているのではないか、という猜疑心まで、起こっていたのである。
「ははは。石川さん。毒など、入っていませんよ。あなたは、我が社の、大切な、AV女優なのですから。さあ。食べなさい」
と、高橋がなり、が、女の心配を先回りして、安心させるよう、言った。
女は、高橋がなり、の言葉を信じた。
すると、途端に、腹が減ってきて、女は、貪るように、豚骨ラーメン、を、食べ出した。
無理もない。
女は、ハウスウェアショップを閉じてから、毎日、食事代は、500円以下で、生活してきたのである。
裸で、檻の中、という状況ではあったが、豚骨ラーメン、は、この上なく、うまかった。
「石川さん。僕は、あなたが、出演した時には、出席しませんでしたが、テレビで観ていましたよ。あなたの事業は、絶対、失敗すると、確信していましたよ。南原竜樹は、いつも、私を、ラーメン屋、と呼んで、バカにしていましたが、あの男の予想は、見事に外れましたね。私は、それが、痛快でならないのです。敵の敵は、味方ですから、高橋さんに、来ないか、と、呼ばれた時、二つ返事で、行く、と言ったのです」
と、川原やすし、は、言った。
「さあ。皆さん。もう、今日は、遅いですから、お帰り下さい」
高橋がなり、が言った。
「彼女は、これから、どうするのですか?」
川原やすし、が、聞いた。
「さあ。まだ。決まっていません。ともかく、しばらくは、檻の中で、過ごすことになるでしょうね。一千万円、我が社が儲かるまで・・・」
と、高橋がなり、が言った。
「それでは、帰るとするか」
と、堀之内九一郎が言って、立ち上がった。
貞廣一鑑、加藤和也、そして、高橋がなり、も、立ち上がって、地下室を出ていった。
撮影していたカメラマンも、地下室を出ていった。

一人になると、今度は、耐えられない、孤独と、寂寞感が、襲ってきて、彼女は、わーん、と、号泣した。

かなりの時間が経過した、ように女には感じられた。
女は、激しい不安に駆られた。
せめて時計があけば、今、いつで、何時が、わかって、少しは安心できるが、ガランとした地下室には、何も無く、その空虚さが、女を、余計、不安にさせた。
明日は、一体、どんな責めをされるのかと、思うと、女は、耐えきれなくなって、泣いた。
一体、いつまで、この地下室に、入れられ続けられるのだろう。
せめて、それを、言ってくれれば、かえって、安心できるのだが、何をされるか、わからない、というのは、気の小さい、人間の不安を余計、あおって、不安をかきたててしまう。
未知の不安というものは、人間に、最悪な妄想をかきたててしまう。
女は、チラッと壁を見た。
すると。壁にある三つの点が、人間の目と口に見えてきて、それが、やがて、人間の顔に、そして、さらに、悪魔の顔に見えてきて、女は、怖くなって、壁を見ることも出来なくなってしまった。
女の脳裡に、ニューヨークで、ファイナンシャル・プランナーとして、バリバリ働いていた、充実した日々が思い出されてきた。
アシスタントに命令し、テキパキ仕事をこなしていた、自分が思い出された。
そして、日本で、NYスタイルの、ハウスウェアショップを展開して、バリバリ稼ぐ、女社長を、想像の内に、夢見ていた、幸福だった頃の自分も、思い出されてきた。
それが、現実には、事業に完全に失敗し、丸裸で、檻の中に入れられている自分を思うと、女は、天国から地獄へ落ちてしまった、その落差に、泣いた。

かなりの時間が経過した。
その時である。

ギイー、っと、静かに、地下室の戸が開いた。
南原竜樹が、立っていた。
女は、びっくりした。
丸裸を見られる恥ずかしさ、より、南原が、はたして、他の社長と同じように、高橋がなり、に頼まれて来たのか、それとも、そうではないのか、ということが、今の、彼女の最大の、関心事だった。
南原竜樹は、檻の前にやって来た。
「南原さん。どうして、ここに来たんですか?」
女は、南原竜樹に聞いた。
南原竜樹は、話し出した。
「石川さん。あなたが、銀座に、ハウスウェアショップを出したことは、当然、知っていました。その後の動向も。しかし、店は、儲からず、閉店してしまいましたよね。僕は、高橋がなり、が、突然、気が変わりして、あなたに、投資する、と言った、理由が、番組の時には、どうしても、わからなかったんです。僕は、その理由を考え続けました。しかし、どうしても、その理由が、わからなかったんです。しかし、堀之内九一郎、や、川原ひろし、が、さっき、私に、電話してきたんです。南原さん。あなたの判断は、見事に、間違いましたね。と、言ってきたんです。思わせ振りに、得意そうに。それで、もしかすると、こういうことになっているのでは、ないのか、と、思ったんです。案の定でしたね。僕は、忍んで来たので、高橋がなり、や、他の社長たちに、見つかると、やっかいです。さあ。逃げましょう」
と、南原竜樹は言った。
「ああ。南原さん。あなたは、私の救い主です。私の命の恩人です。何と、お礼を言ったらいいのか、わかりません。一体、いつまで、ここに、閉じ込められるのか、わかりません。もしかすると、死ぬまで、閉じ込められるのかもしれないと思うと、こわくて、こわくて。さらには、アダルトビデオを撮った後に殺されてしまうのではないかとも思えてきて。発狂する寸前でした」
女は、号泣しながら、言った。
「では、すぐに、逃げましょう。今、夜中の3時です。ここの会社には、今、誰もいません」
と、南原竜樹は言った。
「でも、檻には鍵がかかっています」
女が言った。
「社長の机の引き出し、の中に、キーホルダーがあって、いくつもの、鍵が、まとまって、いるのを、見つけました。まず、この中に、この檻の鍵も、あるはずです」
そう言って、南原竜樹は、鍵が、5つほど、ついている、キーホルダーを出した。
「この檻の鍵は、たぶん、これでしょう」
南原竜樹は、そう言って、鍵穴に、小さめの鍵を差し込んだ。
そして、鍵を回した。
ガチャリ。
鍵が開いた。
南原竜樹は、檻の戸を開けた。
「ああ。南原さん。あなたは、命の恩人です」
女は、檻の中から、出てくるなり、号泣して言った。
「・・・話は、あとにして、ともかく、はやく逃げましょう。この会社の外に、僕の車がとめてあります」
南原竜樹が言った。
「はい」
女は、素直に返事した。
地下室の隅には、女の着ていた、下着や、スーツが、散らかっていた。
女は、パンティーを履き、ブラジャーを、つけた。
そして、灰色の、スーツの上下を着た。
「さあ。ここを出ましょう」
「はい」
二人は、地下室を出た。
そして、ソフト・オン・デマンドの事務所も出た。
外には、南原竜樹の、BMWが置いてあった。
南原は、助手席を開け、彼女を乗せ、自分は、運転席についた。
南原は、エンジンを駆けた。
車は、勢いよく、走り出した。

時刻は、夜中の3時で、外は、真っ暗である。
24時間、営業の、コンビニや、ファミリーレストランだけが、その中で、ひっそりと、明かりを灯していた。
南原は、すぐに首都高速の入り口に入り、首都高速を、飛ばした。
車好きだけあって、南原の運転は、女に、格好良く、見えた。
しかも、自分を救出してくれたのである。
女には、南原竜樹が、とても、格好のいい、頼もしい、男に見えた。
女は、助手席で、うっとりしていた。
「石川さん。とりあえず、僕のマンションへ、行く、ということで、よろしいでしょうか?」
南原竜樹が聞いた。
「はい」
女は、うっとりした、表情で言った。
「あ、あの。南原さん」
「はい。何ですか?」
「あ、あの。肩に、頭を乗せても、よろしいでしょうか?」
女が聞いた。
「どうぞ」
南原竜樹が答えた。
女は、運転している南原の、肩に、頭を乗せた。
女は、何だか、南原と、ドライブしているような、ロマンチックな気分になった。
(ああ。南原さん)
と、女は、心の中で、呟いた。
やがて、車は、首都高速の出口から出た。
そして、六本木の高層マンションの、地下パーキング場に入った。
南原は、駐車場に車をとめた。
「さあ。石川さん。着きました。ここが私の住んでいるマンションです」
そう言って、南原は、サイドブレーキを引き、ドアロックを解除した。
南原と、女は、車を降りた。
そして、二人は、マンションのエレベーターに乗った。
南原の部屋は、15階だった。
「さあ。どうぞ。お入りください」
南原が言った。
「はい」
女は、南原の部屋に入った。
部屋は、3LDKのデラックスな部屋だった。
リビング・ルームには、テーブルを挟んで、ソファーが向かい合うように、配置されていた。
「さあ。石川さん。座って下さい」
南原に言われて、女は、ソファーに座った。
南原は、女と、向き合うように、向かいのソファーに座った。
「たいへんでしたね」
南原竜樹が、女を見て言った。
女は、わっ、と泣き出した。
「南原さん。ありがとうございました。南原さんのおかげで、私は、救われました。南原さんは、私の命の恩人です」
と、女は、嗚咽しながら言った。
「いえ。堀之内九一郎と、川原ひろし、が、わざわざ、自慢げな電話をしてきたからですよ。あの電話の、おかげて、僕は、やっと、気づいたんです」
と、南原は謙遜した。
「監禁中は、寒かったでしょう。さあ、これを飲んで下さい」
そう言って、南原は、テーブルの上に置いてあった、ワインをグラスに注いで、女にグラスを渡した。
「ありがとうございます」
女は、礼を言って、ワインをゴクゴク呑んだ。
「ああ。美味しい」
女の顔に生気がもどった。
「地下室では、つらい目にあわされたでしょう。風呂に湯が満たしてあります。どうぞ風呂に入って、疲れをとって下さい」
と、南原竜樹が言った。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて、お風呂に入らせて頂きます」
と、女は、言った。
女は、風呂に入った。
温かい湯船に浸かっていると、肉体と精神の、疲れが、一気に、癒されていくような思いになった。
女は、しばし、湯に浸かった後、風呂から出た。
風呂から、あがると、脱衣場には、自分の作った、フードつきのバスローブが置いてあった。
「どうか、これを着て下さい」
と書かれた、小さいメモが置いてあった。
女は、それに従って、自分の、制作した、フードつきのバスローブを着て、リビング・ルームにもどってきた。
「ははは。石川さん。風呂あがりに、また、スーツを着るというのは、不自然ですし、くつろげないでしょう。僕は、あなたの、フードつきのバスローブは、以前に、二着ほど、注文して、買わせてもらいました。男が風呂あがりに着ても、なかなか、着心地がいいですよ」
と、南原は、言った。
女は、顔を赤らめて、南原と、向かいのソファーに座った。
「南原さん。本当に、色々と、ありがとうございました。何とお礼をいっていいのか、わからないほどです」
女は、言った。
「いえ。私の方こそ、あなたに謝らなくてはなりません。私が、番組で、あなたを、認めたのは、他の社長たちが、あまりにも、あなたのことを、酷く言うものだから、彼らに対して、反抗したくなって、あなたを、全面的に認める発言をしたのです。金は出さずに、好き勝手な、説教をしている、彼らを、私は、最初から嫌っていました。もちろん、あなたの、細部にまで、しっかりと計画を練る、優秀な頭脳と、誠実さ、と、やり抜こうとする決断力の強さにも、感激しました。そのため、本心では、事業は、失敗するとは思っていましたが、つい、そのことは、言わずに、あなたを、全面的に、賛辞してしまったのです。ですから、こうなったことには、私にも責任があります」
と、南原竜樹は言った。
「ところで。石川さん。これから、どうしますか?」
南原竜樹が聞いた。
「・・・そうですね。やはり、高橋がなり、さんには、一千万円、の負債が、私には、あります。それは、返さなくてはなりません。高橋さんが、私をどうするつもりだったのか、その本心は、わかりません。檻に入れられた時には、このまま、一生、檻に入れられ続けられるのだろうか、とか、最後には、用無しになったら、殺されるのか、とまで、思ってしまいました。しかし、冷静に考えてみれば、高橋がなり、さんも、アダルトビデオ会社の社長で、そんなことを、するはずは、ありません。私の妄想です。私を、本気で、こわがらせるために、私を檻の中に入れたのだと思います。ましてや、高橋がなり、さんは、社長さんの中でも、優しい性格だと思います。私の、AV作品が、ヒットするとは、私には、思えませんが、ともかく、高橋さんとの約束は、守って、AV作品は、完成するまで、続けようと思っています。これからは、南原さん、が、私のことを、知っていてくれますから、また檻に入れられることになっても、安心です」
と、女は、言った。
「石川さん。あなたは、とても、誠実な人ですね。そういう、あなたの誠実さにも、私は、感激したんです」
と、南原竜樹が言った。
「石川さん。もし、あなたが、よろしければ、私の会社、オートトレーディング・ルフト・ジヤパン、に就職してみませんか。私は、あなたのような、優秀な人材は、ぜひ、欲しい。給料も、はずみますよ」
と、南原竜樹が言った。
「わかりました。高橋さんの、私のAV作品が、完成したら、ぜひ、就職させて下さい。やはり、私には、事業者の能力は無いのかもしれません」
と、女は、言った。
「あなたは、本当に誠実な人だ。私は、番組で、あなたの、プレゼンテーションを聞いているうちに、あなたを、素晴らしく、魅力のある、女の人、と、思ってしまっていたのです」
と、南原竜樹が言った。
「私も、南原さんが、好きです。愛しています」
女は、堂々と、告白した。
二人は、お互いに、相手の目を直視した。
二人の心はもうすでに、一体になっていた。
「石川さん」
「南原さん」
二人は、同時にソファーから立ち上がった。
そして、ガッシリと抱きしめあった。
二人は、お互いの目を見つめ合った。
二人は顔を近づけた。
二人の唇が触れ合った。
南原は、貪るように、女の唾液を吸った。
女も、貪るように、南原の唾液を吸った。
二人は、貪るように、相手の唾液を吸い合った。
「石川さん。寝室に行きましょう」
南原が言った。
「ええ」
女が答えた。
二人は、ベッドルームに、向かって、歩き出した。
男女の愛の営みをするために。
寝室に入ろうとした時だった。
「あっ」
女は、寝室の敷居に、足を引っかけて、前のめりに、倒れた。
「大丈夫ですか。石川さん?」
南原が、急いで女に近づいて聞いた。
「え、ええ」
そう女は、答えたが、右足の足首をおさえている。
南原は、女の足首の辺りを、そっと、押してみたり、伸ばしたり、曲げたりして、具合を確かめた。
「痛いっ」
南原が、女の足首を曲げた時、女は、思わず、声を出し、眉をしかめた。
「骨折は、していませんが、どうやら、足首を、捻挫してしまった、みたいですね」
南原が、言った。
「冷却スプレーと、湿布がありますから、持ってきます」
そう言って、南原は、冷却スプレーと、湿布を持ってきた。
そして、女の右の、足首に、冷却スプレーを、噴きつけた。

その時である。
ピンポーン。
チャイムが鳴った。
「ちょっと、待っていて下さい。今時分、一体、誰でしょう?」
南原は、そう言って、玄関に行って、戸を開けた。
そこには、高橋がなり、が、立っていた。
「あっ。高橋さん。どうして、あなたが、ここにいるんですか?」
南原竜樹が聞いた。
「ははは。南原竜樹さん。実は、あなたが、ここに、来ることは、予想していました。地下室には、隠しカメラを設置しておいたので、あなたが、彼女を救出する場面は、録画させてもらいました。堀之内九一郎と、川原ひろし、の電話で、頭のいい、あなたなら、気づくだろうと、思っていました。あなたが、ソフト・オン・デマンドに来て、そして、彼女を救い出して、ここに連れてくること、は、私は、予測してました。だから、この部屋には、いくつも、あらかじめ、隠しカメラを設置しておいたんです。あなたと、彼女の会話は、全て録画させて、もらいました。彼女は、役者の経験などありませんから、台本で、セリフを覚えさせて、演じさせることは、出来ないだろうと、私は、思っていました。だから、地のままの、彼女の行動を、撮るのが、一番、いいと、思っていたんです。予想通り、いい、撮影が出来ました。本当は、あなたと、彼女のベッドシーンも、撮るつもり、だったんですが、彼女が、捻挫してしまったので、出来なくなって、しまったので、ここで、撮影を中止することに、変更したんです」
そう、高橋がなり、が、言った。
「そうだったんですか。私は、見事に、あなたの計画に、はまってしまいましたね。まあ、ともかく、部屋に入って下さい」
南原に言われて、高橋がなり、は、部屋に入ってきた。
高橋がなり、は、捻挫して、座っている、女を見た。
「ははは。石川さん。南原竜樹さんとの、会話。よく出来ていましたよ。あれを、あなたに、台本で、セリフを覚えさせて、演じさせても、リアル感など、出やしません。下手な三文芝居になるだけです。あなたは、私の予想通り、誠実な人だ。もう、撮影すべきシーンは、ほとんど、撮れていますから、もう、ほとんど、完成です。ただ、南原さんとの、ベッドシーンが撮れなかったことは、残念ですが」
と、高橋がなり、が言った。
「高橋がなり、さん。撮影を放棄して、地下室から、逃げてしまって、申し訳ありません。でも私、本当に、こわかったんです。いつまで、監禁されるのか、と不安になってしまって・・・」
と、女が、言った。
「ははは。石川さん。いいんです。ラストは、あなたが、南原竜樹さんに、助けられる、というのが、私が、構想していた、ストーリーですから。もちろん、私は、あなたが、本当に、怖がるよう、わざと、冷酷な態度を、演じてはいましたけれど」
そう、高橋がなり、は、言った。

女の足首の捻挫は、軽いもので、翌日、整形外科に行って、電子針治療をしたら、すぐに治った。

高橋がなり、は、女に、「作品を完成させるためは、もう少し、撮影しなくては、ならない、シーンが、ありますが、足首の捻挫が、治ってからでいいですよ」と、言ったが、女は、真面目なので、「いえ。大丈夫です」と言った。
こうして、残りのシーンを撮影して、編集して、二週間で、AVビデオ、「美人女社長。借金まみれ。色地獄落ち」は、完成した。

高橋がなり、の、予測は、当たった。
「マネーの虎」で、女は、すでに、世間に、知られている上に、ノンフィクションの実話、ということで、ソフト・オン・デマンドのAVビデオ、「女社長。借金まみれ。色地獄落ち」は、大ヒットした。
もちろん、最初のシーンは、女の出演した、「マネーの虎」である。
今一つ、ヒット作が出なくて、困っていた、ソフト・オン・デマンドは、これによって、大儲けした。
女の、高橋がなり、への、一千万円、の借金は、約束通り、チャラになった。
女は、南原竜樹の、会社、オートトレーディング・ルフト・ジヤパン、に就職した。
だが、世間の、エグゼリーナ達が、興味本位から、ぜひ、女の製作した、フードつきのバスローブを欲しい、という注文が、殺到した。
銀座に出した、店は閉じてしまったが、女は、フードつきのバスローブを、発送して、かなりの利益を得た。
そして、半年後、女は、南原竜樹と、結婚した。
女は、南原と、幸せに暮らしている。
めでたし。めでたし。



平成27年12月10日(木)擱筆


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三島由紀夫(小説)

2015-12-10 21:23:15 | 小説
三島由紀夫

その少年は大正15年(昭和元年)、東京都四谷区に生まれた。
少年は体が弱かった。名前を平岩公示と言った。少年の父親は農林省の官僚で、母親は漢学者で進学校の開成中学の校長の娘だった。父親は、第一高等学校を卒業し、東大法学部を卒業し、高等文官試験に優秀な成績で通り、農林省に入ったエリート官僚だった。少年は2440gと平均よりかなりの低体重で生まれた。五歳の時に少年は、自家中毒症(アセトン血性嘔吐症)で危篤状態になった。医者が呼ばれ、急いでブドウ糖の注射が行われ、少年は一命をとりとめた。しかし自家中毒症は、少年の個疾となった。
弱い体なので外で遊んでは危ないという理由で、少年は、坐骨神経痛で寝たきりの祖母の暗い部屋で一日中、祖母の足を揉んで過ごすこととなった。祖母は泉鏡花の愛読者で、部屋には泉鏡花の全集などがあり、少年は文字を覚えるのと同時に、本を読み出すようになった。小説の物語の中の世界が少年の心の世界となっていった。そしてまた、自分でも俳句や短歌などを書き出した。ちょうど元気な子が、積み木を組んで何かの物を作って遊ぶように、少年は、言葉を色々と組み立てて、遊ぶようになっていった。こうして少年は言葉の能力が、普通の子とは比べものにならないほど、めきめきと発達していった。

少年には女の友達があてがわれた。少年が同年齢の粗雑な男の子と遊んで、粗雑になることを祖母が畏れたからである。名前を杉子と言った。だが少年は、いつも本ばかり読んでいた。そして早熟にも、大人でも書けないほどの擬古的、耽美調の小説を書いていた。杉子は公示を見るとあきれた顔をした。
「公ちゃん。そんな暗いところで本ばっかり読んでて女の子みたいよ」
相撲をとろう、と杉子は言った。女の方から、相撲などという男っぽい遊びを提案させるのは、弱い男の子を少しは強くしてやろうという母性愛と、男を捻じ伏せる楽しみのためである。杉子が近づいてくると少年はたじたじと後ずさりした。勝負は分っているのである。バッと少年が逃げると、杉子はじりじりと部屋の隅へ、少年を追いつめて、取り押さえ、馬乗りにしてしまった。バタバタもがく少年を、杉子は得意顔で、
「どうだ。まいったか」
と言って尻を抓ったり口を塞いだりした。杉子は少年が持っている読みかけの本を奪い取った。
「なになに。ドルジェル伯の舞踏会?へー。小難しい本読んでるんだ。分るのかしら」
と言って、本を少年の目の前で、
「ほーら。ほーら」
と言って本をヒラつかせた。
「か、かえせ」
と言って少年は本をひったくると、お守りのようにギュッと胸の中に抱いた。目をつぶって身動きしないので杉子は立ちあがったが、少年は海老のようにちぢこまって、本を握りしめている。目から少し涙が出ている。
「ふん。むつかしい本が読めるからって女に負けるようじゃ自慢にはならないわよ」
と杉子が言った。

杉子はだんだん調子にのってきて、この相撲ごっこを楽しむようになった。杉子は少年をねじ伏せて、馬乗りになると、糸に結びつけた蟹を垂らして、そーと少年の顔に近づけた。
「ほーら。ほら。公ちゃんの嫌いな蟹」
蟹は挟みをチョキチョキ開閉させながら、少年の顔の上で気味悪くモゾモゾ動いている。
「や、やめてー」
少年は驚天動地の悲鳴を上げた。
杉子は図にのってきて、次にはタクシーのミニカーを垂らした。
「ほーら。ほら。公ちゃんの嫌いなタクシー」
次にはミニチュアの家の模型を垂らして、
「ほーら。ほら。公ちゃんの嫌いな別荘」
と、イタズラはどんどん悪ノリしていった。

少年は、華族、皇族の子弟の学校である学習院に入った。少年は華族の家庭ではなかったが、祖母が大名の家系であることから入学できたのである。
ある国語の時間である。何でもいいから一週間後までに自由作文を書いてきなさい、という宿題が出された。公示は、全身全霊を込めて、幼少の頃の生活をリルケ風の耽美的な文章で書いた。書き上げた時は、我ながらいい出来に仕上がったと嬉しくなった。題は、「花ばかりの森」とした。
一週間後の国語の時間に公示はそれを、いささか気恥ずかしい思いで提出した。
国語教師は、教員室にもどると、みなの作文をパラパラッとめくった。国語教師は、公示の「花ばかりの森」に度肝をぬかれた。
「ば、ばかな。こんな歳でこんな雅文調の小説を書けるはずがない」
と国語教師は思った。

翌日、国語教師は、公示を教員室に呼び出して、公示の書いた作文を前にして質問した。
「はは。君。これは誰か大人の小説を写したんだね」
作者が誰かを知りたいという気持ちと、また、盗作を見破られて叱られるのを慮って和やかに笑った。
「はは。いいんだよ。怒ってなんかいないから。良い文章を筆写することは文章の上達にとてもいいことなんだ。これからも大いに続けたまえ。ただし、それをそのまま宿題の答案として出してはいけないよ。作文はあくまで自分の言葉で書かなくてはだめだよ。ところで、この小説の作者はいったい誰だね」
少年は俯いて恥じらいがちに、
「あ、あの。ぼ、僕です」
と言った。
「んー。ウソはいけないな。じゃあ聞くけど君の好きな作家は?」
「はい。今はレーモン・ラディゲ。リルケ。堀辰雄。谷崎潤一郎などです」
質問する教師の目に少し真剣さが加わってきた。
「子供の頃はどんな本を読んでたの」
「はい。祖母が泉鏡花のファンで僕も惹かれて面白く読んでいました。あと祖母が歌舞伎が好きでよく連れてってもらい、家にあった謡曲全集が好きになってしまって、片っ端から読んでいました」
「んー。するとこれは本物か」
教師は眉を寄せながら原稿を読みながら、
(これはどえらい天才が現れたもんだ)
と仰天した。
「君。部活は?」
「はい。バスケットボール部です。担任の先生に、『お前は体育が全然だめだからバスケットボール部へ入って体を鍛えろ』と言われて入りました」
「それでバスケットボールは面白いか」
「いえ。下手でみんなに迷惑をかけるので一人でドリブルの練習をしています」
「そうか。じゃあ、バスケットボール部はやめて、文芸部に入りなさい。私が顧問をしている」
「でも担任の先生に叱られます。『休み時間、本ばかり読んでいないでみんなと外で遊べ』と、いつも注意されていますので」
教師は、怒気のこもった声で、
「いや。担任には、私が話しておく。バスケットボールなんて、そんなくだらないものは、止めなさい」
とつい、いきりたって言った。
教師は咄嗟に、自分の学生時代を思い出した。dejavuが起こったのである。教師は自分が注意されているような気がした。この国語教師も、学生時代には、休み時間は、本ばかり読んでいて、運動するよう担任教師に注意されたのである。

じゃあ、文芸部に案内してあげよう、といって、公示は言われるままヒョコヒョコついていった。薄暗い部屋の電灯をつけると部屋いっぱいに書棚に本がいっぱい詰っている。
「うわあ」
公示は思わず喜びの声をあげた。
少年は書棚に並んである無数の本の背表紙を食い入るように眺めていった。その目は感動で輝いていた。
「あ、あの。ここにある本、読んでもいいんですか」
「もちろんだ。好きなものは何でも読んでいいし、家に持ってって読んでもいいからね」
少年はまた「うわあ」と、喜びの声を上げた。少年はしばし、どの本を読もうかと迷っていたが、フランス文学の全集の中のラファイアット夫人の「クレーヴの奥方」を取り出し、一心に読み出した。グラウンドでは野球部の威勢のいい掛け声や、ノックの音やが聞こえ、音楽部の部室からは、ピアノの音が聞こえてくる。が、少年は本の世界に入り込んでしまったかの如くに、一心に文字に目を走らせながら項をめくりつづけている。
このままだと、いついつまでも読みつづけそうな様子である。
教師は、「オホン」と、とびきり大きな咳払いをしてポンと少年の肩に手をかけた。
「平岩君」
「は、はい」
少年はやっと我に返って、あわてて教師の方に顔を向けた。
教師は再び、「オホン」と咳払いした。
「平岩君。君は外国文学に凝っているようだが、なかなか、日本文学も捨てたものではないのだぞ」
「はい。日本の文学でも好きな作家はいます」
「そうか。それはとてもいい事だ。しかし君が読むのは近代以降の文学だろう」
「はい。そうです」
少年はキョトンとしている。
「日本の古典には、一番、日本人の心が脈打っているんだ」
教師の言葉は熱っぽさをおびだした。教師はさりげなく和泉式部日記を差し出した。
「うわー。先生が校訂した本なんですね。すごいや」
「い、いや。全然それほどたいしたものじゃないから、気がのらなかったら他のものから入った方が本当はいいのかもしれないが。でも源氏物語はちょっと長すぎるからね・・・それは君の自由だよ」
「いえ。先生の校訂なさった和泉式部日記から日本の古典を学ぼうと思います。借りてもろしいでしょうか」
「あ、ああ。勿論いいとも。君も勉強に創作に忙しいだろうから、返却はいつでもかまわないからね」
こんな具合で少年は、バスケットボール部をやめて、文芸部に入部した。

ある日の夕方、公示が部屋で小説を書いていると、いきなり父親が入ってきて、五十枚は積み重なっている、苦労して書き上げた原稿を、いきなり取り上げると、無言でびりびりと引き裂いた。怒りや、悲しみの感情の前に、ともかく、まずわけのわからない驚きによって呆然と萎縮してしまった。
「この不良め。二度と小説なんか書くな」
そう言い捨てて父親は去って行った。
公示の父親は、息子の文才は認めつつも、文学などというものは、何の実用の役にも立たない無益なものと思っていたのである。

その日の夕食は、お通夜のように無言で誰も喋ろうとはしなかった。いつもは、公示が、ラディゲのドルジェル伯の舞踏会、のことを楽しそうに語り、家族は、またその小説の話か、と、うんざりされるのだが、さきほど、文学嫌いの父親に、怒りを込めて小説を破かれてしまったので、文学の話は出来なかった。そして、父親が夕食の時、何も喋らない日は、決まって、その日、仕事で何か不快なことがあったことの証明であった。

「ああー。ひいー」
その夜中、厠へ行く時、両親の寝室の方から何かの音がかすかに聞こえてきた。公示は、その音に興味を持って音のする方に向かった。音は父母の寝室だった。近づくにつれ、それが悲鳴であることがわかってきた。公示は、そっと穴から寝室の中を覗いた。息が詰まるかと思うほど吃驚した。美しい母親が丸裸にされて手首を縛られて吊るされ、父親が母親を鞭打っているのである。母は父に鞭打たれる度に悲鳴を上げ、海藻のように身をくねらせた。
「お前は、公示の小説に、至れり尽くせりの協力をしていたな」
母親は、夫が寝た後に、夫に見つからないように、抜き足差し足で息子の部屋に入り、十分な原稿用紙を、菓子や茶と一緒に、文学好きの息子のために届けていたのだが、それが見つかってしまったのである。
「あいつは頭が良くて勉強も出来るし、司法試験を受けさせて、大蔵省の役人にするんだ。小説家なんて、何の生活の保証もない」
「俺は顔が気に食わないという理不尽な理由で、農林省にさせられたんた。今日も、大蔵省の主計局長に呼び出されて、屈辱的な思いをしたんだ。だから、あいつは何としても大蔵省に入れるんだ。俺の思いがわからんのか」
「そ、それはあなたの身勝手ですわ。あなたは、大蔵省に復讐するために、公示を利用しようとしているんですわ」
「うるさい。ともかく小説家なんて、綱渡りのような人生を送らせたくないという親の思いがわからんのか。あいつは法律の坩堝にぶち込んで、文学などとは縁を切らす」
そう言って父は母の尻をピシーンと鞭打った。
「ああー」
夫人の尻は鞭打たれた跡が赤く一条の線になって残った。
「お前は大蔵省と農水省の違いがわからんだろう。大蔵省と農水省は、殿様と乞食ほどの違いがあるんだ」
「あなたは、仕事のストレスを家庭で、家族に八つ当たりで発散しているんですわ」
「うるさい。妻は夫の言う事を聞いてりゃいいんだ」
この光景を少年は息を呑んで見つめた。

それ以来、少年は、父親に見つからないよう小説を書かなくてはならなくなった。書いた原稿も、見つからない所に隠さなくてはならなくなった。

聖セバスチャン。
ある日、それは風邪で学校を休んだ日だが、少年は、こっそり父親の書斎に入ってみた。早熟なこの少年は、父親が外国土産に買ってきた画集をどうしても見たかったのである。少年は戸棚の奥に一冊の画集を見つけた。少年は、本のカバーから画集を抜き取り、カバーの背表紙を元の位置に置いておいた。こうしておけば、まずわからない。さらに父親は、役所の仕事で、いつも帰りが遅い。もし万一、見つかったら、どんなに叱られるだろうと思うと、かえってそれがスリルになった。少年は、自室に画集をこっそり持ち込んで、心臓をドキドキさせながらページをめくっていった。絵は、ルネッサンスの裸婦の沐浴図などが多かった。それらは、ヨーロッパ中世のキリスト教の呪縛から逃れた人間の精神の自由の光を放っていたが、どれもみな今一つ少年を満足させるものはなかった。少年は退屈になって欠伸をした。つまらない画集だな、と思いつつ、少年は、一応全部見ておこうとページをめくった。すると、終わりにさしかかった、あるページをめくった時、激甚の感慨をもたらすほどの、刺激的な絵画が現われたのである。
それはキリスト教徒の聖セバスチャンの殉教図だった。若く逞しい体は裸にされ、腰に一枚の粗布をまとっただけで、両手は頭上で交差されて縛められ、背にしている木の枝に縛められていた。左の腋窩、と右の脇腹に矢が刺さっていたが、不思議なことに血は流れていない。青年は空を仰ぎ見ていたが、死んでいく者にしては、憂鬱や苦悩の翳りもない。天を仰ぐその顔には栄光と誇りがあった。それを描いた画家がサディストであろうことは容易に推測された。
二つの感情が同時に少年を襲った。それは、「彼を処刑したい」という、サディスティックな感情と、そして、それと同時に、「処刑されている彼になりたい」という狂おしいほど激しいマゾヒズムの感情の嵐だった。少年のペニスは、激しく勃起し出した。少年はズボンを脱ぎ、パンツも脱いだ。そして、どうしようもなくいきり立っているペニスを、なだめるように、そして興奮をさらに高めるように、ゆっくりと扱き出した。少年の興奮はだんだん激しくなっていった。おしっことは違う何か違う何ものが、体内から出ようとしているのを少年は感じた。それは今まで一度も経験したことのない甘美な何物かだった。少年は、さらに扱く度合いを強めていった。
「ああー。で、出るー」
少年は野獣のように叫んだ。ペニスから白濁液が激しく飛び出した。これが少年にとっての初めての自涜であり、それはその後、少年にとっての悪習となった。

ある日のことである。少年は、いつものように父の書斎の書棚からそっとセバスチャンの画集を取り出して部屋に持って行き、じっとセバスチャンの絵を見つめていた。だんだん少年の呼吸が荒くなっていった。少年は服の上から、勃起したペニスをさすり出した。
「公ちゃん」
少年はいきなり後ろからポンと肩を叩かれてあわてて振り返った。杉子がニヤリと笑いながら立っている。
「ああっ」
少年の顔は血の気が引いて真っ青になった。
「へへ。みーちゃった。公ちゃんてそういう趣味があったんだ」
少年は現行犯を見つけられた犯罪者のように、俯いて押し黙っていた。
「SなのかしらMなのかしら・・・。公ちゃんは大人しいからきっとMね。この絵のようにされたいんでしょう」
少年は黙ってうつむいている。
「じゃあ、いじめてあげるわ」
杉子は階下に下りて、物置から縄を持ってきた。
「さあ、着ているものを脱いで」
うつむいて震えている少年を杉子は勝ち誇ったように眺めていた。
「ふふふ。公ちゃんがお父さんの大切な画集をこっそり見てたって言っちゃおう。公ちゃんのお父さん、恐いからきっと怒るよー」
「ああっ。それだけはやめて!!」
黙っていた少年は叫び声を上げた。
地震、雷、火事、親父の中で少年にとって一番恐いものは親父だった。
「さあ。着ている物を脱いで」
杉子が命じたが、少年はうつむいたまま体を震わせながら黙っている。
「やれやれ。仕方ないわね」
そう言って杉子は少年は着ていた服を脱がしていった。シャツのボタンを上から外していった。シャツを脱がすと、Tシャツもすっぽりと頭から抜きとった。次に杉子は、ズボンのベルトを緩め、ズボンも抜きとった。そしてバスタオルを腰に巻いて、その中に手を入れてパンツも抜き取った。杉子は少年を座らせ、少年の手首を頭の上で交差させて縛って、その縄尻を鴨居に固定した。それはまさに殉教者セバスチャンの図だった。少年はうつむいて黙ってほんのり頬を紅潮させている。
「ふふ。やっぱり公ちゃんはMなんだ。あの絵の人のようにされたいんでしょ」
杉子はうつむいて黙っている少年の前で尖った鉛筆を二本とり出すと、
「ふふ。これは矢よ」
と言って左右から脇腹や腋窩や首筋をツンツンとつついた。
「ああっ」
少年は眉を寄せ、全身をプルプル震わせた。同時に腰を覆っている粗布の一部がムクムクと屹立しだした。それに気づいた杉子は、そっと粗布の上から固く屹立したそれを掴むと、ゆっくりしごき出した。少年は眉を寄せ、全身をガクガク震わせている。杉子は意地悪な目で少年の反応を観察しながら、粗布の上から隆起した物を扱きながら、片手で腋窩や脇腹を鉛筆でつついた。ついに少年は、
「ああー」
と、ひときわ大きな声を上げ大量の白濁液をほとばしらせた。

遊動円木。
学校のグラウンドの隅には、遊動円木があった。それは一メートルの間隔で打ち込まれた木の杭の列の上に、板が載せられているものだった。それは生徒達にとって、それは、おあつらえの遊びとして使われていた。二人の生徒が、双方から板の上に乗って近づき、手と手を合わせて相手を押し合って、相手を落とすのである。揺れる板の上でバランスをとりながら、相手を落とすには、バランス感覚と、相手を落とす腕力が要求されたが、腕力だけで押してくる相手を拍子抜けさせて、相手のバランスを崩させて落とすことも出来るので、必ずしも腕力の強い者が勝つとは限らなかった。だが、やはり力の強い者が圧倒的に強かった。遊びは、勝ち残りとして行われ、勝った生徒は、そのまま、遊動円木の上に立ったまま、次の挑戦者が来るのを待った。
ある昼休みのことである。
遊動円木の上では、Oが五人勝ちぬ抜いて、勇ましそうに腰に手を当て、周りを見回していた。Oはクラスでも一番力が強かった。
「ふん。弱虫ばっかりだな。もうかかってくるヤツはいないのか?」
Oは強がって言った。まだOと戦っていない周りの生徒は、そう言われても、やっても勝ち目がなさそうなので挑戦しようとはせず、遊動円木の上のОを仰ぎ見ていた。
その光景を見ているうちに、少年の中で理性が消え、ある激しい衝動が生まれていた。ぶざまに落ちて皆に最悪の言葉でののしられる光景である。それは、「死」の衝動に近かった。観客として見ていた少年の視線とОの視線が合った。
それをどうしても確かめずにはいられない認識を求める欲求が少年を行動へと突き動かしていた。知らず知らずのうちに少年は帽子をとり、夢遊病者のように宿命に向かって歩き出していた。少年は遊動円木にあぶなっかしげに乗り、ゆっくりと一歩ずつОに向かって歩き出した、この勝負は、もうほとんど結果が見えていた。少年は、幼少期を暗い祖母の部屋の中で正座したまま過ごし、外で走り回るということをしなかっため、歩き方に変なクセがついてしまった。内翻足とまではいかないが、足首の関節が不安定なため、踵から着地して、拇指球に体重を移すという、普通の歩き方と少し違っていた。足を交互にペタペタと地面につけた奇妙な歩き方だった。それはまるで、アヒルのような歩き方に見えた。
歩き方がおぼつかないため、生徒達は、彼のおかしな歩き方から、少年を、ばあさんアヒル、と呼んでいた。駆けっこも駄目、体格が貧弱で体力もなく、運動は全く駄目だった。
「やめとけ。やめとけ」
「お母様―」
「青ビョウタン」
見物していた生徒達は、侮蔑を目一杯込めて囃し立てた。
Оは意外な挑戦者の出現に驚いた。
「おっ。貴殿のおでましだよ」
「おれ、なんだか足がガクガクしてきたよ」
Оは、ふざけて言った。だが、少年は、見物している生徒達の嘲笑も、Оの揶揄も耳には入らなかった。少年の真剣な眼差しにОはたじろいで身構えた。二人の手と手が触れ合って、押し合った。Оが一瞬の隙をついて右手を強く押したが、少年のあまりの力のなさに、Оは、暖簾に腕押しとなり、バランスを崩した。二人はほとんど同時に遊動円木から転がり落ちた。

学校で少年は体育を除いて、学科は満点だった。これは生まれつきの秀才、という面も、もちろんあった。が、運動が出来ないことを学科の能力で見返してやろうという向上心もこれに拍車をかけた。この世の人間の少数に、怠けるということを忌み嫌う人間がいる。少年もその一人だったのである。さらに加うるに、人間はコトバでものを考える。数学の問題文とて、コトバである。少年は物心ついた時からコトバが玩具で、愛着の対象だった。少年は体を使う遊びを知らないため、言葉を玩具として遊んだ。人に命じられることなく英才教育を自らにほどこしていたようなものである。もうコトバを自在に使いこなせるようになった時、少年にとって、学校の勉強などママゴトに近かった。

杉子はその逆で体育はよく出来るが、学科はダメだった。特に数学がダメだった。
杉子の母親が公示の秀才ぶりを耳にして、どうか杉子の家庭教師になって、学科の勉強をみてやってほしい、お礼は致しますので、と、公示の家に頭を下げて頼みに来た。
「公示さん。行っておあげ」
と母親に言われ、少年は杉子の家に行った。驚いたことに本らしいものが一冊もない。この頃、少年は谷崎潤一郎にも傾倒していた。
「エッヘン」
と咳払いして、あたかも大学生のように杉子の傍らに、膝組みして座り、杉子に自習させ、自分は余裕綽々でリルケを読んだ。杉子は、わからない問題にぶつかったらしく、口唇を噛んで困惑している。しかし、今まで、さんざん、からかってきた、女のようなヤサ男に頭を下げるのは屈辱だった。
杉子が、わからない問題を飛ばそうとしたので少年はピシャリと、モノサシで少女の手をたたいた。
「こらっ。飛ばしちゃダメじゃないか」
少年は厳しく叱った。
「いたーい。叩かなくたっていいでしょ」
少年は少女がてこずっている問題を瞥見した。それは少年にとっては一秒で答えが見えるほどの簡単な問題だった。
「こんな問題も分らないのか。こんな問題も分らないで、よく進級できたな。きっとズルしたんだろ」
言い返せない少女に少年は続けて言った。
「教育はきびしきをもって尊し。谷崎さんも、春琴抄で、教育に打擲をもってよし、としている。世人が尊敬する文豪の考えが間違っている、というのかね?」
少女は反論できなかった。少女は学問がわからないことの責を自分にもつ良心は持っていた。少女にとって、学問とは、お化けより難解で、こわい、得体の知れぬ怪物だった。そして、その学問がわかる生徒というものも、天か黄泉の国の使者のように恐ろしく見えて、その言に従わなくてはならない、という気持ちが起こるのだった。
「ほら。とっとと考えろ」
と言って、少年は、困っている少女の手や腿をピシピシ叩いた。そんな事をすればよけい集中できなくなると、わかっていながら、少年は表向き、教育のための愛の鞭撻のように装った。
少女は耐えきれず、
「いたーい。そんなに叩かれたら集中できないじゃない」
と言った。
「ふん。じゃあ、叩かないでやるよ。そのかわり、ちゃんと解けよ」
と言ってリルケの詩集に目を戻した。少女はベソをかいて、解けない問題の前で立ち往生している。
「ほら。どうした。叩かなければ集中できて解けるんだろ」
少女はわっと泣き出して少年の前にひれ伏した。
「おねがい。公示君。おしえて」
と言って、少女は泣き出した。少年はりんと目を輝かせて、
「ふん。じゃあ、教えてやるよ。その代わり、今まで怠けていたバツをうけるんだ」
と言って、ドンと少女を突き飛ばした。少女は少年が相撲でからかわれた、仕返しだとも思っていた。すべてを信じるほど無邪気ではない。そもそも、遊びとは、からからあい、であり、それは少女の方がくわしい。しかし少女は、優等生の少年ににらまれると、その背後に多くの天才学者や偉人が幻のように見えてきて、竦んでしまうのだった。
少年に突き飛ばされながら少女は風呂場についた。
「ほら。服を脱いでパンティー一枚になるんだ」
「な、何をするの?」
少女は、脅えた目で少年を見た。
「いいからなるんだ」
少年に厳しい口調で言われ、少女は竦んでしまって、震える手でホックを外し、ブラウスとスカートを脱ぎ、パンティー一枚になった。
「ほら。こっちへ来るんだ」
と言って、惨めにうつむいている少女を風呂場の中へドンと突き飛ばした。
「そこへ座れ」
と言われて、少女は簀子の上に正座した。少年がシャワーの栓をひねると、冷たい水が下着一枚の少女の体に豪雨のように降りかかった。
「つ、冷たいー」
少女は両手を胸の前で交差させてギュッと握りしめ、ブルブルと全身を震わせながら、冷たさに耐えた。
外は雨である。止むことなく少女の体を伝わって滴り落ちる水滴はその激しい量と音のため、少女の涙も泣き声もかき消してしまっている。少年は脱衣場で、どこ降る水と、膝組みをしてリルケに読み耽り、少女に一瞥も与えない。全身に鳥肌を立たせ、体を震わせながら正座していた少女は、わっと泣き出して簀子に頭をつけるようにひれ伏した。
「公示君。ゴメンなさい。公示君が体が弱いのをいいことにからかったこと、心から謝ります。だ、だから、もう、ゆ、ゆるして」
と言って少女は簀子の上でわんわん泣いている。少年は、しおりを本に挟んで傍らに置くと立ち上がって、シャワーの栓を止めた。
「ほら。寒かっただろ。ふけよ」
と言って少年は少女にバスタオルを渡した。少女は泣き濡れた目を上げている。
「あ、ありがとう」
と言って、体を拭いて、クシュン、クシュン言いながら服を着た。
「公示君。問題教えてくれる?」
少女は、すがるような目で少年を見た。
少年は黙って、杉子を元の部屋に連れて行った。
「ほら。この点に線を引くんだ。そうすれば図形が三等分されるだろう」
そう言って公示は、ノートの図形に線を引いた。
「あ、ありがとう」
クシュンと、くしゃみをしながら杉子は教えてもらった礼を言った。

このような手痛い仕打ちを受けて杉子はもう公示をからかう気力も失せてしまった。それと入れ替わるように杉子の心に、憧れ、が起こり始めていた。価値観の逆転が起こった。それまで杉子は力強い肉体の強さが男らしさの美しさだと思っていた。スポーツ選手が杉子の憧れだった。それが今まで目もかけなかったペタペタ、歩き方もアヒルのようにおぼつかないで、いつも小脇に本をかかえて何やら文学ばかりに熱中しているひ弱な秀才の少年が何か得体の知れない逞しさを持っている魅力的な男の子に見え始めたのである。
「公ちゃん。遊びにきたよ」
そう言って、杉子は公示の部屋に入った。
「へへ。また数学で分からないところがあるから教えてもらおうと思って」
杉子が部屋に入ると、少年は薄暗い部屋の中でポタポタ涙を流しながら置手紙らしきものを悄然とした表情で読んでいた。
「どうしたの。公ちゃん」
と言っても少年の心に少女は存在しなかった。肩越しに覗き込んで見るとそれは父からの厳しい忠告の置き手紙だった。
「学業に専念しろ。小説などというくだらないものにうつつを抜かすな。小説などというくだらないものにふけって人生を無駄にするな。見つけた小説は処分した。以後二度と小説などにふけらず学業に専念すること。父」
「ひどーい。公ちゃん、勉強もちゃんとやってるのに。クラスで一番の成績なのに」
杉子は、以前、少年の書いた小説を見せてもらったことがあった。が、何か難しくて全然分からなかった。が、分からないからきっと優れたものなのだろうと思った。見せてもらったときは公示は無表情な顔だったが、取り上げられ、捨てられて涙をポロポロ流している姿を見て、杉子は初めて少年の自分の作品に対する思い入れの度合いの大きさに気づいた。
「どうしてクラスで一番なのにまだ叱るのかしら」
「お父さんは僕が東大を優秀な成績で卒業して大蔵省のお役人にならなければ気がすまないんだ」
「きっとまだ何処かにあるわ」
と言って杉子は父親のゴミ箱から、破かれた原稿を持ってきた。
「あったよ。公ちゃん」
と言って、ちぎれた原稿を丁寧に引き伸ばし、
「セロテープでくっつければ元通りになるわよ。エート」
と言って杉子は原稿の破れ具合から、ジグソーバズルのように原稿をつなぎ合わせ始めた。
「公ちゃんも手伝ってよ」
と言って二人で原稿を貼り合わせた。
ルンルン顔の杉子に、
「僕は将来、矛の会という武器を持たない兵隊のようなサークルを作って、そのリーダーになろうと思っているんだ。でも今は僕がそんなことを言っても聞いてくれる友達はいない。だから将来の予行演習で、小矛の会というのを作る。僕がリーダーで会員は今のところお前一人だ」
「矛の会ってどんなことをするの?」
「自衛隊に体験入隊したり、武道の訓練をしたりして肉体と精神を鍛え、有事の際には身を呈して国を守る会だ」
「ステキ。公ちゃんて青白い文学青年オンリーなのかと思ってたけど文武両道を目指す逞しい心を持っているのね」
「私会員になる」
「矛の会の訓練は厳しいぞ。つらい訓練を己に課して徹底的に己を鍛えるんだ。泣き言は許されないぞ。リーダーの命令にも絶対服従だ」
少年は立ち上がって皇居に向かって柏手を打った。杉子もそれに従った。
「ひとつ。われらは身を挺し、邪神姦鬼を払わん」
「ひとつ。われらは莫逆の交わりをなし、同志相助けて国難に赴かん」
「ひとつ。われらは権力をねがわず立身をかえりみず、万死以て維新の礎とならん」

数日後のことである。公示と一緒に歩いていた杉子は、片足を引きずって歩いている弱々しい野良猫を見つけた。怪我をしたのであろう。
「かわいそう」
杉子が近づいて猫を撫でると猫は弱々しく二ャーと泣いた。杉子は鞄の中から、煮干を出して猫に与えた。猫はそれをモソモソと食べた。この猫は猫にありがちな恩知らずの、贅沢な猫ではなく、むしろ犬のように忠実だった。
「可愛そうね。どうしたらいいかしら。公ちゃん」
と聞いた。杉子は公示が大の猫好きである事を知っていた。それで公示も一緒に猫をどうするか考えてくれると思った。が、公示は知的にして、冷たい目で杉子にこんな事を淡々とした口調で命じた。
「殺すんだ。そこに角材がある。から、それで叩きつけて殺せ」
杉子は吃驚した。杉子はその理由を考えてみたが、わからなかった。で、もう長くはないだろうから、苦しませず、安楽に死なせてやろうという事だと思った。それ以外に理由が、考えつかない。が、公示が次に言ったコトバに杉子はわけがわからなくなった。
「角材でたたきつけて殺してから、鋏みで皮を剥ぐんだ」
「ど、どうして。どうしてそんなことをするの?」
公示はそれには答えなかった。杉子がためらってモジモジしていると、公示は自分でそれを行った。猫を何度も角材で叩きつけた。その度に猫は、フニャーン、フニャーンと鳴きながら、ついに息絶えた。はたしてこれが安楽な殺し方だろうか。残酷以外の何物でもないのではないか。動物愛護協会の人に知れたら張り倒されるのではないかと思った。公示は猫の皮を鋏みでジョキジョキ切りだした。猫の皮剥ぎが行われた。その間、公示の目は冷静そのものだった。惨たらしくバラバラにされた猫を前にすっくと立ち上がった。
「今日は僕がやったが、今度、野良猫に会ったらお前がやるんだ。僕のやった事と同じことを」
杉子はバラバラになった猫の死骸を集めて、土に埋めてお墓をつくった。
「ゴメンね。猫ちゃん。安らかに眠ってね」
と冥福を祈った。そして、
「どうか化け猫にならないでね」
と付け加えた。

ある時、書店で見つけた大宰の本を立ち読みしているうちに、どうしようみない憎悪が少年をおそった。その自己劇化、弱さの直接の安直な告白。それによる世間の同情を求めて理解者を求めようとする狡猾さ。
少年は、作者に会いたい旨の手紙を送った。すぐに了解の手紙が返ってきた。
数日後、少年は大宰氏を訪ねた。そこは、うなぎ屋の二階だった。大宰の崇拝者達と円座の中に作者はいた。
「やあ、よく来てくれたね」
大宰氏は用意してあった色紙に「生まれてすみません」と書いて、少年にニコニコ笑いながら、少年に手渡した。だが、色紙を受け取ると少年はベリッと色紙を引き裂いた。
「大宰さん。僕はあなたが嫌いです。あなたの苦悩なんて乾布摩擦や規則正しい生活をすれば治ってしまう」
少年は大宰氏を睨みつけて言った。
「なんだ。オレのファンかと思ったら、オレを批判しに来たのか」
「へっ。なに言ってやがるんだ。青二才が」
「嫌いなら読むなよ」
大宰氏は、うってかわって少年を罵倒した。
少年は、つかつかと大宰氏の前に来ると、いきなり、大宰氏の顎を蹴っ飛ばした。そして倒れた大宰氏を足で滅茶苦茶に蹴飛ばした。取り巻きがあわてて少年を取り押さえた。
「やめろ。小僧。先生になんてことをするんだ」
「謝れ」
少年は取り押さえながらも、大宰氏をにらみつけている。大宰氏の顔が弱々しく崩れだした。少年がにらみつけているので、ついに大宰氏は泣き出した。
「うわーん。こんな子供にまでオレは軽蔑されている。やっぱりオレは生まれてくるべきじゃなかったんだ」
取り巻きは言った。
「やい。小僧。先生は心を痛められたじゃないか。謝れ」
だが、少年は、豹のような猛々しい目つきで大宰氏をにらみつけている。
「いいよ。力づくで謝らせても、僕を憎むこの子の心の目までは変えられないんだ。やっぱり僕は人間不合格なんだ」
大宰氏はメソメソした口調で言った。
「そうです。あなたは不合格人間です。でも、それでいいじゃないですか。あなたは、その苦悩とやらを作品にしたてる才能があるんだから。今日の体験をも、せいぜい立派な作品に仕立て上げればいい」
「そ、そうだね。そうするよ。ありがとう」
涙顔の大宰氏をあとに、少年は去って行った。
大宰氏の「人間不合格」がベストセラーになったのは、それから数ヶ月後のことである。そして、その数日後に、大宰氏は、玉川上水に、女と入水して死んだ。

数日後のことである。公示と杉子は、一緒に外を歩いていた。
二人の前にネコが昼寝していた。その身をくねらせる様子がえもいわれぬ程可愛らしかった。だが杉子はブルッと身震いした。ネコはあたかも二人におもねるように、二人が近づくと、ゴロンと寝転んで小さな声で、二ャーと鳴いた。このネコは「我輩はネコである」のネコより可愛かった。もっとも、「我輩はネコである」のネコは、かわいいのかどうか、それは、わからない。公示はピタリと足を止めた。そうして、杉子に向に目を向けた。杉子は青ざめた顔をしている。公示は冷ややかな怜悧な目をしていた。公示はポケットからナイフをとり出して、震えている杉子に渡した。
「やれ」
杉子は、手渡されたナイフを落として座り込んで泣き出した。恥も外聞もなく。この「やれ」という命令は、ナイフで猫を殺せ。という意味である。殺した後、猫の皮を剥ぐ事まで命令には含まれていた。杉子はなぜ、意味もなく、そんな残酷な事をしなくてはならないのか、全く解らなかった。お小遣いのため、猫の皮を三味線つくりの職人に高値で売る、というのだろうか。しかし、剥いだ皮を売るわけではない。杉子はこの残酷な行為の理由を、この頃、野良猫が増えすぎて、家々のゴミをあさるので世間が困っているため、心を鬼にして、野良猫処分を、「国難に赴かん」という思想として実行しようというのが、公示の思いついた理由だと思った。杉子はペタリと座り込んだまま、ワンワン泣いた。だが矛の会の血書の誓いは絶対であり、杉子はしばし、公示の顔と猫とを、せわしく交互に見ていたが、パッと飛び出して、気持ちよさそうに仰向けに無防備に寝ている猫をヒシッと力強く抱きしめた。猫は激しく抱擁されて二ャーと泣いた。杉子は嗚咽しながら、背後の公示に激しく訴えた。
「こ、公ちゃん。確かに野良猫が増えているのは国難かもしれないわ。公ちゃんは心を鬼にして「国難に赴かん」を実行しているのね。で、でも私、こ、こんな可愛い猫、殺す事なんてどうしても出来ないわ。ね、猫だって感情があるのよ。生きたい。死にたくない。という感情の強さは人間とかわりがないわ。どうしても猫を殺すというのなら、わ、私を殺して」
杉子は泣きながら訴えた。
彼女は、「猫殺し」は、もしかすると、「野良猫を街から減らそう」という理由ではなく、公示の、わけのわからない思想なのかもしれない、とも思っていた。杉子は、公示がわけのわからない人間だという事は十分わかっていた。もしかすると、猫の代わりに本当に殺されるかもしれないという恐怖を背中に感じながら、ひしっと猫を抱きしめていた。しばしして、恐る恐る振り返ると、公示の姿はなかった。
杉子は、ほっとして、
「よかったわね。猫ちゃん」
と言って、猫の頭を撫でた。

ある時、杉子が公示の家に遊びに行くと公示はいなかった。杉子は公示の部屋に入って公示が来るのを待った。なかなか来ないので、杉子は、机の上に乗っている書きかけの原稿を読んでみた。題は、「能面の告白」と書かれてある。それは公示の性欲に関する自伝のような小説だった。読むうちに杉子は、驚いた。特に杉子を驚かせたのは、公示の夢想の部分である。それには、こんなことが書かれてあった。
「・・・次第に刺激は強められ、人間が達する最悪のものと思われる一つの空想に到達した。この空想の犠牲者は、私の同級生Bで、水泳の巧みな、際立って体格の良い少年だった。そこは地下室だった。純白なテーブル・クロオスには典雅な燭台が輝き、銀製のナイフやフォークが皿の左右に並べられていた。お定まりのカーネーションの盛花もあった。ただ妙なことには食卓の中央の余白が広すぎるのだった。Bがやって来た。私が食事を一緒にしようと誘ったのである。「やあ。B。よく来たね」私は何気なく呼びかけた。彼はポケットへ両手をつっこんだまま私にむかっていたずらそうに笑ってみせた。一瞬の隙をついて私は後ろから飛びかかかって少年の首を絞めた。少年は激しく抵抗した。が私は首を絞めつづけた。少年は、ややあって気絶した。私は事務的な手つきで少年のポロシャツを脱がし、腕時計を外し、ズボンを脱がし、みるみる丸裸にしてしまった。「よっこらしょ」私は気を失っている少年を皿に仰向けに寝かせた。私は口笛を吹きながら細引きを両側から皿の小穴に通して少年の体をぎりぎり縛りつけた。私は大きなサラダの葉を裸体のぐるりに美しく並べた。私は心臓にフォークを突き立てた。血の噴水が私の顔にまともにあたった。私は右手のナイフで胸の肉をそろそろ、まず薄く、切り出した。溢れ出た大量の血は後で飲むため甘味をつけて缶詰にした。・・・」
杉子は背筋がぞっとした。
『公ちゃんて、ロマンチックな性格だと思ったら、こんな恐ろしいことを考えていたのね』
その時、公示がやってきた。
「やあ。杉子。よく来たね」
公示に後ろから声をかけられて杉子は振り返った。
「こ、公ちゃん。わ、私も、食卓の上に乗せて、ナイフで体を切り開いてスパイスをかけて食べて、血はジュースの缶詰にするの?」
広示は黙ってポケットからナイフを取り出して、じっと見つめ出した。いつも小説を書いているこの少年は、ストーリーに行き詰った時、吝嗇な父親から貰ったドイツ製のナイフで鉛筆を削って尖らすのが癖になっていた。その癖は鉛筆を削ることから、ナイフをじっと見つめる事に変っていった。
「わ、私、そんなにおいしくないわよ。に、肉も硬いし・・・」
杉子はたじろいで一歩後ずさりした。
「しないよ。オレは女には興味がないんだ」
杉子はしばし頭を捻って考え込んだ。
「わかった。公ちゃんは学校でいじめられたから、いじめた人に、想像で仕返ししてるのね」
「違うよ。僕は愛し方を知らないから誤って殺してしまうんだ」
「愛し方を知らなくても殺さなくてもいいじゃない」
「君に説明してもわからないだろうけど、僕にとっては愛する人を殺すことが愛することなんだ」
杉子は黙ってしまった。わけがわからなかったからである。
「何でこういう、恐ろしいことを書くの。これは密かな日記として書いていて、人には見せないんでしょう」
「いや。見せるよ。これは僕の全てをさらけ出す長編の自伝小説にするんだ」
「でも、こんなこと書いたら、人から気味悪がられるわよ」
「そうかもしれないね。でも僕は、これに賭けているんだ。もしかすると、僕はこの作品によって文壇的地位を確立できるかもしれないと思ってるんだ」
「か、確立できるといいわね」
杉子は、この会話中、ずっと犯罪者に脅えるような引け腰の様子だった。


学習院では、その頃、ある禍々しい事が問題になっていた。それは、皇室の加子内親王があまりにも可愛いというので、彼女を盗撮し、それをミクシィで売って儲けてるものがいるという事件である。加子内親王は今上天皇の孫娘であり、将来は女性天皇になることが、ほとんど決まっていた。公示はそれを聞いて非常な憤りを感じた。
「こともあろうに将来の陛下を隠し撮りし、さらにはミクシィで儲けるとは、何たる不敬なことだ」
公示は烈火のような憤りで固く握りしめた拳をブルブル振るわせた。
ある時、公示がトイレに入っていると、ガヤガヤと男子生徒たちがやって来た。
「ふふ。また儲けたぜ。写真一枚、1万円で売れた。こんないい商売はない。今度は着替えているところを盗撮しよう。もしかすると10万で売れるかもしれないな」
公示は自分が気づかれないよう半分、出かかっていたウンコを必死で踏ん張って止めた。出してしまったらば、ポチャンとウンコが便器に当たる音で気づかれてしまう。
「ふふ。そうだな」
仲間が相槌を打った。声の主は日本の政治家で大資本家の蔵原武介の息子の蔵原太郎だった。蔵原は、成績が悪いが、父親が財界、政界に絶大なつながりを持っている。それで将来は父親の秘書になり、いずれは父親の跡を継ぐと自慢していた。企業の便宜をはかる見返りに、賄賂をたっぷり受け取れ、定年後は、口利きしてやった会社に天下り渡り鳥で就職できる。こんな楽で儲かる人生はないと、自慢げに言っていた。
「あいつだったのか」
公示はウンコを出しきった。ポチャンとウンコが便器に当たって音がした。トイレを出ると、去っていく蔵原の後姿を憎しみを持って見た。
その後、公示は蔵原をつけるようになった。
ある日の体育の授業の時、女子更衣室でワイワイと女生徒が賑やかに話していた。
「加子。この前のフィギアスケート大会、すごく上手かったわよ」
「ダメよ。私なんてどんなに頑張ってもジャンプは一回転しか出来ないもん。麻田真央ちゃんは、三回転半も出来ちゃうんだから。私とは天と地との差だわ」
「じゃあ、加子。先に行っているわ」
女生徒たちは、更衣室を出て行った。更衣室は加子内親王に一人になった。
「それ。今だ」
隠れていた蔵原とその仲間が、加子内親王の着替えを盗撮しようと、急いで更衣室の前に行ってデジカメを取り出した。加子内親王は、ちょうどスカートを脱ぎ始めたところだった。蔵原は、人がいないことを確認するため、後ろを振り返った。
すると一人の少年が、つかつかと蔵原に向かって後ろから歩み寄ってきた。
「平岩か。何の用だ」
人が教師でなく、青白い生徒の平岩であったことが、蔵原を安心させたのだろう。余裕の口調だった。少年は、いきなり制服の中に隠し持っていた短刀を取り出した。
「蔵原太郎。不敬の神罰を受けろ」
そう言って少年は蔵原に斬りかかった。だがなにぶん、少年は運動神経が鈍い。蔵原は咄嗟にサッと身をかわした。
「こいつ。なんて事をするんだ」
少年は蔵原の取り巻き三人に取り押さえられた。大声を聞きつけて、加子内親王が更衣室から顔を出した。
「蔵原君。あなただったのね。私の写真を撮ってミクシィに出しているというのは」
デジカメを持っている蔵原を見て加子内親王は言った。
結局、その事件は学校に知られることになった。公示は教員室に連れて行かれた。先生に聞かれて公示は、ありのままの理由を話した。公示は、すぐに警察署に連れていかれた。


警察署に連れて行かれた公示は、取調室に入れられた。取り調べの机と椅子だけの狭い部屋だった。しばらくして取調べの警部補が入ってきた。
警部補は、公示と机をはさんで向き合って座った。
「事情は聞いたよ」
警部補は穏当な口調で言った。
「君らのような国士がいてこそ、日本の未来は安心なんだよ。もちろん法を犯したのは悪いが、われわれにも君らの一片耿々の赤心はわかるつもりだよ」
公示は毅然とした態度で黙って警部補を見た。
「どうだ。お前も剣道三段だそうだが、こんなことをやらずに剣道に専念しておれば、あの道場で、俺と愉快にお手合わせもできたじゃないか」
その時、気合のような、裂帛の叫びが聞こえてきた。公示は、はじめそれを、剣道の練習だと思った。だが、よく聞いていると、どうも様子が違う。叫び声でも、それは、気合というより悲鳴だった。ここは警察である。公示はそれが、拷問されている人間の悲鳴であることに気がついた。公示はサッと顔色を変えて警部補を見た。
「そうだ。アカだよ。しぶとい奴はああいう目にあうんだ」
「私を拷問して下さい。今すぐ拷問して下さい。どうして私はそうして貰えないんですか。どういう理由で」
「まあ、落着け。落着け。莫迦なことを言うもんじゃない。理由は簡単だよ。お前は手こずらさないからだ」
「それは私の思想が右だからですか」
「それも多少あるが、右だろうと左だろうが、手こずらせれば、痛い目に会ってもらうほかはないよ、しかし、何と云ってもアカの連中は」
「アカは国体を否定しているからですか」
「その通りだ。それに比べれば、平岩、お前らは国士で、思想の方向はまちがっていない。ただ若くて、純粋すぎて、過激になったのがいかんのだ。方向はいい。だから手段をだな、もっと漸進的というか、一寸、ゆるめて、やわらげて行けばいいんだ」
「一寸やわらげれば別物になってしまいます。その『一寸』が問題なんです。純粋性には、一寸ゆるめるということはありえません。ほんの一寸やわらげれば、それは全然別の思想になり、もはや私の思想ではなくなるのです。ですから、薄めることのできない思想自体が、そのままの形でお国に有害なら、あいつらの思想と有害な点では同じですから、私を拷問して下さい。そうしない理由はないじゃありませんか」
「なかなか理屈を言うね。まあ、そう昂奮せぬものだ。一つだけ知っていてよいことがある。アカの連中には、ただ一人として、お前のように自ら拷問を願い出た者はいないということだ。やつらは皆受身なんだよ」


一週間後、平岩の第一回目の公判が行われた。
被告人、弁護人の冒頭陳述が行われた。公示は毅然として、自分の憂国の思いを述べた。だか裁判長は、公示の陳述が、精神論的すぎて、何を考えているのか、よくわからないといった顔つきだった。
裁判長。「つまりだな。なぜ志だけではいかんのだ。憂国の志だけではいかんのだ。その上、決行などという違法の行為を目ざさせねばならんのだ。そこのところを申してみよ」
平岩。「はい。陽明学の知行合一と申しますが、「知って行わざるは、ただこれ未だ知らざるなり」という哲理を実践しようとしたものであります。現下、日本の頽廃を知り、日本の未来を閉ざす暗雲を知り、農村の疲弊と貧民階級の苦痛を知り、これがことごとく政治の腐敗と、その腐敗をおのれの利としている財閥階級の非国民的性格にあると知り、おそれ多くも上御一人の御仁慈の光を遮る根がここにあると知れば、「知って行う」べきことはおのずから明白になると思います」
裁判長。「それほど抽象的でなくだな、多少、長くなってもよいから、お前がどう感じ、どう憤り、どう決意したか、という経過を述べてみよ」
平岩。「はい。私は少年時代には文学に専念していたのでありますが、だんだん文学というものに、いいしれぬあきたりなさを感じるようになってまいりました。しかし、自分がどういう行動をすべきだ、という風には考えが固まっておらなかったのであります。
日本の安全は危うくなったと学校でも教わりまして、日本をおおう暗雲は只事ではないと思い、それから先生や先輩から時局の話を伺ったり、自分でもいろいろ読書をするようになりました。
だんだん社会問題に目がひらけ、世界恐慌から引きつづいている慢性の不況と、政治家の無為無策におどろくようになったのであります。
二百万におよぶ失業者の群れは、それまで出稼ぎをして仕送りをしていたのが、今度は帰村して農村の窮乏をいやましにすることになりました。
これらの窮状をよそに、政治は腐敗の一路を辿り、財界はドル買いなどの亡国的行為によって巨富を積み、国民の塗炭の苦しみにそっぽを向いております。いろいろ読書や研究をしました結果、現在の日本をここまでおとしめたのは、政治家の罪ばかりでなく、その政治家を私利私欲のために操っている財閥の首脳に責任があると、深く考えるようになりました。
しかし、私は決して左翼運動に加わろうとは思いませんでした。左翼は畏れ多くも陛下に敵対し奉ろうとする思想であります。古来日本は、すめらみことをあがめ奉り、陛下を日本人という一大家族の家長に戴いて相和してきた国柄であり、ここにこそ皇国の真姿があり、天壌無窮の国体があることは申すまでもありません。
では、このように荒廃し、民は餓えに泣く日本とは、いかなる日本でありましょうか。天皇陛下がおいでになるのに、かくまで澆季末世になったのは何故でありましょうか。君側に侍する高位高官も、東北の寒村で餓えに泣く農民も、天皇の赤子たることには何ら渝りがないというのが、すめらみくにの世界に誇るべき特色ではないでしょうか。陛下の大御心によって、必ず窮乏の民も救われる日が来るというのが、私のかつての確信でありました。日本および日本人は、今やや道に外れているだけだ。時いたれば、大和心にめざめて、忠良なる臣民として、挙国一致、皇国を本来の姿に戻すことができる、というのが、私のかつての希望でありました。天日をおおう暗雲も、いつか吹き払われて、晴れやかな明るい日本が来る筈だ、と信じておりました。
が、それはいつまで待っても来ません。待てば待つほど、暗雲は濃くなるばかりです。そのころのことです。私が或る本を読んで啓示に打たれたように感じたのは。
それこそ山尾綱紀先生の「神風連史話」であります。これを読んでのちの私は、以前の私とは別人のようになりました。今までのような、ただ座して待つだけの態度は、忠誠の士のとるべき態度ではないと知ったのです。私はそれまで、「必死の忠」ということがわかっていなかったのです。忠義の焔が心に点火された以上、必ず死なねばならぬという消息がわからなかったのです。
あそこに太陽が輝いています。ここからは見えませんが、身のまわりの澱んだ灰色の光りも、太陽に源していることは明らかですから、たしかに天空の一角に太陽は輝いている筈です。その太陽こそ、陛下のまことのお姿であり、その光りを直に身に浴びれば、民草は歓声の声をあげ、荒蕪の地は忽ち潤うて、豊葦原瑞穂国の昔にかえることは必定なのです。
けれど、低い暗い雲が地をおおうて、その光を遮っています。天と地はむざんに分け隔てられ、会えば忽ち笑み交わして相擁する筈の天と地とは、お互いの悲しみの顔をさえ相見ることができません。地をおおう民草の嗟嘆の声も、天の耳に届くことがありません。叫んでも無駄、訴えても無駄なのです。もしその声が耳に届けば、天は小指一つ動かすだけで、その暗雲を払い、荒れた沼地をかがやく田園に変えることができるのです。
誰が天へ告げに行くのか?誰が使者の大役を身に引受けて、死を以って天へ昇るのか?それが神風連の志士たちの信じた宇気比であると私は解しました。
天と地は、ただ座視していては、決して結ばれることがない。天と地を結ぶには、何か決然たる純粋の行為が要るのです。その果断な行為のためには、一身の利害を超え、身命を賭さなくてはなりません。身を竜と化して、竜巻を呼ばなければなりません。それによって低迷する暗雲をつんざき、瑠璃色にかがやく天空へ昇らなければなりません。
もちろん大ぜいの人手と武力を借りて、暗雲の大掃除をしてから天に昇るということも考えました。が、そうしなくてもよいということが次第にわかりました。神風連の志士たちは、日本刀だけで近代的な歩兵営に斬り込んだのです。雲のもっとも暗いところ、汚れた色のもっとも色濃く群がり集まった一点を狙えばよいのです。力をつくして、そこに穴をうがち、身一つで天に昇ればよいのです。
私は人を殺すということは考えませんでした。ただ、日本を毒している凶々しい精神を討ち滅ぼすには、それらの精神が身にまとうている肉体の衣を引き裂いてやらねばなりません。そうしてやることによって、かれらの魂も亦浄化され、明く直き大和心に還って、私共と一緒に天へ昇るでしょう。その代わり、私共も、かれらの肉体を破壊したあとで、ただちにいさぎよく腹を切って、死ななければ間に合わない。なぜなら、一刻も早く肉体を捨てなければ、魂の、天への火急のお使いの任務が果たせぬからです。
大御心を揣摩することはすでに不忠です。忠とはただ、命を捨てて、大御心に添わんとすることだと思います。暗雲をつんざいて、昇天して、太陽の只中へ、大御心の只中へ入るのです。
以上が、私が考えたことのすべてであります」
勲の陳述が進むにつれ、そのしみの散った老いた白い頬が、次第次第に、少年のように紅潮してきた。勲が語り終わって、椅子に腰を下ろすと、久松裁判長はいそがしく書類をめくったが、これは感動を隠すための無意味な仕草であることは明らかだった。

一ヵ月後、第一審の判決が下った。判決主文は、
「被告人に対する刑を免除する」
というものであった。
刑法第二百一条殺人予備罪の但書きの、
「但情状に因り其の刑を免除することを得」
という条項が活きたのだった。

平岩は、その動機が純粋であることから保釈された。学校は一週間の謹慎処分となった。一週間して謹慎処分が解けると、もうこんなことは二度としないようにと厳しく先生に注意された。

しかし、その一ヶ月後、神道系の新聞にこんな記事が載ったのである。それは、蔵原武助が、関西銀行協会の会合で三重県に行った時、伊勢神宮内宮を参拝した時の態度である。蔵原は、参拝の前日、好物の松坂肉をたらふく食べ大酒した。翌日の参拝では、二日酔いのまま、祝詞の最中にも、背中が痒くなって、玉串を孫の手にして背中を掻いた。そして、宛がわれた床机の上に玉串を置いて、その上にお尻を乗せて座ったのである。
神官達は怒りを激しい感じ、そのことを皇道新聞に書いたのである。この憤りは公示にそのまま伝わった。
「何たる不敬なやつだ」
陛下を穀物神と信じている公示は、その態度が許せなかった。
その年の暮れになった。年末年始、蔵原は、熱海の伊豆山の別荘で過ごすのが習慣になっていた。公示は短刀を懐に忍ばせて、電車で熱海へ行き、伊豆山の蔵原の別荘へ向かった。周りの蜜柑畑に潜んで日が暮れるのを待った。日が暮れて、真夜中になった。決行の時が来たと公示は思った。
公示は、用意しておいた、七生報国と書いた血書の日の丸の鉢巻を頭に巻いた。
公示は、別荘に忍び込んだ。蔵原の寝室のドアのノブを回して、部屋に入った。見知らぬ人間の闖入に気づくと蔵原は驚いて立ち上がった。
「何者だ。何をしに来た」
蔵原は、身に危険を感じて後ずさりしながら叫んだ。
「蔵原武助。伊勢神宮で犯した不敬の神罰を受けろ」
公示は、猫のように背を丸め、右肘をしっかり脇腹につけ、短刀の柄を腰に当てて、蔵原に向かって体当たりした。短刀は蔵原の腹に刺さって、血が噴き出した。
公示は身をひるがえして屋敷を出て、海に向かった。走りに走った。蔵原の悲鳴と大きな足音で、おそるべき事態に気づいた蔵原家の者が急いで警察に通報したのだろう。パトカーのサイレンの音が鳴り響いた。
公示は、暗黒の穏やかな潮騒だけが引いては寄せる海を臨む断崖に、息を切らしながら正座した。そして学生服を脱ぎ、シャツも脱いで上半身、裸になった。行動の後にはすぐに死ななくてはならない。公示は、蔵原を刺した短刀を腹の前に握りしめた。
「日の出には遠い。それまで待つことは出来ない。昇る日輪はなく、けだかい松の木陰もなく、輝く海もない」
短刀の刃先を腹へ押しあて、左手の指先さきで位置を定め、右腕に力を込めて、力のかぎり突き刺した。
正に刀を腹へ突き立てた時、日輪は瞼の裏に赫奕と昇った。




平成23年6月17日(金)


参考文献=「仮面の告白」「奔馬」(三島由紀夫)。「倅・三島由紀夫」(平岡梓)

ラストの一部に、「奔馬」より引用。









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マネーの虎

2015-12-10 21:18:34 | 小説
「マネーの虎」

という小説を書きました。

ホームページ、「浅野浩二のHPの目次(1)」

http://www5f.biglobe.ne.jp/~asanokouji/mokuji.htm

に、アップしましたので、よろしかったら、ご覧ください。

(原稿用紙換算111枚)

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