小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

小田実

2013-09-22 02:51:35 | Weblog
You-Tubeで、「田原総一郎」で検索すると、昭和60年くらいの、戸塚ヨットスクールがあった時の頃の、討論会が出てきた。テーマは、日本の教育である。田原総一郎が司会をして、石原慎太郎と浜田幸一と、野坂昭如と、小田実が討論している。のが、出てきた。小田実は、作家で、代々木ゼミナールの教師をしていた。彼の論理なるものは、極めていい加減である。バカである。論理になってない。彼は、日本の学生が将来、なりたいものは、男は、みんなサラリーマンと言い、女は家庭の主婦だと言う。共産主義国家の子供の方が、バレリーナになりたいとか、まだ夢を持った人が多いという。だから、日本の教育は画一的でダメだと言っている。これは、軽く聞いていると、正しいように聞こえる面もある。しかし、これは論理になってない。

まず。サラリーマンになりたい、と高校生の、みんなが思うのは、悪いことなのだろうか。サラリーマンは平凡で、バレリーナのような、スターになりたい、と思うのが、夢を持った人間なのだろうか。まず。共産主義国家では、バレリーナになりたい、と夢だけ大きくても、それになれる人は、ほんの一握りの人間である。つまり、ほとんどの子供は、夢だおれ、で終わる。これがまず一点。

第二に。サラリーマンになりたい、と思うことが悪いことなのだろうか。昭和60年頃は、日本の景気は良かった。大企業は安定していた。結婚して子供を産み、家を持つために、勉強して、少しでもいい大学に入って、出来るだけ、いい会社に入りたい、と思うことの、どこが悪いのだろうか。ベンチャー精神を持って、自分が何か事業を起こすことの方がいい、というのだろうか。(そういう人は確かに、凄いと思うが)年功序列、終身雇用、の企業に入りたいと思うことが、夢のないことなのだろうか。当時の、高校生は、日本の現状を考え、生物的本能を考え、極めて妥当な将来の選択をしている、ように思う。それが一点。

第二に。高校生では、

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プロメイト14000X

2013-09-13 00:24:26 | Weblog
たまたま、整形外科への通院の道で、プロメイトという電子医療機器の無料体験会場があったので、試しにうけてみた。私は、わからないことは、胡散臭いと決めつけず、やってみる主義である。視床下部に作用し、血液をきれいにする、器具らしい。自律神経の疾患や、痛みに、非常に効果があるらしい。説明してる人、医療アドバイザーは、医学をかなり知っていて関心した。何回でも、受けれるので、もう3回うけている。だが、あまり効果はない。そもそも、整形外科のトプラという電子針は、打撲や捻挫に劇的に効くのである。だから、電子医療機器は効果があると、私は知っている。

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世の中の平均的な人間はバカである

2013-09-06 04:14:04 | Weblog
自由学園では、3000m級の登山が毎年、あった。私は高校一年の時、前穂高に登った。その一回だけである。その登山の足慣らしとして、その前に、秩父の方の山に登るのである。足慣らしの方が、本番の登山と変わりないくらい、しんどかった。秩父の山の山頂で小休止して、弁当を食べるのだが、それで当然、ゴミが出る。登山者は他にも多い。このゴミの扱いなのだが。ゴミは捨てないで、各自、持ち帰って下さい、と書いてあるが・・・。山頂に捨てては、景観が悪くなり、自分が悪いことをしているという感覚になるから、その下の藪だらけの勾配の急な崖の中に放り投げているのである。せめても、山頂の景観が悪くならないように、との偽善と欺瞞の心理からである。しかし、これは偽善と欺瞞であってバカである。山には、時々、ボランティアの人達が、山のゴミを拾う、ということをしている。ゴミは、山頂に捨てていってくれた方が、ゴミをかたずける人にとって、拾うのに極めて楽なのである。勾配の急な藪の中にゴミを放り込まれると、取りようがない。取るのは、極めて労力を要し、また危険でもあるので、藪だらけの勾配の急な崖の中に放り込まれたゴミは、取りようがないのである。これはゴミを捨てる人の偽善と欺瞞の心理からである。

ゴミは、捨てるのなら、堂々と山頂に捨てた方がいいのである。その方が、ゴミをかたずける人にとって有難いのである。登山して、山頂にゴミを捨ててしまうと、次に来た登山者が不快に思う、という、そして、せめても、そうしないようにとの偽善と欺瞞の心理から、目につきにくい、そして取りようがない、山頂の下の藪だらけの勾配の急な崖の中に放り投げているのである。

そういうようなことは、無数にある。

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佐山サトル

2013-09-03 21:05:13 | Weblog
You-Tubeで、佐山サトル、がシューティング部の大学生をしごくのを、再現した動画があらわれた。佐山サトルをからかっているのだが面白い。

一言でいって、佐山サトルは、叱り方、というか、厳しさの表現が下手なのである。佐山サトルは、元々、タイガーマスクの時から、そして、マスクをとってからも、優しい性格なのである。これは生まれつきのものである。タイガーマスクで人気絶頂の時、コーナーポストに颯爽と飛び乗ったのを小林邦明に足を引っ張られて、精神的に落ち込んでしまったくらいだから、精神的に野蛮人のように強くはなく、弱い面がある。しかし佐山サトルは、プロレスラーになりたいと、新日本プロレスに入門した。プロレスラーの練習の基本は体づくりである。ヒンズースクワットとか、腕立て伏せを500~1000回もやる。タフな体を作っておかないと、バックドロップなどの攻撃をされると脊髄を損傷してしまう。こういう厳しい訓練を、何としてもプロレスラーになるために、歯を食いしばってやってきているので、彼の、やる気、は本物である。しかしプロ経験者が、アマの、大学生のシューティング選手を、プロ感覚で、しごくと、必ずしも、正しい指導にならず、行き過ぎになってしまうことがある。大学生は、プロのように、体が出来ていない。そこに100%の力の発揮を求めると、怪我をしかねない。そして、ほとんどのスポーツでは、技の訓練は100%ではなく、80%位の力の発揮の方が上達するのである。また、大学生のシューター達は、佐山サトルが優しい性格であることを知っているから、まさしく、なめられる、そして、選手がだらける、ことを危惧したのだろう。そして、佐山サトル自身も、優しいだけではなく、荒くれ者のような性格も、オレは持っているんだぞ、ということを、ジキル博士とハイド氏のような豹変ぶりで、アピールしたかったのである。そこらへんが、再現者に、からかわれている所である。

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生きる意味

2013-09-03 20:02:12 | Weblog
生きる意味がわからない、という人が多い。

もちろん私も正確にはわからない。し、答えられない。

しかしヒントはある。物事は演繹的ではなく、背理法で考えた方がいい。もし、自動車事故で人を殺してしまったら、もし、自動車事故で、脊髄損傷になってしまったら、もし、事業に失敗して一億円の借金を作ってしまったら、あなたは、どう感じるだろう。

おそらく、こう思うだろう。

「生きる意味がわからない、などと悩んでいた自分は、なんと我が儘だったのだろう。なんにも要らない。生きているだけでいい。ご飯をおいしく食べられるだけでいい。夜、ぐっすり眠れるだけでいい。将来に悩まないで、生きられるだけでいい。それだけでいい。自由に動かせる手が二本、自由に動かせる足が二本、あるだけでいい」・・・と。

もし、生きる意味がわからない人がいたら、15階建てのビルの屋上の手すりの上を歩いてみるといい。

あるいは、命綱をつけて、高層ビルの屋上から、隣の高層ビルの屋上への、綱渡りをしてみるといい。

さて。その一方で。私は「全てのことに意味がある」などという、カッコつけた格言も大嫌いである。電車が脱線して、息子が死んでしまった、津波で親も家も仕事も失ってしまった人が、そんな格言、聞いたら、まず怒るぞ。

「全てのことに意味がある」とは、私は全く思わない。辛いことに、何とか意味を見出そうとする人は、立派だと思うが。

ただ、どうにもならない苦難の立ち場になっても、無心で何とか被害を最小限にくいとどめようとする人の姿は美しい。

私はペットを飼うのが大嫌いである。またペットを飼っている人も嫌いである。しかし、最近、家の近くで、うろついているビッコの野良ネコを見た。あの、野良ネコなら、飼ってもいい。とも思う。しかし、野良なので人間になつかない。しかし、仮に、なついたとしても、必ずしも、飼いたいとも思わない面もある。なんと誇り高い野良ネコなのだろう。なんと誇り高い生き物なのだろう。その誇りを奪いたくないのである。しかし、ペットショップでは、ビッコの猫など売ってはいまい。また、飼う人もいまい。

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